反連協のあゆみ 
10 珠洲原発計画「凍結」へ
2003年度の活動
  はじめに-珠洲原発「凍結」
 ついに来るべき時が来ました。
 2003年12月5日午前,関西電力・藤洋作,中部電力・川口文夫,北陸電力・新木富士雄の各社長が珠洲市役所を訪れ,同市の寺家,高屋両地区で建設を予定していた珠洲原発計画の「凍結」を貝藏治珠洲市長に正式に伝えました。つづいて午後には谷本正憲石川県知事と面会し,「凍結」への理解を求めました。
 また,3社は04年度の電力供給計画に珠洲原発を盛り込まず,長年にわたり地元を二分してきた原発計画に終止符が打たれました。
 1975年に珠洲市が誘致を表明して以来,通産省(現経済産業省)が原発推進と立地難から,電力会社の営業区域を超えた広域の開発立地を促し,1976年に関西電力,中部電力,北陸電力が構想を打ち出しました。現計画は出力135万kW級2基。政府の電源開発基本計画で「要対策重要電源」に指定されたのは93年。計画地は2カ所で,高屋地区を関電が,寺家地区を中電が担当。「金で人の心を買う」と言いながら地元への懐柔策を続けてきました。
 一方,珠洲原発反対連絡協議会【略称:反連協】の結成は1978年3月。「珠洲地区労」(現珠洲平和運動センター)と「社会党珠洲支部」(現社民党珠洲総支部),そして「新しい珠洲を考える会」が母体となり結成され,市内でもいち早く,原発の危険性や地域破壊性を市民に訴える運動を地道に展開してきました。81年4月には,反連協会長自らが「原発反対」を掲げて珠洲市長選に立候補し,善戦しました。
 89年に関電が高屋地区で立地可能性調査を強行してからは,反対派が現地での調査阻止闘争にねばり強く取り組み,調査を中止に追い込みました。また,寺家・高屋地区での土地の共有化も着実に進めてきました。さらに,「珠洲市長選挙無効」を最高裁が判断するなど,原発反対運動は珠洲市の民主主義そのものを問う運動へと発展していきました。99年には地元地権者の脱税事件を機に,関電がゼネコンなどを迂回して用地を手当てする過程で費用が6倍余に膨らんだ実態も露見していました。
 5日の記者会見で藤関電社長は「日本経済の低迷,経営環境の変化,用地確保の見通しが立たないことから苦渋の決断をした」と述べましたが,われわれの根強い反対運動が,電力会社に建設断念を迫ることになったことは明らかです。
 今日まで四半世紀にも及ぶ多くの先輩の献身的な活動は,原発に対する正しい理解を深め,原発拒否の世論形成に大きく寄与してきました。時には誹謗や中傷を受けつつも,この地に生きる歴史的使命を果たしたいとする思いが,多くの良識ある市民に受け入れられたのです。 
 反連協の第26回定期総会は,2003年6月20日(金),能登原発原告団事務局の多名賀哲也氏をはじめ,珠洲市議の新谷栄作氏,三崎町の河岸喜一氏,高屋の塚本真如氏を来賓にお迎えし,開催されました(代議員33名)。

1 2003年度の経過

(1)ドイツ原発廃止開始
 2003年11月14日,ドイツのシュターデ原発が稼働を停止しました。本原発は,2005年度半ばから約10年かけて解体される予定となっています。これは,2000年6月15日,脱原発を掲げたシュレーダー政権と電力業界の原発廃止合意に基づくもので,廃止第1号原発となります。
 ドイツは確実に脱原発へと歩み始めました。

(2)韓国の核廃棄物処分場問題(省略)
(3)東芝・石播が原子炉を輸出(省略)

(4)珠洲原発「凍結」
① マスコミを使った終焉策
 「珠洲原発計画 断念へ」の見出しが『北國新聞』一面トップに躍った2003年9月25日,貝藏市長ら推進派は上を下への大騒ぎとなりました。
 推進派の上田幸雄県議は谷本知事を訪ね事実関係をただし,珠洲市では市長が「寝耳に水の話だ」と憤り,地元駐在の北電・金森部長,中部電力・近藤部長,関西電力・前川課長に事実確認を要請しました。そして午後には「従来どおり進めていきたい」と記者会見を行いました。
 さらに各社の立地担当責任者である北陸電力・南信久立地環境部長,中部電力・森田人師環境・立地本部立地部長,関西電力・毛利哲立地室長を珠洲市役所に呼びつけ,夜の7時15分から市長や上田県議,小泊辰男市議会議長らと会談し,7時半からの記者会見にこぎつけました。もちろん狙いは「断念報道」の否定でした。この場で電力側は「計画断念を決めた事実はない,協議もしていない」と表明しましたが,一方で「立地可能性調査の再開は困難」との見解も繰り返され,珠洲原発の推進が現実的な課題とはなっていないことを対外的に印象付けることにもなりました。
 「断念」報道から1ヶ月後の10月24日,北陸電力の新木富士雄社長は,東京都内で会見し,3電力が共同開発する珠洲原発について,「電力需要が低迷しているうえ,地元の十分な理解が得られず,膠着状態が続いている。3社で総合的に勘案し,関係先と十分相談させて頂きたい」と述べ,断念を含めて計画を見直す考えを表明しました。これに先立ち,関西電力の藤洋作社長(電気事業連合会会長)も同日の会見で,「珠洲原発は厳しい状況にある。3社で慎重に話し合い,決めていく問題だ」と述べ,計画推進に慎重な姿勢を示しました。
 この発言報道を受け,再び市役所は大騒ぎ。先月に引き続き,推進派は3社の立地担当者を市役所に呼びつけました。しかし記者会見での電力会社の発言は前回以上に後退し,「総合的に判断したい」の一点張りとなり,逆に貝藏市長が調査再開について「非常に難しいと理解している」と発言せざるをえない状況となりました。貝藏市長は懇談後,「断念や撤退に向かう事実はないと確信した」と述べていましたが,断念の流れは打ち消せず,外堀が埋まり,内堀も次第に埋まりつつあるのは誰がみても明らかでした。
 そして12月5日。関西・中部・北陸の3電力の社長が珠洲市役所を訪れ,珠洲原子力発電所計画の「凍結」を申し入れ([資料38]),28年間にわたる珠洲原発計画にピリオドが打たれたのです。
② 揚水発電所も建設中止に
 中部電力は2004年3月3日,長野県大桑村と王滝村で計画していた揚水式の木曽中央水力発電所を中止する,と正式に発表しました。
 中部電力は2000年に芦浜原発(三重県)を断念し,さらに今年,関西,北陸の両電力と共同で進めてきた珠洲原発も凍結し,新規の原発計画がなくなり,電力需要も長期的な低迷が見込まれ,原発と揚水発電が連鎖的に中止される形となりました。

