反連協のあゆみ 
5 調査阻止の闘い
1989年度の活動
  珠洲原発反対連絡協議会の第12回総会は,1989年5月18日(木)午後5時30分から珠洲労働会館で開催されました。関西電力による高屋での「可能性調査」の強行という新たな事態(5月11日夕方記者発表,翌12日から作業の強行)の中で,まさに反連協の存在意義をかけた闘いが迫られることとなりました。
 この総会には,「止めよう原発!珠洲市民の会」をはじめ寺家・高屋からの代表も迎えることができ,まさに住民運動と一体的に原発阻止を闘っていく契機ともなりました。県評からは前後和雄氏が出席されたのをはじめ,衆議院議員の島崎ゆずる氏,社会党県本部の池田健委員長,内浦地区労,中村内浦町議からもメッセージが寄せられました。反連協の特別幹事でもある国定市議からも報告と挨拶がありました。
 「可能性調査」の強行という事態の中だけに,議事に入ってからは,積極的な意見が続出しました。この総会では,前年度の経過報告,今年度の活動方針などのほか,規約改正についても提案され,いずれも原案通り決定しました。

1.活動方針
<情勢分析>(世界・日本の状況については転載を省略)
 珠洲原発をめぐる状況は,去る5月12日の関西電力(と北陸電力)による高屋での「事前調査」強行開始によって新たな事態を迎えました。昨年までは寺家地区に比べて遅れているとの見方が一般的だったのですが,こここへ来て突然慌ただしくなっています。昨年12月14日に「事前調査」の申し入れがあり,その際には今年の春からでも作業を開始したいと表明はしていたのですが,4月の市長選の結果からしてこの時期に作業の開始があるとは誰もが予想していなかった(選挙直後の市長や知事の談話でも同様)ことです。
 ところが突然前日の5月11日の夕方になって,翌日からの調査開始が記者発表されました。この発表に対して市当局は,調査をストップさせるのではなく「上手にやって欲しい」という態度で臨んでいます。しかも地元住民の要求を聞こうとはせず,むしろ地元民と合うことを避けている疑いさえあるようです。も早,高屋地区を関西電力に売り渡したかのように住民の目には映っています。
 そしてまた,原発は決して高屋や寺家の地権者だけの問題ではないことは明らかなのに,市長選挙で示された過半数の市民の声をも無視した暴挙であると断定しなければなりません。珠洲市内はもとより,珠洲原発立地によって被害を受ける各地の人々と連帯して,原発建設に連なる動きを断固阻止していかなければなりません。関西電力はこれまで終始「あくまでも可能性調査」だといいつつも,調査項目は着工に必要な陸上の調査は殆ど網羅したものとなっています。つまり決して単なる「可能性だけの調査」ではありません。そのことをひたかくしにして,上手に地権者をだまして承諾書を取ったフシがあります。関西電力が実に巧妙に事を運ぼうとしているとの印象が拭えません。
 5月15日に高屋の人々が行った申し入れ(調査の即時取り止めを電力に指導せよ)に対して市当局は「調査は電力会社の権限で行っている」と答え,住民の声をきこうとはしていません。高屋町婦人会では「調査実施に伴う飯場建設の禁止」を決定し市当局に通告しました。また事前調査承諾書の「取り消し」「無効」などを求める通知書を3名の地権者が関西電力珠洲連絡事務所に提出しました。次第に拡がる危機意識の中で,高屋住民が中心となって毅然とした運動が展開されはじめています。
 こうした運動によって,初日の5月12日は約1時間で調査を中止に追い込んだのをはじめ,二日目の15日には事実上の作業阻止を実現しています。住民と電力の間の緊迫した状況の中での市当局の態度は,改めて大きな問題となっています。この事前調査が開始されてから本日(5月18日)まで,連日地元の住民をはじめ市民グル−プが中心となって阻止行動が展開されています。反連協でも可能な限り連帯した取り組みをめざしたいものです。
 寺家地区についても決して楽観は許されません。これまで以上に巧妙に諸々の策動を展開してくることを警戒しなければなりません。そのため地元住民との連携をこれまで以上に密にし,着実な運動の浸透をはからなければなりません。
 このほか珠洲を「核廃棄物の最終処理場」に狙っているのでは,という危惧が払拭できません。昨年12月の申し入れでは,珠洲電源開発協議会は「全く考えていない」とのことでしたが,今後とも警戒を怠ることはできません。
(以上のような状況の中で,珠洲原発反対連絡協議会は1989年度の具対的な活動としては,特に高屋での事前調査阻止の闘いに突入することになります)

2 規約の一部改正など
 総会では,高屋町新保出地区における関西電力の事前調査の阻止のため,反連協の総力をあげた動員体制が承認されました。具体的には珠洲地区労議長名での動員要請を反連協事務局が担当し,構成各単組に通達することになりました。
(1)「珠洲原発反対連絡協議会規約」の一部改正
[1]第4条 この会は,原発施設に反対する団体をもって組織する。[現行]
                    団体および個人をもって組織する。[改正]
[2]第7条,第8条,第9条における「幹事会」という記述を「役員会」に改める。
《改正の理由》
[1]結成メンバーとして,団体だけでなく,会の目的に賛同する個人の参加を可能にするため。(「新しい珠洲を考える会」解散時からの課題であった)
[2]従来から「役員会」と称し,全役員を招集しており,会の運営を強化するため。

3 石川県内の動き
(1)能登原発差し止め訴訟
 石川県では,北陸電力と県当局が一体となって「能登原発」建設に向けて工事を進めています。「能登原発差し止め訴訟裁判」で1989年5月30日に地質現場検証が行われたのをはじめ,7月14日には第二次提訴(100人)も行われました。また第一次の公判は7月14日に2回目が行われたほか,10月5日,11月2日,12月7日と続きました。その過程で安全性の確保について北電側の主張には「できるかぎり」が連発され,「事故は避けられない」ということが明らかになったようです。1990年に入ってからは1月25日,2月22日,4月19日と相次いで証人尋問(水落正志北電原子力付部長)が行われました。この裁判闘争は,1992年夏と予想される核燃料搬入・試運転までに能登原発を止めることをめざしてたたかわれています。
(2)能登原発でJIS規格違反
 ところでこの能登(志賀)原発の工事にJIS規格違反の鉄骨が使われていることが1989年11月9日,判明しました。その経過が明らかになるにつれ,諸々の点でのチェックの甘さが暴露されました。原発というただでさえ危険極まりない巨大な建造物が,かくもズサンに作られていくのかとの不安が多くの住民の間に拡がりました。原発建設に反対している地元の6つの団体が連名で志賀・富来・羽咋の各首長に対して「安全協定及び覚書」にもとづく立ち入り検査実施の申し入れを行った('89.11.14)のをはじめ,11月25日には「大谷鉄筋使用部分の工事やり直し要求」の緊急集会とデモ行進が志賀町で開催されました。
 この行動には,珠洲からの相当数の参加を含め300名が結集しました。デモの途中,建設現場では原発建設事務所長に対して『能登原発建設工事即時中止要求書』を読み上げ,手渡しました。
(3)能登原発アンケート調査
 「能登原発差し止め訴訟」の羽咋原告団が89年7月末に羽咋市内の1038人を戸別訪問して「能登原発」についてのアンケートを実施しました。それによると,
 危険だと思う : 52.9%  不安だと思う : 34.7%
 安全だと思う :  3.4%  わからない :  9.0%