(5)巻原発計画も白紙に
 東北電力は2003円12月24日午前の取締役会で,新潟県巻町に計画していた巻原子力発電所の建設断念を正式に決めました。これは,建設予定地の確保が難しくなったためで,国の電源開発基本計画に組み込まれた原発の断念は初めてとなります。幕田圭一社長が同日午後に新潟県庁を訪ね,平山征夫知事らに建設断念を伝えました。
 珠洲・巻原発の断念は,地球温暖化防止のため将来的に原発依存を高めるという政府のエネルギー政策の見直しにつながるのは必至です。

(6)東京電力のずさんな原発管理(省略)
(7)六ヶ所村再処理工場(省略)
(8)使用済み核燃料中間貯蔵施設(省略)
(9)高レベル廃棄物処分場(省略)
(10)バックエンドコスト試算(省略)

(11)核燃サイクル事業コストの試算隠し
 「ないと思っていたが,探してみたらロッカーにあった」-そんな信じがたい説明とともに,10年前につくった重要な資料が経済産業省から出てきました。原発の使用済み燃料を再処理するか,そのまま埋めるか。その二つの方式のコストを比べた資料が隠されていたのです。この再処理のコストを計算したら,再処理せずに使用済み燃料を捨てる直接処分方式より2倍近くも割高となりました。2004年3月の参院予算委員会で経済産業省幹部が「試算はない」と答弁していましたが,それは真っ赤なウソだったわけです。
 さらに,電気事業連合会も,7月7日,使用済み核燃料を再処理せずに地中にそのまま埋める「直接処分」のコストを94~95年度に試算していたことを明らかにしました。これまでは「内部試算は存在しない」と事実と異なる説明をしていました。議論の基礎となるデータを公表せずに,重要なエネルギー政策を進める行政・電力業界の姿勢は,全く信用できません。

(12)プルサーマル計画(省略)

(13)原子力開発利用長期計画改定はじまる
 2004年5月,国の原子力委員会は原子力開発利用長期計画(長計)を改定し,核燃料サイクルの主な事業の実施時期を明確にしない方針を決めました。青森県六ケ所村に06年の操業めざして建設中の再処理工場以外は,大まかな方向性を示すだけにとどめることになりそうです。原発の使用済み核燃料の全量再処理の事実上の先送りとなります。2000年改定の現行の長計でも高速増殖炉など時期が示されなくなった事業はありますが,今回さらにそれがすすむことになります。

(14)原発の運転開始・事故などをめぐる情勢(省略)

(15)能登(志賀)原発をめぐる情勢
① 志賀原発2号機建設差し止め訴訟
■第18回口頭弁論(2003.9.4)
 第18回口頭弁論では,1級建築士の渡辺三郎さんに対する原告側の尋問が行われ,約3時間にわたって「原発震災の恐れ」について証言しました。
 渡辺さんは「95年に発生した阪神・淡路大震災は私たち技術者に大きな衝撃を与えた。それは,地震動の記録は重要構造物の設計に当たって用いられてきた想定を大きく超えるものだったからだ」と前置きした上で,「記録された揺れは,水平で55.1カインだが,志賀原発2号機の想定は最大でも13.5カインにすぎない。国の耐震設計の考え方は過去の知見に支えられたもので,原発震災は防げない」と明言されました。
■第19回口頭原論(2003.11.13)
 11月13日には,渡辺三郎証人に対する北電側の反対尋問が行われました。しかし,渡辺証言の核心部分には切り込めず,腰抜けな尋問に終始しました。国が耐震設計基準の見直しを検討中という事情が働いたものと思われます。
■第20回口頭弁論(2003.12.4)
 北電側は,これまで「ABWRの構造説明を行った証人だけで十分」としていましたが,第20回弁論の冒頭に「耐震性問題で新たに証人を出したい」と申請してきました。
 また,原告側が申請していた電力受給に関する長谷川公一証人を採用しないと井戸裁判長が決定した(11月13日)ことを受け,原告側の岩淵弁護士等が,再度,証人採用を求めて,再意見陳述を行いました。しかし,裁判官側は再度不採用として却下したため,裁判官忌避を申し立てました。
■第21回口頭弁論(2004.2.27)
 第21回口頭弁論では,たんぽぽ舎運営委員の山崎久隆さんがABWRの危険性について証言しました。「炉内に設置された再循環ポンプは,損傷すれば即,燃料棒損傷など炉内のトラブルに直結するなど新たな難問を抱えてしまったこと」「BWR,ABWRを問わず,ひび割れは深刻で,応力腐食割れは克服できていないこと」を指摘しました。
■第22回口頭弁論(2004.5.14)
 第22回口頭弁論では,山崎久隆さんに対し,北電側の反対尋問がありました。確信となるABWRの危険性の問題では,熱出力が1号機の2.5倍にもなるのにECCSの機能はわずかに強化されただけと逆に指摘。またひび割れ問題で北電側が提出してきた書証を逆手にとり,ひび割れの深刻さと国・電力の対応のひどさをさらに浮き彫りにしました。
② 検査合格証捏造問題
 経済産業省原子力安全・保安院は2004年5月21日,「国の検査代行機関である発電設備技術検査協会(本部・東京)が昨年8,9月に石川県で建設中の北陸電力志賀原発2号機の検査で,試験日を偽る虚偽記録などの不正をしていた」と発表しました。保安院は「試験自体は実施しており,公文書偽造などの刑法違反に問うまでの違法性はないが,手続きに問題があった」としています。
 保安院によると,不正があったのは,圧縮空気などを貯蔵する16個の円筒形機器の検査。協会が溶接表面の傷を調べる試験を実施し,合格証を出すことになっていましたが,実際には16個とも試験が忘れられたまま発電所に搬入され,うち12個は未試験なのに合格証も出されていました。
③ 2号機燃料搬入の動き
 6月11日早朝,北電は志賀原発1号機に,次回定検時に交換する核燃料92体を非公開のうちに搬入しました。これに対し,県平和運動センター・社民党県連合・能登原発訴訟原告団の三者は10日深夜から11日早朝にかけて,監視・抗議行動を実施しました。
 一方,2号機の核燃料が,この8月末にも搬入されようとしています。北陸電力の電気は余っており,2号機を稼働させる必要は全くありません。ABWRの安全性にも問題があります。核燃料搬入に抗議すると共に,2号機を稼働させないとりくみを続けていかなければなりません。

2 珠洲原発をめぐる情勢

(1)石川県議会に見る珠洲原発とその後
① 2003年6月定例会
 珠洲で原発推進派が「勝利」した統一地方選後初の県議会定例会が,2003年6月
16日に開催されました。
 一般質問で,谷本知事は,上田県議の質問に答える中で「私としては県民の皆さん方の生活の安全,安定を図るという見地からしますと,仮に電力会社が調査を再開をするという場合には何としても不測の事態,無用な混乱を避けるということが何よりも肝要であろう」と述べ,従来の慎重な姿勢を崩しませんでした。
② 2003年9月定例会
 9月24日,県議会第4回定例会の提案説明において,谷本知事は,電力会社がすでに珠洲原発建設は望んでいない状況であることを「著しい変化」という言葉で示しました。
 自民党の福村章県議でさえ,「時代の大きな変化によって電力需要が鈍化し,電力の自由化等によって電力会社に,もう電源立地の意欲はないのではないかといううわさがある。最終的には電源立地の当事者は電力会社である」と質問の中で自分の感想を述べています。この一般質問の日が,9月25日の『北國新聞』報道の1日前であることを考えると,やはり議員たちは,何らかの形で「珠洲原発はもう無理」と分かっていたのだと思えます。
③ 2003年12月定例会
 12月の県議会定例会は,12月10日に一般質問が終わっています。この間,珠洲市に電力3社の社長が来て「珠洲原発凍結」を申し入れており,まさに激動の中での県議会でした。
 原発亡き後の珠洲の振興策について谷本知事は,「まず珠洲市の過去にとらわれずに,どのような取り組みをしていくのがいいのか,その方針を主体的に決めていく必要もある」と珠洲市の主体的な動きが大切であるとの認識を示しました。
 さらに「これからも珠洲を見捨てないでくれ」という上田議員に応え,その振興策の中身について谷本知事は「珠洲市においては,もともと地域に根差したいろんな資源とか財産を活用する,そういう原点に立ち戻るということが必要なのではないのか」と,今まで他からの金に頼ってきた珠洲市執行部の姿勢を暗に批判し,「珠洲には豊かな自然,歴史に根づいたいろんな地域資源がございます。珠洲焼もしかり,キリコ祭りもしかり,海岸景観もしかり,農水産物もしかりということであります。こういったものに磨きをかけ,観光誘客やイベントの誘致による交流人口の増加ということを地域の活性化の一つのポイントとして考えていく視点が必要なのではないのか」と,地域にあるものを生かした振興策を模索していくべきだという見解を示しました。
④ 2004年2月定例会
 2004年2月27日の一般質問で,谷本知事は「首長さんは大いに汗をかき,誠心誠意努力をし,住民の皆さん方が住んでよかったという思いを醸し出していくための環境整備が何よりも大事であるし,そのことが地域のかじ取りをゆだねられたリーダーとしての責務ではないか」と貝藏珠洲市長自らが住民の融和を作り出すべきであると指摘しました。

(2)輪島市議会の動き
 2003年9月18日,輪島市議会は9月議会の最終日,「珠洲市の原発立地計画の白紙撤回を求める意見書」を賛成多数で可決しました。珠洲原発に関してこのような意見書が可決されたのはこれが初めてです。
 意見書を提案したのは輪島市漁協の婦人部長で同年4月の選挙で初当選した新木順子議員。賛成したのは宮地治氏系列の保守系会派「輪生会」の8人と共産党の1人。反対したのは自民党県連幹事長の北村茂男県議系列の保守系会派「市政会」の8人で,社民党の園又輝夫氏は退席しました。
 この意見書の採択をめぐり,保守系の「輪生会」と「市政会」という2つの会派の思惑が絡まり,県議選のしこりが表面化ました。そこで,園又社民党市議は,輪島市民の総意を取り入れ「あくまでも全会一致での案をまとめたい」との思いで,折衷案として「珠洲原発」という言葉が入らない-しかし反原発の趣旨を明確に盛り込んだ修正案-「環境にやさしいエネルギー政策の推進を求める意見書」を対案として示しました。が,調整は不調に終わり,最終的には採決となり,園又議員は反原発という意志を持ちながらも「退席する」という対応をせざるを得ませんでした。
 今回の意見書を巡る輪島市議会の動きは「珠洲原発問題が政争の具に利用」されてしまった感があり,輪島市民の大方の意見を反映したとは言えませんでした。