という結果でした。つまり90%近い人々が原発に危惧を抱いていることが判明しました。また,原発の建設については
 中止すべき:66.7%  建設賛成:5.7%  わからない:27.6%
でした。この結果をもとに羽咋原告団は9月14日,羽咋市長との話し合いを持ちましたが,市長は重大事故の場合には「私は医者であり,放射能源(原発)からとにかく逃げるしかないことは良く承知している」と明言,「市民の立場にたって公開討論の開催も考えている」と発言されました(『羽咋原告団ニュース』 '89.10月)。
(4)県内各地で反原発集会
 「能登原発」のほか,特に1989年5月以降,珠洲でのたたかいが注目を浴びたこともあって,県内各地で様々な形で「原発反対」の運動が展開されるようになりました。県評婦人部が「はたらく婦人の石川県集会」を開き原発問題を中心に珠洲のはたらく婦人たちの報告と樋口健二氏の講演を聞いた('89.11.11,反連協は『珠洲原発の経過と現状』のレジメ提供)のをはじめ,県教組青年部は「反原発バスツアー」('89.7.31〜8.1),高教組婦人部('89.8.17), 同青年部('90.1.31)は原発問題で全県学習会を開催。また,全農林青年部は金沢で約120名が結集し学習会を開催('90.2.20)するなど,特に青年部と婦人部を中心に運動が拡大しました。
(5)反原発運動と選挙
 7月の参議院選挙では,事実上の保革一騎打ちで石川県政初の革新勝利=あわもり喬氏の当選を実現したほか,小松で反戦平和・反基地闘争をたたかっている翫氏を社会党票の大幅増の実現によって比例代表として参議院に送り込むことにも成功しました。
 1990年2月の総選挙に向けて「衆議院選二区を反原発でとりくむ会」が結成されました。擁立する候補者については難航した末,原告団事務局員の高橋美奈子氏を決定しました。しかし残念ながら二区全体としては厚い保守地盤を崩すまでには至りませんでした。特に,能登原発の付近で「原発反対票」をまとめきれなかったようです。候補者の決定の遅れなどに起因したのでしょうか。しかし,この総選挙でも先の参議院選同様に,珠洲からは新しい運動の定着が認められ,やがて次第に南下していくものと考えられます。当面,志賀町長選で反原発がどう具体化しうるかが問われています。
 この一年,珠洲から新しい住民運動の展望が開かれ始めたといえるでしょう。そしてそれは,県評解散・連合石川の発足を下から補完していくものとなるでしょう。既成の政党や労組幹部の思惑や枠組とは異なる次元で,住民が自らの権利を守ろうとする運動は,今後とも力強く定着していくでしょう。

4 珠洲原発阻止の闘い
 珠洲原発をめぐるこの1年は,まさに「激動の1年」でした。1989年5月12日に突然開始された関西電力による事前調査(可能性調査)は,大半の市民の激怒を誘発しました。4月の市長選では51.3%(8461票)の原発反対票(北野氏:6295票,38.2%,米村氏:2166票,13.1%)があり,誰もが珠洲原発は中止もしくは凍結と思っていた矢先であっただけに実に果敢な調査阻止行動と行政に対する抗議行動が展開されました。この運動は「保守王国」といわれた珠洲で,土地と子孫の命を守らなければならないという連帯を広め,敢然として「お上」に立ち向かわざるをえない状況へと発展していきました。まさに「住民パワー」の起爆剤となりました。
 この行動には,反連協としても可能な限りの動員体制で積極的に参加してきました。「住民パワー」のエネルギーの前では組織労働者としての限界のようなものを感じつつも,可能な場面で可能な範囲で多くの市民各層との共闘を追求してきました。
 以下,反連協としての取り組みを含めてこの1年の珠洲における経過を報告します。
(1)高屋での阻止行動について
 5月11日の午後4時,突然関西電力は「明12日から高屋で可能性調査を開始する」と記者発表しました。あまりの唐突さに,反連協としての組織的な対応はできず,どうにか当日の早朝,反連協役員5名が現地での集会に参加した程度でした(地元住民を含めて数十名が参加)。当日の作業は住民の抗議で中断に追い込みました。続いて5月15日(月)には反連協の動員20名を含めた約80名が,きのうら荘で作業員を封じ込めました。また,反連協としてはこの日から情宣ビラの作成・配布を開始しました。当日夕方,反連協役員会を開催し,その後の対応を協議,5月18日以降の動員体制を地区労の全面的な協力で決定しました(連日午前7時に労館集合,7時半木の浦集結,夕方まで説得行動)。午前8時,10時,午後1時,3時…というように,ガードマンに守られ隊列を整えて作業に出ようとする一行を駐車場で説得するという行動は,いつの間にか両方にとってタイムスケジュールであるかのようになりました。彼ら作業員は,詳しい事情もわからないままに,社命に従って珠洲に派遣された青年たちであり,同じ労働者としてここで対峙しなければならない状況を作り出している大きな力に改めて憤りを感じさせられました。彼らには,もっと人々に歓迎されるような現場で,その能力を発揮させてやりたいというのが率直な思いでした。
 こうして作業は5月末になっても一向に進展しませんでした。そこで関西電力は,6月1日の早朝に作業員を倍増して飯田方面からも送り込み,強行してきました。突然の,2隊に分けての奇襲作戦だったのですが,すぐに発覚し,前夜大阪から急きょ派遣された作業員が,山に閉じ込められるという事態さえ生じました。聞けば昼食はもとより飲み物も与えられることなく,しかも下山したくても上司(関電の責任者)の命令がないためそれもできず,まさに途方にくれた姿は実に気の毒な限りでした。反面,関西電力の人を人とも思わないやり方に,関西の大企業の本質を見た思いでした。
 関西電力が,がむしゃらに調査強行を目指せば目指す程,市内各地からより多くの市民が高屋に結集してきました。6月1日には,反連協も予定の2倍の20名以上が現地に駆けつけるなど,全体で100名以上が,さらに翌日は約200名が集りました。こうして調査は進展することなく6月16日をもって「中止」となりました。この間約1ヶ月に反連協関係では延べ250名を超える組合員が動員に参加しています。この他に,能登エネルギー基地化反対地区労協議会(能登エネ協)傘下の組合員も,ほぼ連日にわたり延べ120名が参加してくれました。
 そのどれもが全くの自費・手弁当による動員であったことは言うまでもありません。また,このほかに,金沢や加賀から自主的に参加してくれた組合員や,労組独自で現地激励行動を実施してくれた組合もありこうした多くの組合員の結集が市内各地から阻止行動に立ち上がった人々との間に共感を生みました。
 6月17日以降,作業班は珠洲から撤退しました。しかし地元工作を任務とする立地部の職員が20名あまり珠洲に常駐しており,反連協としてはその監視と地元の人々との連帯を目的とした動員を6月17日以降も継続してきました(6月17日〜12月23日まで実質171日間,延べ約400名)。
 6月30日には中西県知事と杉山副知事が高屋を訪れ,集会所で地元高屋住民と話し合いを持つことになり,200名をこえる市民が会場を取り囲み「原発反対!」のシュプレヒコールを3時間以上も継続しました。この行動には反連協も15名が参加しました。
(2)行政・議会などに対して
 行政に対しての行動が5月12日から市役所で展開されました。特に19日には,市長との話し合いを求める市民が続々と集りました。市長が市民の前に現われて,市民の要求に直接対応しないのでは,あいまいな助役の回答に市民の不安が不信となり,やがて憤りとなって拡大していくのは当然のことでした。そしてそれを収拾する能力もまたありませんでした。かくて行政は,その市民に対してまさに権力的なふるまい(機動隊の出動)でしか対応できませんでした。明確な回答をしえないままひそかに金沢の病院に入院せざるを得なかった市長を「敵前逃亡」だという杉山副知事の発言は,市長には当事者能力が与えられていなかったことを裏付けているようにも聞えます。