(3)内浦町議会の動き
 内浦町議会9月定例会最終日の2003年9月24日,田形功町長は珠洲原発の立地計画について「海洋深層水事業に影響を与える」としつつ「まず珠洲市民が考える問題。珠洲市や県の動向を見守る」と慎重な姿勢を示しました。
 新谷功前町長も3月定例会で「海洋深層水事業を進める中,少なからず懸念している」と述べており,田形町長は前町長の姿勢を継承する方針を示しました。
 このように珠洲原発計画は近隣市町村にとっても迷惑以外の何者でもありません。

(4)珠洲市議会に見る珠洲原発とその後
① 2003年3月定例会
 2003年3月10日の一般質問には7名が立ちました。
 旧珠洲市民会議の小谷内毅議員が「原子力発電所誘致を決議したのも電力会社が建設を申し入れたのももうずいぶん前の話。時代は変わっており,珠洲に原発を立てなければならない経済的な理由はすでにない」と,「原発が建てばなんとかなる」という市長の考えが既に古くなっていることを指摘しました。
 しかし,貝藏市長は「いずれの時点においても,雇用機会の創出や地域経済への効果など,さまざまな分野で計り知れない大きな波及効果がある」と従来の考えをくり返すだけでした。
② 2003年6月定例会
 2003年6月9日,10氏が一般質問に立ちました。4月の統一地方選後初の一般質問で9名が原発問題に触れ,激しいヤジが飛ぶ場面もありました。
 推進派が「今回の県議選,市議選で住民合意はできた。立地可能性調査の再会を」と求めたのに対し,反対派は「先の選挙は,原発問題が争点とはならなかった。どちらにしても建設に向けて動かないという状況判断があった」と述べました。
 貝藏市長は「住民合意は得られたと思う。調査の早期実現に向けて努力する」と答弁しました。
 また,新谷栄作議員が「谷本知事のいう住民合意とは,関係漁協の同意,用地の確保状況,関係団体の動向,反対運動の状況,そして選挙の結果などを総合的に判断するというものです。市長の言う住民合意とは,知事の言う住民合意と同じなのか違うのか,独自の判断基準があるならば,この際明らかにしていただきたい」と貝藏市長の住民合意のとらえ方を質問しました。
 これに対し市長は「漁業のお話やら地権者のお話などがありましたが,確かにですね,地権者については100%合意が私は必要かというふうに思っておりますが,そのほかの皆さん方に,これからは,さらに各種団体の皆さん方あるいは関係の方々,一人でも多くの皆さん方の理解と協力を得るべく努力をしてですね,先程からお話しをしておりますように,国・県あるいは電力会社と十分連携を密にしながら,一日も早く調査が出来るような,そういう努力をしてまいりたいというふうに思っておりますので,よろしくお願いをいたしたいと思います。以上,答弁といたします」という「答弁」をして,その場をやりすごしました。「全く住民合意には達していない」ということを認めるわけにもいかない苦し紛れの「答弁」となりました。
③ 2003年9月定例会
 2003年9月17日,珠洲市議会一般質問が行われました。質問に立ったのは,8氏。
 旧珠洲市民会議の赤坂敏昭議員が「珠洲電源開発協議会の立地部員数が,51人から16人減の35人となり,電力会社を取り巻く経営環境は年々厳しくなっている。この状況を市長はどう受け止めているのか」「出来もしないことを言い続けてきた市長の責任を明確にするときがきたと思うが」と貝藏市長の考えを質しました。
 これに対し市長は,電力会社の経営状態が厳しくそれが珠洲現地にも及んでいることを認めながらも,「出来もしない」という点に対しては,「これまでどおり進めていくだけだ」と述べました。
④ 2003年10月臨時会
 貝藏市長は10月8日に開かれた市議会10月臨時議会の議案説明に先立ち「所感の一端述べる」として,電力会社の撤退報道を否定,推進姿勢をあらためて強調しました。
 臨時議会において,提出議案とは関係のない原発問題にあえて言及したのは,それだけ市長を始めとした推進派内にこの「断念報道」に対する動揺が大きく広がっていた証拠だといえます。
⑤ 2003年12月定例会
 12月定例会は,12月15日に一般質問が行われました。12月5日に電力3社から「珠洲原発凍結」を言い渡された直後の市議会ということもあり,市長の責任を問う質問が原発反対派の議員から出されました。
 貝藏市長は「これから一丸となって,新しいまちづくり,そして今まで取り組んできたいろんなノウハウを生かしてやっていくことが,私に与えられた責務であるというふうに思っております」と述べるにとどまり,「珠洲原発のみが珠洲の活性化につながる」と住民をあおってきた自身の責任に言及することはありませんでした。
 また,自民党清和会の小林議員から「難問山積の当市にあっては,並大抵のことでは地域振興は図られません。ここでしっかり踏みとどまり力を発揮できるのは貝藏市長あなたしかいらっしゃいません」とエールを送られた貝藏市長は,3期目への決意を述べました。
 さらに,貝藏市長は,現在の電源立地対策課について,「年度末3月31日に電源立地対策課を解消をしたい」と述べました。
 原発問題無き後も,電力からの慰謝料を要求してはばからないなど,電力等に依存する体制はなんらかわらず,だれも責任をとることのない珠洲市の姿が明らかとなった市議会でした。