 反連協としては5月22日には30名を動員して,関西電力と地域開発協議会(商工会議所に事務所があり,数日来「原発反対の署名をするな」という内容のチラシを市内の新聞全紙に折り込んでいた発行元)・市役所への抗議行動を多数の市民とともに行いました。翌23日,地区労事務局と反連協の合同役員会を開き,その後の対応を協議しました(署名運動への取り組み,現地への支援カンパの取り組みなど)。市役所では膠着状況にあり,25日には反連協役員6名で助役との交渉を持ち,事態の収拾のためには調査を中止させるしかないことを迫りました。しかし,留守を預る助役には何ら当事者能力がないことが判明するだけでした。
 こうした実態から反連協としては,現地での阻止行動と市民へのPRにこそ全力を注ぐ必要があることを痛感,10,000枚のチラシを作成し市内の新聞全紙に折り込みました。市内には続々と原発に反対する住民組織が誕生していきました。そのほか既存の組織でも次々と「原発反対」を決議するところが増えていきました(蛸島漁協,宗玄酒造,鮮魚組合,真宗大谷派第十組及びその坊守会など)。これらの組織が中心となって6月17日に「珠洲原発反対ネットワーク」が結成されました。反連協としては正式に加盟の手続きを取ってはいませんが,可能な範囲で共闘していくという関係を保ち続けています。
 退院した市長は6月21日から登庁,翌22日には杉山副知事が高屋町まちづくり推進委員会の委員との話し合い(珠洲商工会議所)に出向くというように,当局なりに一定の筋書きに従った懐柔が開始されました。県議会では知事自ら直接高屋で住民と話し合うことを明言するなど,いよいよ当事者能力を持つ者の出番となったわけです。こうした事態に対して,ネットワークでは6月24日に「原発反対集会」とデモを計画しましたがこれには反連協も積極的に参加しました(全部で約600名参加)。
 また,6月議会に対して「原発白紙撤回」などを内容とする請願行動の呼びかけがネットワークからあり,反連協もこの運動に連帯して請願書を提出しました。しかし結果は,同趣旨のもの(全部で39件)はすべて不採択となりました。逆に可能性調査推進を求める請願(23件)はすべて採択されました。議会では国定議員がまさに孤軍奮闘されましたが,数の力の前に市民の切実な願いは無視される結果となりました。こうした議会や行政のありように対する怒りが,6月30日まで市役所3階の会議室の事実上の占拠という事態につながったといえるでしょう。そしてネットワークは6月28日,知事らを高屋に迎える(30日)にあたり,市役所占拠をどうするかをも含めたギリギリの選択を決定し,当日を迎えることになりました。そして当日,市役所では6月議会の閉会を待って声明文を発表,掃除をして自主的に整然と退去。その後高屋では激しい抗議のシュプレヒコールで知事・副知事・市長らを迎えました。その際,高屋はじまって以来のもう一つの出来事は,大量(バス4台?)の機動隊が待機していたことでした。
 反連協は,ネットワークの働きかけを受けて「原発反対」の署名運動に取り組みました。地区労を通して組合員に署名用紙が届いたころには,すでに署名を終えていた組合員が多く,かなりの困難がありましたが1860名分を集約することができました(全体では1万555名,9月12日提出)。
 また地区労では地元への支援カンパにも取り組み,その結果約33万円を高屋へ届けました(「高屋町郷土を愛する会」へ)。
 高屋では,ネットワークが中心となって6月25日に「監視小屋」が完成しました。その後,その土地をめぐって石川県当局からクレームが続き,結局7月末には現在地へ移転することになりました。この監視小屋は,市内各地から訪れる市民や地区労組合員の交流の場ともなっています。小屋からの眺めはすばらしく「高屋ナイスハウス」の愛称さえついています。
(3)参議院選挙の取り組み
 7月に入ってからは参議院選挙を原発反対につなげた運動として位置づけ取り組みました。6月末までは,連日10名近い組合員を高屋へ動員し監視行動を続けていましたが,7月からは毎日1単組,2名を午前中のみ動員することとし,参議院選挙への取り組みのため選対に協力していくこととしました。なかには,「連合は原発に対して態度があいまいだ」という批判がありましたが,あわもり喬氏のこれまでの実績や,山本信晃氏の熱心な説得が広く受け入れられ,結局市内の原発反対票のある程度を「あわもり喬」に結集することができました。また,比例区についても意識的な原発反対票の定着がうかがわれました。珠洲における投票結果は次の通りでした。
[石川選挙区]
   ・粟森(連合) 6419票     ・島崎(自民) 6683票
   ・米村(無)  1415票     ・尾西(共産)  454票
 4月の市長選同様,原発反対の票は明らかに51%を超えています。
 [比例区]
    ・社会党  4565票     ・原発いらない 1081票
    ・公明党   823票     ・いのち     304票
    ・共産党   377票     ・ちきゅう    21票
 以上の6つの合計は7171票で,投票総数の51%を占めており,自民党の5943票を圧倒しています。
 この選挙では,多くの市民グループからも積極的な支援を受けることができ,来たるべき衆議院選挙などに向けて,着実な共闘体制づくりにさらに一歩を踏み出したといえます。
(4)市民運動との共闘体制をめざして
 1989年8月4日の夕方から夜にかけて「反原発ちょうちん祭IN飯田」が市民グループなど16団体約600名が参加して開催されました。「原発反対」のために新造された3台のキリコをまじえ,手に手に「原発反対」のシールを付けた赤い提灯を持ち,「原発反対」「関電帰れ!」「中電帰れ!」のシュプレヒコールを繰り返しながら,飯田の街をデモ行進しました。この行動に反連協は約70名が参加しました。
 また8月6日には「8・6非核,平和,珠洲原発やめよ!石川県集会」が県評や原水禁の主催で珠洲で開催されました。この珠洲での集会を成功させ,原発反対の意思を結集するために,反連協は地区労とともにネットワークに協力を求めたほか,一般市民の参加を呼びかける情宣チラシを珠洲市内の新聞全紙に折り込みました。そして当日は県内全域から参加した約500名の組合員のほかに地元の約500名が加わり,総勢1000名の大行進が蛸島漁協まで続きました。
 沿道には,拍手で行進を迎える住民が立ち並び,「原発反対」のシュプレヒコールは声をからさんばかりに続きました。遠来からの参加者は「これ程住民に感謝されて迎えられたデモは初めてだ」と感激していました。特に沿道で両手を合せてデモ隊を拝んでいた老婦人の姿が印象的でした。まさに平和への願いが,原発反対の行動となって現われた一日でした。
 10月21日には「珠洲原発立地可能性調査再開を許さない10・21全能登集会」が飯田港大駐車場で開催されました(主催:県評,能登エネ協)。この集会でも市民数百人の参加を得ることができ,合せて1千名をはるかに超えるデモが飯田の街で「原発反対」を訴えました。この集会では集会決議をしました。
 こうした集会やデモのほか「反原発アートオークション」や「反原発バザー」,「反原発風船とばし」,映画会や実に多彩な講演会など,いろんな催しが市民グループなどによって企画され,市民の間に原発の問題を訴えていきました。
 反連協としては,10月14日〜15日に樋口健二氏を招いて原発労働者の実態についての写真展と講演会を主催しました。これは,原発が来れば仕事が沢山できるという宣伝に対して,「被曝労働者の実態」を市民に知ってもらおうと企画したものです。
 市内の新聞に宣伝用のチラシを折り込み,広く参加を呼びかけました。写真展・講演会は珠洲中央公民館(14日夜)と三崎公民館(15日夜,三崎町の反原発グループとの共催)で開催したほか,15日の昼には市民グループによる飯田港公園での催しに参加する形で,樋口氏の同意を得て野外での写真展を開催し,多数の市民に見てもうことができました。両日とも『闇に消される被曝労働者』(三一書房),『原発と闘う』(八月書館)など,被曝労働の実態を著わした樋口氏らの著書販売にも取り組みました。
(5)寺家地区の状況について
 1989年始めに発足した寺家地区の「故郷を愛し自然を守る会」のほか,「止めよう原発寺家区民の会」「三崎町反原発の会」などが中心になって三崎町町民の半数以上の原発反対署名を獲得したのをはじめ,三崎町在住の市会議員に対して個別に申し入れを行うなど,原発に反対する世論の盛り上げをはかっています。1990年1月には「自然を護る地権者の会」を結成したほか,共有地を設定しました。この会の結成に際して,反連協は事務的な面でも一定の支援を行いました。この会は内田吉松氏の献身的・指導的な貢献による結成で,炉心予定地と思われる土地の一部も共有地として確保されました。
 1989年11月,寺家の土地の一部が中部電力に買収されたことが明るみに出ましたが,そうした動きがより一層原発反対の連帯を強固なものにしたとも言えるでしょう。
 また,88年来暗礁に乗り上げている通年作物施設(ビニールハウス)の建設(中電が農作物の研究施設として提供しようというもの)を,当初予定の下出地区からひそかに川上本町に変更して建設しようとのたくらみも,区民の総意で阻止(同時に区長の更迭)されました。寺家上野の移転対象の家屋調査も42戸中15戸が依然として拒否し続けています。行政がテコ入れしている「地権者の会」もこの1年,その「準備委員会」の段階から進んではいません。
(6)衆議院選挙の取り組み
 珠洲の市民グループを含めて,能登の市民グループの間で「衆議院二区を反原発でとりくむ会」が結成され,最終的には社会党・県評の推薦候補としても「高橋みなこ」氏が立候補しました。珠洲地区労でも「とりくむ会・珠洲」と合同で選対を発足させ,選挙戦に臨みました。反連協としては,候補者自身がこれまで能登原発反対のたたかいを先頭に立って担ってきていることからも,まさに「原発を止める選挙」との認識で,最大限の取り組みを設定しました。選挙戦の開始からは,年末・年始を除いて続けてきた高屋の動員を中断し,可能な限りのエネルギーを選挙戦に注ぐ体制を取りました。参議院での「あわもり喬」氏に比べ,知名度の低さは否定できませんでした。また,ちまたでは「6000票以下なら関電が調査を再開する」との風評の中で,しかも知名度の高い現職を相手に,まさに必死の運動を展開しました。それは「とりくむ会・珠洲」に結集した市民グループと共通の思いであり,取り組みでした。ひそかに目標と設定していた5000票が達成され,珠洲だけで見れば2位で見事当選という成績でした。
 この選挙の珠洲での結果は次の通りでした。([ ]内は内浦町の得票)
  ・高橋みなこ(無 新) 5038票 [1195票]
  ・かわら 力(自 現) 6078票 [1987票]
  ・坂本三十次(自 現) 4269票 [1635票]
  ・稲村 建男(無 新) 901票 [1003票]
  ・大川 末男(共 新) 160票 [ 36票]
 二区全体での高橋票(3万5969票)は,全投票の15.7%であったのに比べ,珠洲市ではその2倍に近い30.6%に達しています。市民グループの中には,原発反対を唱えていた稲村,大川票を加えると6099票が「原発反対」の票だととらえていました。
 「反原発根強く」との見出しで毎日新聞(榊原雅晴記者)は次のような「解説」を書いています。('90.2.20付『いしかわ』版)
「全くの無名から出発し,反原発を訴えた高橋氏も奥能登で健闘,特に珠洲原発の立地計画がある珠洲市で5038票と坂本氏を抑える得票を上げたことは,市民の間に原発への不安が依然,根強いことを,昨年4月の珠洲市長選に続いて裏付けた。」
(7)電力への申し入れ
 1989年8月23日,反連協は珠洲電源開発協議会(関電,中電,北電の3社で構成)に対して申し入れを行いました。その要点と回答は概略次の通りです。
@ 5月12日になぜ調査を強行したのか。
[関電側がこれまでの経過の説明として明らかにしたこと。]
・原発建設については13年前,珠洲市の依頼があり当地に入っている。
・88年12月14日の「調査申し入れ」以前に,高屋の4地区に対して説明に入り,大半の同意を得ていた。また,珠洲全域に対しては12月の申し入れで明らかにしていた。
・5月12日からの調査開始については,高屋町まちづくり委員会の合意を得て調査に入った。また,珠洲全域に5月11日に発表した。
・あのような事態になったのは,私たち(関電)の努力が足りなかったためだと思う。大勢の人が押しかけてきたので話し合いにはならなかった。
A 12月には「事前調査」といい5月には「可能性調査」と名称を変更したのは何故か。
・「事前調査」という場合は環境調査を含む。「可能性調査」は環境調査は含まず,高屋のまちづくりと原発の共存の可能性を調べる調査である。
B 6月16日以降の状態は「中止」なのか「中断」なのか。
・会社が予定していた基礎作業は終えたと判断して,一時見守っている。
・測量のレベル合せを終えたので,次の作業に結びつく。
・「中止」ではない。「中断」でもなく「作業の見合わせ」である。
C 高屋だけの問題ではない。珠洲市民の大半が反対している。即刻原発を断念し,珠洲から撤退すべきだ。
・今回の調査はあくまで「可能性調査」だから,その程度の理解は得られると思っている。今後も地元の人々の合意が得られるよう,慎重に努力する。高屋では当初,地権者の8割かたの理解を得ていたが,現在は少し落ち込んでいる。
・「迷惑料」については,会社が提案し現在高屋の町の人々に議論してもらっている。
・馬緤へ出かけているのは「高屋の状況を聞かせて欲しい」との声があるからだ(最近,頻繁に馬緤へ入っている理由の説明を求めたのに対しての回答)。
・安全性の理解が得られるよう努力し,状況が良くなれば工事を再開したいと考えている。「白紙撤回」はしない。
(8)その後の状況と市長への申し入れ
 1990年2月下旬,林市長や田畑市議(エネルギー対策特別委員長)ら市内の有力者によって寺家の原発予定地の一部が先行取得されていたが明らかになりました。新聞報道や市民グループの公開質問状に対する林市長の回答によれば,昭和47年「珠洲観光開発株式会社」を設立,問題の山林(2ヶ所で2581u)を昭和48年に購入,昭和54年に会社を解散し,55年に出資者(16人)で土地を共有登記したことになっています。そして3月2日には元「珠洲観光開発株式会社」関係者代表が市内の新聞に折り込みを入れ,その中で会社の設立(47年9月)や土地の購入(48年9月)は珠洲市議会が「原子力施設の調査を国に要望」を決議した50年10月よりも以前のことであり,従って「先行取得ではない」と述べています。
 3月議会では国定議員がこの問題について,市民の疑義を受けながら直ちに議会に報告・釈明がなかったのは議会軽視であるし,市長としての立場をわきまえるならば「李下に冠を正さず」の配慮が必要だと追求されました。