(5)珠洲市の動き
① 『広報すず』にみる推進の動き
 2002年度は「魚ッチング…電源立地の潮風」というコーナーで,電源立地に取り組んでいる自治体の「金で潤う姿」を紹介していましたが,2003年度は「エネルギー宅配便」として装いも新たに「全国の電源地域で活用されている電源立地交付金による地域振興の事例を紹介」するコーナーを連載しています。しかし,この特集は,12月号で終了。
 2004年1月号では「新たなまちづくりに向けて」と題して,9月25日の『北國新聞』の「断念」から,12月5日の電力3社の社長との会談や記者会見のやりとりなどのことが,詳しく取り上げられています。
② 9月25日以来の珠洲市の動き
 9月25日の『北國新聞』1面記事以来の動きについて,『広報すず2004年1月号』から抜粋して紹介しておきます。
■9月25日
「関西・中部・北陸の電力3社が珠洲原発計画断念」と一部新聞報道
・市の対応…電力3社の本社原発立地責任者(立地部長)を招き,事情を確認。
・電力の回答…3社の部長は,「従来どおり取り組んでいきたい。断念・撤退を決めた事実はない」と発言。(市長,3社の本社立地部長が記者会見)
■10月25日
「北陸電力・新木社長,珠洲原発について計画断念を視野に検討」との一部新聞報道。
・市の対応…電力3社の本社原発立地責任者(立地部長)を招き,事情を確認。
・電力の回答…3社の部長は,「珠洲原発に対する考え方は9月25日に確認した通り。そのような事実はない」と発言。(市長,3社の本社立地部長が記者会見)
■11月28日
「珠洲原発計画凍結か。来週にも断念申し入れ」との新聞報道
・市の対応…電力3社の本社原発立地責任者(立地部長)を招き,珠洲原発に対しての姿勢をただす。
・電力の回答…3社の部長は,「先に確認した通り,そのような事実はない。珠洲原発の全てのことについては,最初に市長に報告する」と発言。(市長,3社の本社立地部長が記者会見)
■12月4日
電力3社の現地部長から,「5日に3社社長が珠洲市を訪問したい」との連絡を受ける。
■12月5日
・市の対応…電力3社の社長に対し地元への配慮,市民への誠意ある対応,今後の地域振興への協力を強く要請。高屋,寺家予定地に市長が出向き,電力からの申し入れについて説明。
■12月8日
電力3社の常務が珠洲市を訪れ,市議会や関係団体などに「凍結」にいたった事情などを説明。計画地点の高屋地区では関西電力が,寺家地区では中部電力がそれぞれ出向き,説明会を開催。寺家地区では,急遽川口社長が訪れ,地区のみなさんに事情を説明し謝罪。
■12月20日~23日
市内全地区に市長が出向き,電力からの「凍結」の申し入れなどこれまでの経緯と,今後の地域振興策についての説明会を開催。
③ 「なぜなに科学教室」と「珠洲市産業まつり」
 夏休み恒例?の移動科学館「ぼくとわたしのなぜなぜ?科学教室」が2003年8月9日から2日間,健民体育館で開催されました。大勢の家族連れでにぎわったそうですが(『広報すず9月号』),この催しが「珠洲市が原発建設予定地であるからこそ<タダ>で行われているのだ」ということを知っている子どもたちはどれくらいたのでしょうか。予想通り,2004年の夏には,この催しは開かれませんでした。
 また,10月25日から2日間,第12回珠洲市産業まつりも盛大に開催されました(『広報すず12月号』)「ふるまい鍋」がなぜタダなのかを知っている高校生はどれくらいいたのでしょうか。

(6)推進派の動き
① 珠洲電源開発協議会
 関西・中部・北陸の電力3社は2003年7月1日までに,珠洲電源開発協議会の立地部員を従来の51人から35人に減らす異動を発令しました。16名の大幅減であり,ピーク時の約4割となりました。同協議会の金森部長が,いくら「立地計画の後退ではない」と言おうが,本社が既に「珠洲原発の立地計画を進められる状況ではない」ということの現れでしょう。統一地方選に勝ったと豪語し,これで珠洲原発建設は一挙に進むと期待した推進派とは違い,当の電力会社は着実に珠洲原発計画からの撤退を進めていたのです。
 また,「珠洲原発凍結」を申し入れた12月5日の記者会見での「珠洲電源開発協議会を今後どうするのか」という質問に対し,川口中部電力社長は「引き続き継続する」と述べています。この「珠洲電源開発協議会」の今後の動きについては,注視していかなければなりません。
② 珠洲原発推進調査研究会
 『北國新聞』によると,「珠洲電源立地調査研究会は,2004年2月24日開かれた執行委員会で3月末の解散を決めた」ということです。
③ 珠洲電源立地オピニオンリーダー協議会
 珠洲電源立地オピニオンリーダー協議会の臨時総代会が2004年2月25日,珠洲商工会議所かで会員ら約90人が出席して開かれ,珠洲原発の立地断念を受けて活動の意義が無くなったとして,3月31日付で同協議会を解散することを決定しました。会員1298名という珠洲市一の推進団体は,役割を終えたのです。