 この問題が「先行取得」として多くのマスコミに取り上げられ,市民の間に大きな不信感を増大させていた時期に,これまで常に市議会にあって原発問題に深くかかわってきたエネルギー対策特別委員長の田畑良幸氏が3月議会で助役に就任しました。もとより林市長が推薦,市議会が承認したわけですが,田畑氏もまた林市長とともに「先行取得」の当事者でありしかも氏は高屋でも土地を取得していたという事実からすれば,まさに市民を愚弄する人事であるといわなければなりません。6月30日,高屋住民と話し合うため知事と副知事が集会所に入りましたが,沿道で待ち受けていた多くの市民を,まさに威嚇するかの様相でにらみつけ,会場に入ってからは時には人々を恫喝するような発言を繰り返した副知事を手本とする新助役の誕生ではないか,との危惧があります。そうした判断があって,3月議会ではただ一人,国定市議のみが助役就任に反対の意思を貫きました(国定市議『議会報告』11 )。
 また,3月議会のあと市議会とエネルギー対策特別委員会が,関西電力に対して「調査の早期再開」を求める要請を行いました。
 以上のような状況から,反連協として市長や電力に対して申し入れをする必要があると判断しましたが,社会党石川県本部から合同で行いたいという提案があり,結局3月26日に連名で市長への申し入れを行いました(電力への申し入れは当日,実現せず)。申し入れの内容は次の3点です。
 (1) 原発とこれに関する一切の施設誘致を断念すること。
 (2) 原発誘致のための一切の施策(視察や宣伝,講演会など)を止めること。
 (3) 関西電力,中部電力に珠洲からの撤退を求めること。
 なお,申し入れに応じられない場合には,趣旨についての見解と別紙質問事項に文書回答するよう求めました。
 この申し入れには社会党県本部から清水副委員長,平田書記長,川上平和運動部長,鍵主書記次長の4名が出席したほか地元及び反連協から国定市議,中村町議を含め7名の計11名が参加しました。5月18日現在,文書回答はありません。
(9)その他の活動として
@ 全農林北能登分会は1989年12月2日,高屋の監視小屋から飯田までを自転車キャラバンで「農業再建・原発反対」を訴えました。15名が自転車にのぼり旗を立てて,街宣車の先導のもと,折戸,狼煙,寺家,蛸島を経てシーサイド前を通り労館まで「能登の自然を破壊する原発建設を止めさせましょう」「農産物の輸入自由化に反対しましょう」などを訴えました。
A 1990年2月3日には,輪島地区労や全農林が中心となって「食・みどり・水を守る能登の集い」を輪島市文化会館で開催しました。原発問題に詳しく,自らもたたかっている久米三四郎氏の講演がありました。当日は衆議院選挙の公示日であり,多忙な中,珠洲からも地区労と連携しながら約20名が参加しました。
B 珠洲原発の状況についての関心が高くなり,いくつかの組織からの依頼があり,『珠洲原発の経過と現状』を小冊子にまとめました。
C 高屋での監視行動は衆議院選挙期間中は中断していましたが,3月12日から再開しました。高屋では関西電力が日中のみならず,夕方から夜にかけて個別訪問しているとの情勢から,監視の時間帯を午前中に限定せず,可能な単組は夕方から実施してほしい旨変更しましたが,それぞれの事情から困難な面があったようです。5月以降は従来通りの午前中を原則としました。1月以降の高屋への動員は,5月末まで80日間で約150名になります。
 従って1989年5月に動員を開始して以来,通算で270日延べ800名に達したことになります。
D 高屋では連日連夜,関西電力の執拗な工作が続いています。彼ら立地部の職員はその道のプロでありしかも関西人,裏切ることのない自然に囲まれて善良な珠洲の人間は,彼らの上手な話術と金をもってすれば扱いやすいのかも知れません。
 しかし,高屋にも堂々と関電に立ち向かい,能登人の人間性と自然を必死になって護ろうと日夜奮闘している人々がいます。
 それは決して自分の経済的な利益のためではなく,自らが生れ育ち,現実に生活しているその土地を放射能の墓場にすることなく,子孫に伝えていかなければならないという魂の叫びによるものなのでしょう。高屋で関西電力がどのようにして土地を確保しているかについてはNHKテレビも紹介しました('90.5.23)。
E 1990年4月13〜14日には大阪市職員組合の「反核・反原発闘争推進委員会」のメンバー約40名が珠洲を訪れました。13日の夜は「きのうら荘」で交流会をもちました。これには国定市議を含め反連協役員7名と高屋・寺家から計7名が参加しました。大阪からのメンバーは日頃から福井など近隣の原発だけでなく四国や六ヶ所村にも出かけるなど,幅広い活動をしています。珠洲原発についても関西電力にその中止を申し入れるなど,積極的に取り組んでいます。現在,河内長野で関西電力が放射性廃棄物の処分場を作ろうとの動きがあるようですが,彼らは珠洲にも重大な関心を持ちながらたたかっているようです。
(10)最後に
 1989年5月18日,反連協は第12回総会を開催しました。折しも高屋での闘いが開始された直後でした。それ以来今日まで,地区労や社会党の協力を得て,幾多の弱点を持ちつつもこの歴史的な闘いに加わり,一定程度その成果をあげることができました。特にこの一年,「反原発運動」では反連協が殆ど目立たない程の状況が創られたことに喜びさえ感じています。過去12年間,「原発反対」を訴え続けてきた諸先輩の運動の成果が華々しく現われたといえるでしょう。そして県評の解散,連合への移行と反連協の構成母体の状況にも一定の変化が現われることも予想されます。しかしながら,この一年間に地区労の積極的な理解と尽力により,珠洲全体の反原発運動との連携が生れ,そしてそれは新しい住民運動の基礎になるような兆しが見えてきました。今後も可能性調査の再開阻止や,寺家における中部電力の動向,さらには来春の統一地方選(県議,市議)などに留意しながら,さらに運動を発展させていくことが大切でしょう。
 可能性調査の中断以降,電力も行政も背後ではあらゆるルートを通して反対派住民の切り崩しを画策しています。そして,これまた両者一体となって原発視察を勧めています('90.2.19付の電源開発協議会のチラシでは「視察に参加して事実の確認をしましょう!」と呼びかけています。市のPR?)。
 恒例(?)となったバス(1号車から7号車)運行表付き「原子力問題シンポジウム」は,'89年10月と'90年5月で後援団体に変化がありますが,そのチラシはなぜか某推進団体が作成したものと同じ構成ですし,電力のチラシと紙質・色まで同じというのも正直な限りです。とにかく視察派遣の人数と講演会に動員した人数は,時とともに延べ数では増加の一途をたどります。その数こそが「市民の理解を得た」という時の実績として欲しいのでしょう。
 今一度,原発とは何をもたらすのか,そしてなぜ珠洲なのかを考える必要があります。高屋や寺家の原発は,決して珠洲だけの問題ではありません。しかし,まず何よりも珠洲に住む私たちが,可能な限り手を取り合ってより強く立ちあがらなければなりません。そして,この一年,着実にその道を歩きだしたといえるでしょう。会員各位の理解と献身的な協力に深く敬意を抱きます。

1990年度の活動
 珠洲原発反対連絡協議会の第13回総会は,1990年5月29日(火)午後5時30分から珠洲労働会館で開催された。前年の関西電力による高屋での「可能性調査」の強行以降,その阻止闘争が盛り上がり,およそ1ヶ月後には中止に追い込んだこともあって,熱気に溢れた総会となりました。総会には代議員37名(他委任状:6名)と来賓4名が出席しました。

1 活動方針
<世界の情勢>
 チェルノブイリ原発事故の被害の実態報告は,時とともに拡大の一途をたどっています。放射能を封じ込める技術はありませんし,放射性核種の中にはとほうもない長さの半減期のものがあり,とても実験・実証さえ不可能なのです。そして,広島・長崎に続いて放射能の恐怖が広く世界の人々に認識されてきました。そんな中で,依然として原発に固執する姿勢は,自らもこの地球上にひとつの生物として存在してきた「生命体としての連続」を,自分の世代で絶ってしまっても,当面の利益や快適さを追求する姿勢だ,といわなければなりません。それは,「文明人の刹那主義」というべきでしょうか。そのことに気づいた世界の趨勢は確実に「脱原発」に向っています。
 放射能汚染と同様に様々な環境汚染が,まさに国境を超えて地球規模の,しかも極めて緊急を要する課題となっています。人類を含めあらゆる生物の生存をおびやかすような環境の悪化が進行し,他方では大幅な人口増加が予測されています。そしてそれは決して遠い将来の問題ではなく,20世紀末か21世紀初めには,まちがいなく地球を直撃する課題といえます。その問題の本質的な理由を真剣に考えようとはせずに「化石燃料が悪い」,だから「クリーンな原子力」を推進しようという論拠はあまりにも無責任というべきです。
 いま,人類が問われているのは「物質文明」とか「豊かさ」というような「先進国の価値観」を追求するため,どの程度自然にはたらきかけて良いのかということでしょう。自然や地球環境に,回復できないような破壊をもたらしてまで追求して良い「価値」があるのでしょうか。その点でいえば「先進国の価値観」こそが問われているのです。
 オーストリアの最大の新聞『クゥリア』特派員は白ロシアで放射能障害に苦しむ子どもたちの惨状を伝えています。そしてようやく日本でもそれらの写真が公開され始めました。次代を生きるべき子どもたちの姿は,どんな物質的豊かさをもってしても救えません。
<日本の情勢>
 日本における『脱原発』の運動も年々着実に拡大しています。たとえば青森の「核燃料サイクル」に反対する運動は,六ヶ所村村長選挙で推進派の現職を敗りましたし,青森での国政選挙でも「核燃阻止」が圧勝しています。
 窪川でも日高でも芦浜でも,全国至る所で原発の新規立地を阻止する運動が着実に効を奏しています。電力会社自体に方針転換を求めるための運動も起こっています。既存の原発は,新旧によらず事故・故障が絶えないことは経過報告で指摘したとおりです。蒸気発生細管に穴があくという故障は依然としてきわめて頻繁に発生しており,施栓率は増加するばかりです。
 いま一つの問題は,既存の原発ではその保管場所が困難になってきている低レベル放射性廃棄物を含めた廃棄物処理場の確保についてです。ひそかに電力が調査している箇所が次々と明るみにでて,反対運動が起こっています。今後,さらにこの問題がクローズアップされるでしょう。そしてその候補地の一つに珠洲市があるとの懸念は「珠洲電源開発協議会」の否定(最新のチラシ)があっても,払拭できない懸念です。
<珠洲原発を巡る情勢>
 珠洲原発をめぐる当面の課題は,関西電力による「可能性調査」の再開と中部電力の寺家での推進工作を阻止することです。そのためには電力や行政(県・市)の動向を充分警戒しながら,より広範な市民世論を喚起していくことが必要でしょう。市内各地の市民グループでは昨年来,精力的に諸々の運動に取り組んできていますが,そうした運動との連携を保ちつつ,適切な対応をめざさなければなりません。
 原発の是非については,良識を以て判断すれば決して推進すべきものではないことは何人にも明らかとおりです。その良識を超えて,当面の経済的理由や行政・「有力者」への義理だけで,推進に組みせざるを得ない立場にあると思っている人もいますが,本心から原発こそが珠洲に明るい未来をもたらすと思っている人は皆無に等しいでしょう。そんな人々にも安心して「原発反対」の声があげられるよう,さらに運動の拡大をめざさなければなりません。表面だけを見て「推進派」ときめつけるのではなく,可能な範囲で包みこんでいく努力が大切でしょう。決して住民同志がガップリ組んで争わなければならない問題ではなかったはずです。
 以上のような状況の中で,珠洲原発反対連絡協議会は1990年度の具体的な活動として,次のような取り組みを行います。
(1)学 習
・私たち個々が,さらにいろんな場・機会に学習を深めます。
・地区労と協力し合いながら学習会や講演会の開催をめざします。学習会等には,広く一般市民の参加を呼びかけていきます。
・特に,珠洲原発立地に向けての諸々の動き・策動や,現地住民の考えや運動を正確に把握するよう努めます。
・原発に反対する市民グループや他の団体等との交流・学習活動を強化していきます。
(2)宣 伝
・寺家・高屋地区だけにとどまらず,可能な限り珠洲市全域へ情宣ビラの配布を実施します。
・内浦町をはじめ近隣の輪島・鳳至地区に対しても,各地区労に協力を呼びかけながら「原発反対」の情宣活動を検討します。
・街宣車による街宣行動を実施します。
(3)その他の行動
・行政や電力側の動きを監視し,情報を集め,必要に応じて集会や抗議行動を起します。その際,市民グループや能登エネルギー基地化反対地区労協議会等との連携を検討します。
・高屋での調査再開を阻止するため,現地との連携をとりながら監視活動を継続します。
・原発阻止のため,来春の統一地方選挙では地区労推薦候補の当選をめざした取り組みを行います。
・国定正重市議との連絡を密に保ちながら,状況の推移を的確にとらえ市議会の傍聴行動のほか臨機応変な対応・行動を実施します。
・必要に応じて高屋・寺家での共有地づくりに協力します。

2 総会での質疑
 90年度の総会では,反連協の事務局体制の強化のために「事務局次長2名」を役員として追加することが決定しました。そのポストには,以前から反連協の幹事として運動を担い続けているS氏(教組),Y氏(北鉄)の両名が就任することになりました。
 反連協の最大の母体は珠洲地区労で,地区労運動の中で地域固有の課題である原発を専門に担当する組織としての位置づけがありますが,地区労組織の内部にも主に青年層を中心に「地区労学習サークル」が結成されており,反連協の地道な活動の実働部隊として多くの実績を積み上げてきました。その「学習サークル」の中核として寺家や高屋の住民との意思疎通を築き上げてきたのがS,Yの両名であり,現地との連携が益々重要となってきた時期に,反連協としては最高の布陣で運動の前進を図ることができるようになりました。
 昨年来市内の各地に誕生した住民グループとの信頼関係からも,反連協の役員は,地区労のように1年単位で交代していくことは好ましくないという認識が定着していくことになりました。

3 90年度の経過

(1)美浜原発事故
 世界の趨勢は,着実に「脱原発」に向かっています。しかしながら巨大な原発関連企業の利益と結託するが故に,日本ではあいかわらず地球環境にやさしいエネルギーの開発に消極的で,原発推進の施策を続けています。そのためには,何としても日本の原発だけは絶対安全で,ソ連やアメリカのような事故はあり得ないことが前提のはずでした。そこに世界的には完全に崩壊したはずの「原発安全神話」への日本流執念がありました。しかし,今年2月9日に関西電力美浜原発2号炉で発生した事故は,日本の原発の「安全神話」をも完全に打破してしまいました。この事故の大切なポイントには次の6つがあります。(「原子力資料情報室」発行のパンフ『がけっぷちにたたされた私たちのいのち』より引用)
 @ 起こらないとされてきたギロチン破断が起きた。