(7)反原発運動の状況
① 珠洲原発計画「凍結」の日
 2003年12月5日,電力3社の「珠洲原発凍結」の申し入れを受けて,当日の夜,旧蛸島漁協前の会館で「珠洲原発反対ネットワーク」の会合を開きました。
 反対派の市民約100人が集まりました。北野進元県議は「電力は『自由化の波を受けた断念』と言っているが,違う。我々の28年の運動に誇りを持っていい」と,時折,涙を浮かべながら“勝利宣言”をすると,大きな拍手に包まれました。また,市長選に2度出馬した樫田凖一郎氏は「まるで選挙に勝ったみたいで,正直うれしい」と述べ,旧蛸島漁協の歴代婦人部長たちも「きょうまで長かったけど,本当によかった」と声を詰まらせていました。
 また「市民が一丸となって」「推進・反対の溝を埋めて…」という雰囲気が市長周辺から出されていることに対して,「“アカ”呼ばわりされてきて,非国民といわれて,今更何を!」「今まで受けてきた差別的なものを忘れるわけにはいかない!」「これは孫子の代まで引きずるだろう」という意見もたくさん出されました。
 ネットワークは,この日,「珠洲原発『凍結』は事実上の断念と受け止める」との声明([資料39])を発表しました。
② 珠洲市長選
 2004年6月の珠洲市長選に向け,今までの原発推進一辺倒の政策に対する責任を一切とろうとしない現職に対抗するため,珠洲原発反対ネットワークを中心に候補者選びを続けていましたが,4月23日,声明を発表し,反対派からの立候補を断念しました。
 しかし,無競争当選をさせるわけにはいかないと,水面下で新たな動きを模索していた若者市民グループの中から,6月1日,前珠洲市議の小谷内毅氏が立候補を表明しました。
 小谷内氏は折戸町の海岸で会見し「原発後も電力に頼ろうとしている」と電力3社に地域振興基金への拠出を求める貝藏市政を批判し,「原発が終わりここでけじめをつけて新しい人でやるのが筋。足下を見つめ,自分たちの力でまちづくりをしたい」と決意を語りました。
 また,選挙運動も従来のような事務所を設けたり,決起集会を行ったりということはせず,お金のかからない,勝手連に期待する運動形態をとりました。
 市民の間には,現市長が継続していくことに不満を持っている人も多く,選挙結果が注目されましたが,開票結果は「貝藏治氏 8428票,小谷内毅氏 5497票」となり,現職が3選されました。
 しかし,小谷内氏がほとんど選挙運動らしいことをせずに5000票以上獲得したことは,現職に対する不満が市民の1/3以上はあるということであり,貝藏氏も「批判票は謙虚に受け止める」と述べざるを得ませんでした。

3 反連協の取り組みと経過

(1)第8回「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」の開催
 2003年11月1日(土),蛸島漁協において,「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」が行われました。今年で8回めとなるこの催しは,市民の間にもすっかり定着しました。
 新聞紙上で何度か「珠洲原発撤退」のニュースが流れた中での「秋祭り」となり,笑顔でいっぱいの催しとなりました。
 会場は「秋祭り」の原点に戻り,鉢ヶ崎の多目的広場にもどしました。本部では,旧市民会議が作成したパンフ『原発に代わる町おこし-市民会議の提言』(2002年3月発行)を配布したところ,いろんな人が手に取ってくれました。
 市民自らがつくるイベントという形ではじめた「豊かな自然を守る秋祭り」でしたが,<行動することで地域は活発になっていく>ことを少しは証明できたと思います。

(2)珠洲原発反対ネットワークへの参加
 反連協は,この1年も,毎月1回の割合で行われたネットワークの会合に参加して来ました。そこでは,高屋・寺家の現地,さらに各町での推進の動きや問題を出し合い,交流してきました。第8回「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」や各種の集会には,ネットワークの人たちと度々会合を持ち,協力して取り組みました。また,珠洲市長選に関わっての会合にも代表が参加してきました。
 2003年 6/30,9/18,10/10,11/22,12/5
 2004年 1/30,2/27,3/18,6/3
 反連協は,毎月,原発建設予定地の寺家・高屋にチラシを手配りするなど,地道な活動を続けてきました。そして,89年の高屋での事前調査阻止闘争を境に珠洲原発反対ネットワークが結成されると,反連協はオブザーバーとして参加。ある時には労働組合(反連協)が主体となり,またある時には市民団体が主体となって,各種の講演会や集会・デモ,そして申し入れなどを行ってきました。珠洲原発計画が「凍結」となったのは,このような反対運動を続けてきた成果だといえます。

(3)情宣活動
① チラシの折り込み
 この1年で2回の新聞のチラし折り込みをしてきました。
 2003年 8月15日 表:電力会社や国が今欲しいもの
             裏:珠洲電開協も自ら縮小へ
    10月26日 表:着実に進む脱原発の流れ
            裏:四半世紀を経て原発に反対する私たちの主張
 一般のマスコミにはなかなか載らない「脱原発の情報」や「珠洲原発をめぐる状況」などを広く市民に知らせるために,チラシを作成・配布してきたことは,運動のかなめのひとつでした。
② 街宣活動
 街宣活動は地道な運動ですが,「反連協の車が通ると安心する」と言われるように,「反対派の運動」の大切な取り組みの一つです。2003年6月,街宣車を新調し,今まで以上に市内を回りました。 主な街宣活動は以下の通りです。
2003年 7月21日(月) のとピースサイクル伴走
      9月25日(木) 市内街宣
      9月27日(土) 市内街宣
     10月26日(日) 市内街宣[反原子力の日]
 2004年 7月19日(月) のとピースサイクル伴走
 街宣活動もチラシ折り込みと同様,原発が抱える問題点を市民に知らせることができました。
③ 看板
 昨年度,新しく設置した内浦の看板を含め,反連協が設置責任者となっている道路脇の看板は4カ所ありました。
 珠洲原発計画「凍結」を受け,今までの看板の果たしてきた役割に感謝しつつ,正院川尻の定谷宅前の看板は撤去しました。その折,定谷さんは,看板を掲げてあったことに対する嫌がらせの話よりも,原発反対運動から生まれた人との繋がりのお話を楽しく聞かせてくれました。
 あと3カ所の看板は,基礎が頑丈で簡単には撤去できません。しばらくは「ここに原発問題があったのだ」ということを忘れないためにも掲示を続けますが,今後は,看板の有効な利用法を考えていかなければなりません。