 A 安全装置(ECCS)が有効に働かなかった。
 B 破断が起こる前に「漏れ」でわかるとされてきたが,この言い分がウソだった。
 C 加圧器逃し弁が二つとも開かず,「多重防護」がもろくも破られた。
 D 蒸気発生器は故障だらけ。いつどの原発で破断が起きてもおかしくない。
 E 電力会社・政府の安全管理の不十分さがあらわになった。これでは,大事故はかならず起きる。
 美浜原発以外でも,この一年間に日本では数多くの原発事故と故障が続きました。
(2)石川県の動き
@ 能登原発をめぐる情勢
 石川県においては,能登(志賀)原発の92年夏の試運転にむけた工事が進められています。これに対して「能登原発差止め訴訟」が精力的に進められ,久米三四郎氏が証人として原発の危険性について詳しく証言されています。また,能登原発に関しての防災計画の策定について,富山県などをも含めた多くの市民の関心を呼び,各地の自治体に対しての申し入れや学習会が取り組まれています。
 1990年6月には,野崎町長の辞職・死亡に伴う志賀町長選挙が行われ,海恵宏樹氏が立候補されました。海恵氏は,能登原発の試運転を2年後に控えて「(1) 町独自の防災計画をたて,全町民対象の避難計画を実施する。 (2) その上で,運転開始の是非を住民投票に問う。」という公約を掲げました。まさに“いのち”を守ろうというごく当然の良識の訴えであったのですが,町を二分した激烈な保守候補の争いの中ではほとんどかき消され,きびしい結果に終わりました。それほどまでに利権・地権・血縁の壁が厚いことを示したと見るべきでしょうか。しかしながら,この選挙を通して「ふるさとを守る志賀町民の会」が結成され,地区労のみならず一般市民をもまきこんだ幅広い運動の母体が形成されたことは,その後の防災計画をめぐる運動の基盤としてみのがせません。
 能登原発の建設はすでに70%近い進捗状況にあるといわれます。そして92年夏の試運転を前にして,いずれ核燃料の搬入があるものと予想されてはいましたが,突如
1991年5月31日と6月6日の未明の二回に分けて強行されました。県評センターを中心とした抗議行動が展開されましたが,搬入そのものを阻止するには至りませんでした。原子炉建設の進捗状況や試運転の時期などから見ると,例を見ない早期の搬入で,しかも行政と北電が結託して極秘のうちに手続きがなされていたこと,そして直前まで住民に公開しなかったことなど,極めて住民無視の暴挙といえます。そもそも能登原発については,専門家の中に「試運転で必ず事故が起こる」と指摘する方がいる程危険極まりない原子炉で,30年も前に設計されたものだといわれます。そして,これまでの工事の過程でも度々トラブルや事故が発生し続けています(不良鉄筋の使用やつい先月の死亡事故など)。この原発が本当に稼働するならば石川県全域が危険な状況に追い込まれます。それは何としても阻止しなければなりません。そのため,裁判闘争とともに防災計画・避難訓練の実施などの安全確保を求める運動をより幅広く展開していくことが極めて重要になっています。
 志賀町では,1990年6月15日に平井孝二氏を迎えての講演会と町長選への決起集会を開催しました。また10月4日には能登原発海洋調査訴訟に関する集会を開催,1991年2月には能登エネ協が七尾で原発に関する防災計画学習会を開催しました。能登原発にかかわる防災計画については,いち早く珠洲市議会で国定氏が追求していますが,91年に入って各地で問題として取り上げられるようになりました。6月8日(土)午後,志賀町で「能登原発防災計画の全面的見直しを求める県民集会」が開催されました。これらの集会などには珠洲地区労・反連協からもつとめて参加してきました。
A 石川県知事選の動き
 90年後半には,2月の石川県知事選挙に関しての政治的な動きがありました。表面的には「中西氏の8選是非」が焦点となって,保守が二分ないし三分した争いとなりそうな様相を呈しました。そうした状況の中で,参議院選挙での粟森氏の勝利の再現をめざそうという(より明確に「反原発」を公約とした知事候補の擁立)動きが県内の多くの市民グループなどから起こりました。しかしながら,社会党や県評センターを中心とした母体による独自候補の擁立は実現せず,結局「8選反対」の立場のみを決定するにとどまりました。こうして「独自候補なし,8選反対」「杉山支持」に至りました。もとよりその前提として,杉山栄太郎氏との間に次のような項をも含む政策協定が締結されましたが,氏の副知事時代の言動への不信や憎悪は各地で根強いものがありました。
[社会党との政策協定](一部要点のみ)
・基本姿勢として:自民党の一党主導,長期官僚政治への訣別。県民主役の政治。
・珠洲原発について:現状では困難な状態と受けとめ,住民の意向を最大限尊重し県行政もそれに従う。
・志賀原発について:防災訓練を実施する。
[連合石川との政策協定](一部抜粋)
・珠洲における原発立地については,今日迄の行政のあり方を反省するとともに,対立と不信感が存在するとの認識にたち,現地住民および県民の合意を尊重し,「事前調査」をも含めて,原発の一方的強行実施は行わない。
 二分した自民党,その一方が「いきいき石川創る会」を設立して杉山栄太郎氏を擁し,これに社会党・公明党・民社党と県評センターを含む連合石川が加わるという勢力が,現職に対して互角の戦いを可能にすると見られました。こと原発問題については「白紙撤回」を掲げたのは共産党の内藤氏だけで,市民グループの中には,その明解さ故に内藤氏の支持を確認したところもありました。
 現在,国政の場でも自民党を二分し,その一方に社公民・連合が加わり政権担当を可能にしようとの動きもありますが,そしてそのことが今回の社会党の路線修正にもかかわっているやに見受けられますが,そうした先鞭を石川県知事選挙に見ることができたといえるでしょう。結果は杉山氏の惜敗に終わりました。8選を実現した中西知事は,珠洲原発に関しては現時点までは慎重な姿勢で臨んでいるやに見受けられますが,能登(志賀)原発に関する防災協定や防災計画の件については,何ら住民本位の政策を独自に追求しようとはせず,ひたすら国の指針に追随しています。チェルノブイリ事故の教訓を生かそうとはせず,今なお半径10qに限定した防災計画では,決して県民の安全は保障されないということを認識しようとはしないようです。羽咋をはじめとして良識ある自治体や議会が「意見書」の採択を行い始めています。そしてそれを求める運動が着実にひろがっています。
B その他の動き
 輪島市では1990年9月22日には主としてゴルフ場問題を中心として高橋治氏の講演会を開催,1991年5月18日には原発問題について平井憲夫氏の講演会を開催するなど,地区労・市民グループが一体となった運動が展開されています。
 1991年4月の県議選の結果,珠洲市郡選挙区から反原発を掲げた北野進氏が現職の一角を崩し当選したことが注目されました。氏は,まさに市民の代表として新鮮な感覚で議会に臨み,社会党議員団との連携(県政連絡会)のもと民主主義の原点に立脚した活動を精力的に続けています。珠洲原発のみならず核燃料の搬入問題や防災計画について先頭に立って奮闘しています。

4 90年度の珠洲原発阻止の闘い
 珠洲におけるこの1年は,水面下における土地をめぐる推進側との攻防と,選挙戦を通しての攻防に要約できます。そのほかには美浜原発事故にかかわる情宣や,原発についての学習を深める取り組み,関西方面の各種団体との交流,市長・議会や電力に対しての申し入れなども行いました。
 以下,この1年間の反連協の活動を中心に,珠洲における経過の主なことは次の通りです。
(1)土地共有化の運動