(4)集会等への参加
① 藤田祐幸報告会
 2003年11月14日,珠洲市平和運動センター及び内浦町平和運動センターは,珠洲労働会館において,慶応義塾大学の藤田祐幸氏を招き,「イラク劣化ウラン弾報告会」を開催しました。
 一般のマスコミでは報告されないイラクの生々しい実態の報告を受け,アメリカの攻撃で被曝者が広がっていく現実に,何もできないもどかしさを感じるとともに,ブッシュの力に任せた政策とそれに追随する小泉政権に対し,憤りを覚えました。
② ピースサイクルとの交流
・2003年7月21日
 「のとピースサイクル」の一行が,2003年7月20日~21日の日程で,志賀町赤住の志賀原発から珠洲市までの能登路を駆け抜けました。のとピースサイクルは,関電の立地可能性調査を阻止した翌年の1990年から始まり,2003年で14年目となります。運動が上潮のときも逆風のときも,毎年,珠洲をはじめとした能登の人たちに,「原発反対頑張れ!」と声援を送りつづけてきてくれました。
 反連協からは柳田会長らが伴走し,一緒に原発反対をアピールして走りました。今回は,蛸島から,教組青年部が2名いっしょに自転車で走りました。懇親会も8名参加し,代表から珠洲の運動へのカンパもいただきました。
・2004年7月19日
 珠洲原発が「凍結」となったあとも,「のとピースサイクル」の一行が来てくれました。今年は,反連協の街宣車の伴走だけでなく,千枚田から河原さんはじめ教組青年部の3名が自転車でいっしょに見附海岸まで走りました。
 お昼は,高屋の塚本さんのお寺で頂きました。
 夜の懇親会には,反連協から8名が参加し,交流を深めました。そこでは,今後の「のとピースサイクル」の在り方について,熱い意見が交わされました。
 ピースサイクルの今までの活動に対し,反連協からは,カンパを渡しました。

(5)署名活動
 原子力資料情報室からの要請を受け,長尾光明さんの原発内作業による「多発性骨髄腫」認定を求める署名に取り組みました。
 結果,福島の富岡労働基準監督署は,業務上疾病として認め,休業補償給付支給を決定しました(労災認定)。
 原発のヒバクでの労災認定は,多発性骨髄腫では初めてです。白血病で過去5人が労災認定されていますが,白血病以外の多発性骨髄腫,悪性リンパ腫など関連する疾患の認定の道を開く可能性のある判断といえます。
 今後も,幅広く他地区と連帯する運動を続けていかなければなりません。

(6)申し入れ
 珠洲原発計画「凍結」を受け,珠洲電源開発協議会(電開協)に申し入れを要求しましたが,電開協側は「すでに珠洲市に対して原発計画からの撤退を申し入れており,今は,残務整理をしているところ。貴協議会と懇談する立場にはない」と,申し入れを受け入れませんでした。


2004年度の活動
 2004年度の反連協第27回定期総会は,2004年8月24日(火)に開催されました。社民党石川県連の清水文雄氏をはじめ,地元の橋本礼次珠洲市議,高屋の塚本真如氏,三崎町の赤坂敏昭市議を来賓にお迎えし,26名の代議員の参加で行いました。
 2003年12月の珠洲原発計画の実質断念を受け,反連協の解散を視野に入れた総会となりました。

1 2004年度の活動方針

 反連協の規約には,その結成の「目的」について以下のような記述があります。

(目的)
第2条 この会は,珠洲市に計画される原子力発電所(以下原発という)建設に反対し,もって市民の健康と生活を守り,自然環境の保全につとめることを目的とする。

 反連協結成以来,上記の「目的」に沿って活動を展開してきたのですが,これまで述べてきたように,珠洲原発計画に関わる活動のみを行ってきたわけではありません。この間,原発反対の意志を持つさまざまな方々と連帯し,その時々の課題について共に行動してきました。各種集会への参加,カンパ活動,署名活動,情宣活動など,日本のみならず,世界の原発をめぐる状況を受けて,反連協の活動がありました。
 珠洲原発計画の断念を受け,本協議会の初期の「目的」は,達成されたことになります(それは同時に協議会の「目的」を失うことにもなります)。そこで,第27回総会では以下のような活動方針を決定しました。
<活動方針>
 2001年9月11日のテロにショックを受けた米国ブッシュ政権の,「紛争を解決する手段として」軍事力に頼った政策は,「解決」を生み出すどころか,イラクやアラブの人たちに米国に対する憎悪を植え付けただけでした。憎しみからは,新たな憎しみしか生まれない状況が,今のイラクの姿です。
 一方,日本の小泉政権は,米国追随の政策を押し進め,ついに自衛隊をイラクに派兵しました。自衛隊が駐屯しているサマーワでも,死人まで出ており,決して「非戦闘区域」ではありません。しかし,小泉首相は依然として自衛隊を帰国させようとしません。
 また,在日米軍のヘリコプター墜落事故で、米軍は沖縄国際大構内などに散乱した機体の回収・撤去をさっさとはじめ,沖縄県警は何も手を出せませんでした。これでは,日本は米国の属国と言われても仕方ありません。
 一方,原子力発電所をめぐる状況も,この1年で大きく変化しています。昨年末の電力3社(関電・中電・北電)による珠洲原発計画「凍結」をはじめ,1月には東京電力が巻原発断念を決定しました。さらに,東通原発や敦賀原発の新規立地もその計画は延び延びになっています。
 また,六ヶ所村で計画されている再処理工場のウラン試験運転も,度重なる電力の不祥事で延期されています。
 さらに,美浜原発3号機で起きた蒸気噴出事故では,4名の死亡者まで出し,国内最悪の原発事故となりました。この余波は他の原発にも及び,関西電力はすべての原発を止めて配管の検査をすると表明せざるを得ませんでした。
 バックエンドに関する予算は膨大となり,直接処分の方が圧倒的に経済的であることも判明しました。もう原発の危険性や非経済性は誰の目にも明らかとなっています。これ以上,原発事故の危険を発電地域に押し付けてよいはずがありません。
 電力の自由化を来年にひかえ,私たちは脱原発を実現し,子どもたちに原発も核もない豊かな世界を渡していく道を選び取らなければなりません,それはまた,電力会社の重荷を軽くし,省エネを進める道でもあります。
 珠洲原発計画が事実上の断念となった今,この流れを全国に広め,再処理工場の稼働を阻止し,新たな原発建設計画の中止,さらに現在稼働している原発の順次停止,そして廃炉へと進んでいかなければなりません。

 1 原発に係わる新たな動きが再現しない限り,今後1年以内を目処に,反連協の解散総会を開催し運動の総括を行います。そのため『反連協27年の記録』(仮称)の発行に向け,編集委員会を結成し,編集作業を進めます。また,屋外看板(3箇所)の有効な再利用方法を模索します。

 2 電力3社でつくる「珠洲電源開発協議会」が解散し,珠洲における原発構想が完全に断念されたことが確認できるまで,監視を続けます。

 3 使用済み核燃料中間貯蔵施設等,原子力関連施設の受け入れの動きがあったときには,組織の総力を挙げ,広く市民に呼びかけ阻止闘争を進めます。

 4 珠洲原発反対ットワークや他の団体等との交流・学習活動を継続していきます。

 5 能登(志賀)原発にかかわる運動をはじめ,石川県平和運動センターの呼びかける運動には,積極的に参加します。

 6 ピースサイクルなど県外の団体の運動にも可能な限り協力・支援します。

2 反連協の取り組みと経過

(1)珠洲原発ネットワークへの参加
 2005年1月22日(土),ネットワークの新年会が開かれました。反連協からも7名が参加しました。新年会は,北野進前県議の著作『珠洲原発阻止へのあゆみ』出版記念パーティーも兼ねており,出版元である七つ森書館の中里英章氏や,原子力資料情報室共同代表の西尾漠氏らの姿もありました。
 4月2日(土),89年に設置した高屋見張り小屋の解体作業を行いました。反連協からは6名参加が参加しました。一つの歴史が幕を閉じました。

(2)反連協解散に向けて
① 街宣車・看板の整理
・街宣車
 街宣車については,新車を購入(03年)してからまだわずかしかたっていないこともあり,希望者に売却することにしました。幸い買い手が見つかり,2004年11月10日付けで売却しました。
・看板
 看板の再利用を模索し,いくつかの方面にあたってみましたが,話がまとまらず,すべて解体・撤去することにしました。
② 『反連協の歩み』の発行
 珠洲電源開発協議会の解散('05.3.31)を受け,反連協も解散の準備に入りました。解散までに,反連協の歴史をまとめた『反連協の歩み』を制作することにし,柳田達雄会長,砂山,柳谷,谷内,尾形の5名を編集委員として選出しました。
 編集会議は,2005年3月10日,3月31日,5月20日,8月26日,9月12日の5回行っています。『反連協20年誌』(未刊)用に寄せられた文章と,反連協の「総会議案書」を元に編集・制作しました。
③ 解散総会
 1978年3月25日に発足した反連協は,結成の目標を達成し,解散することになりました。2005年10月29日(土),飯田町の陽慶閣で解散総会を行う予定です。

(4)集会等への参加
① 志賀原発2号機核燃料搬入抗議行動(’04.9.29,11.2) 
 2004年9月29日,志賀原発2号機の初装荷核燃料の1回目の搬入(264体,トラック
15台)があり,120名が現地での抗議行動に参加しました。また,第2回目の搬入(312体)が11月2日にあり,60名余りが現地で抗議行動を行いました。反連協からも柳田会長,柳谷氏が参加しました。
② 第10回フォーラム石川(羽咋,'04.11.13)
 11月13日,羽咋市文化会館3階大ホールで県勤労協連合会と羽咋市勤労協主催,命のネットワークの協賛により,「電力自由化…そして原子力は-エネルギー政策の転換を考える」と題して,第10回フォーラム石川が開催され,珠洲からも2名が参加しました。九州大学大学院教授の吉岡斉氏が講演し「再処理工場も早晩破綻する」と指摘されました。
③ 「もんじゅを廃炉へ! 全国集会」(敦賀市,'04.12.5)
 12月5日,もんじゅのある敦賀市白木海岸に全国から900名が参加して,「もんじゅを廃炉へ!全国集会」が開かれました。海岸での集会を行ったあと,もんじゅ前で抗議文を手渡し,バスで美浜原発前まで移動し「人間の鎖」をつくって抗議行動をしました。そのあと,敦賀市民文化センターで「講演と現地報告」が行われました。反連協からも5名が参加し,交流を深めました。
④ 志賀原発2号機試運転反対! 4.23集会(’05.4.23)
 2005年4月26日,北陸電力は志賀原発2号機の試験運転を強行しました。これに先立つ23日、試運転に反対して,県平和運動センターは「4.23集会」を開催しました。反連協からも2名が参加しました。   
⑤ 反原発全国交流会(京都市,'05.5.28~29)
 5月28日,京都JA会館で反原発運動全国連絡会主催の「反原発全国交流会」が開かれ,反連協からは,砂山,柳谷の両幹事が参加し,「差別のあるところに原発問題が起こり,原発問題が終わっても差別が残った」と報告しました。


  反連協のあゆみ