 高屋における関西電力による土地の賃貸契約締結の策動は,1989年6月の可能性調査中断以降特に執拗に継続されています。利権や血縁などの制約から,しぶしぶながかも原発推進の側に立場を求めざるを得ない人々の土地が,いともたやすく関西電力によって確保されたのに続き,いわゆる中立派の人々の土地が標的となり,そしてさらには,明確に原発反対を言明している人々に対しても実に巧妙に,そして執拗に,土地の提供を迫っています。立地可能性調査の中断('89.6.16)以降は,調査にあたる作業員は珠洲を離れましたが,土地の確保と住民の懐柔を任務とする立地部の職員20数名は,依然として珠洲に留まり,まさに「黒子」として水面下で暗躍を続けています。そうした実態については1990年5月23日のNHKスペシャル『原発立地はこうして進む』が全国に紹介した通りです。
 こうした関西電力による策動に対して,高屋では昼夜を問わず監視行動が続けられました。これには反連協も一定程度協力しましたが,何せ関西電力による工作はまさに黒子を地でいくもので,夜間に及ぶことが多く,現実的には効果的な監視行動とはなり得ない面がありました。結局,地元の高屋郷土を愛する会のメンバーによる監視・警戒行動が連日続けられるにとどまりました。
 1990年5月下旬から,高屋郷土を愛する会によって「高屋土地共有化基金」の募集が始められました。これは,関西電力による土地確保の策動に対抗して,原発に土地を渡さないために共有化を進めようという主旨によるもので,珠洲市外の全国に向けたカンパの要請行動です。長期的目標を3000万円と定めて,郷土を愛する会のメンバーが,それこそ寸暇を惜しんで作業を続けました。反連協としても,この運動の成功を願い若干の支援を行いました。全国各地から善意に満ちた激励とともに多くの基金が寄せられているようです。
 一方,寺家地区での原発立地をめざす中部電力は,90年秋ころから地権者に対して「賃貸契約」の締結を迫り始めています。これは,高屋における関西電力のやり方を見習ったかのような策動で,土地の広さなどによってはかなりの金額を支払うことで次第に懐柔しようと巧妙にもくろんでいます。その理由としては,原発に反対する地権者たちによって,土地の共有化が進んでいることに対して,中部電力がその防止策として,第三者に土地を譲渡しないことをも賃貸契約の中で明記しておくことに意義を見いだしているという側面もあります。
 1990年1月3日に寺家の原発に反対する地権者たちによって「自然を護る地権者の会」が結成されましたが,それ以降この会が中心となって「土地の共有化」を進めています。この運動には,寺家在住者のみならず珠洲市内各地の有志や,県内外の著名な学者・弁護士などを含めて,実に多種多様な人々が加わっています。反連協としては,この寺家における土地共有化の資金的面での若干の援助を行ってきました。これによって,炉心予定地を含め相当数の箇所で,まさに虫食い的に共有地が設定されるに至りました。
(2)知事選を初めとする選挙への取り組み
 1991年春の統一地方選挙に対して,珠洲市における「原発反対」の運動をどのよにつなげていくかが,90年度中盤から市民グループ・ネットワークの大きな課題として話し合われるようになりました。ほぼ毎月1回の割合で,各グループ代表による会合が持たれました。このネットワークでの主なテーマは,市会議員選挙にどのように臨むかにありました。反連協としても常時この集まりに参加する中で,国定氏のほかにも志を同じくする仲間が,市議会に送り込まれるようにとの願いから大きな関心を寄せてきました。4年前の選挙では,共産党候補以外で反原発を掲げた候補は国定氏ただ一人で,地区労の総力結集に市民各層・地元の支援が加わり,比較的有利な状況で選挙戦をたたかうことができました。しかし今回は各町の市民グループに候補者擁立の動きがあり,運動全体としては喜ばしい反面,国定氏を支える支持者の確保の点では非常に厳しい状況を覚悟せざるを得ませんでした。この市議選にむけてのネットワークでの話し合いは,継続して行われたのですが市議選以外に知事選・県議選問題とのかかわりから,若干の不協和音を生じたことは残念な限りです。「原発反対」という目標を共有している限り,若干の方法論などの相違や,それぞれが置かれている状況による意識の違いを,お互いに認め合い補完していくような連帯を生むには,一つの大きな試練であったというべきでしょうか。
 ネットワーク内に不協和音を生じさせた一つのきっかけは,知事選に対しての社会党・県評センターサイドの決定にあります。杉山氏は副知事時代に,珠洲での原発立地に向けて最も露骨に珠洲市民の意志を踏みにじり,時には恫喝し,時には個別に反対派を懐柔しようと暗躍し続けてきたという事実は,如何に政策協定により縛りをかけたとしても,住民感情としてはとても承服できないものがありました。
 とりわけ高屋に住み,杉山氏を良く知る人々にとっては,それは許しがたい選択と認識されたとしても当然というべきでしょう。一方,何としても珠洲においても一定程度の支持者を確保し,現職の中西氏と互角の選挙戦を展開するには,珠洲における反中西勢力の結集をめざすことが必要とされます。そのためには,ある程度の妥協を基にして「反原発」世論を取り込むことがもくろまれるのもまた当然といえるでしょう。そして,そのためにも社会党や県評センター・連合が一定の指導や指示を降ろしてくるのもまた,当然といえるのでしょう。
 こうして珠洲における反原発の意志は,やむなく分裂的に知事選を位置づけることになりました。杉山支持の条件として,より明確な原発凍結などを政策協定として締結させようと判断したグループもあります。反連協は,その組織が依拠する地区労・社会党の政策が明確に打ち出された以上,それらの意志を実現する方向で,つまり当面知事選では原発推進に一定程度ブレーキをかけることに意義を見いだし杉山氏に協力する形で選挙戦に臨みました。
 ところで,知事選の候補者問題が決着をみたころ,ほとんど時を同じくして県議選の候補者問題が暗礁に乗り上げました。県議選の候補者擁立に向けては90年6月から地区労・社会党・市民グループ代表による選考委員会が設けられ,具体的な擁立作業が続けられていましたが,12月末に北野進氏を擁立する方向で固まりました。ただ,その最終的な決定に至る経緯の中で,前述の知事選に対する臨み方の相違が影響し,すっきりした形で一本化した体制ができたとはいえない面がありました。いろいろな憶測も取りざたされ,連帯した力を発揮するには困難な状況もありました。しかし現実的には北野氏を支持する市民の輪は,着実に浸透しました。
 反連協としては,県議選の候補に北野進氏が決定したという状況を踏まえ,可能な限りの支援をしていくことを確認しました。実際に取り組んだ運動はポスター張りの協力と電話戦術くらいですが,珠洲市郡の広範な市民の熱意と北野氏自身の情熱が,現職の一角を崩して見事当選を実現させました。それはまさに画期的な選挙でした。あたかも先の衆議院選挙で珠洲は高橋みなこ氏が2位になったことの再現ともみることができます。珠洲における反原発票の根強さを示しました。
  投票結果 上田幸雄  8860票
         北野 進  7320票
         室谷伸吉  6919票
 統一地方選の最後の市会議員選挙では,地区労が唯一の候補として出馬を依頼していた国定氏の承諾を取り付けることができ,91年2月から職場訪問などが始められました。県議選での北野氏当選の勢いは,結局4名の反原発候補を市民グループサイドで擁立することになりました。そのほか宝立地区からも1名擁立されるとの動きもあり,国定氏を推薦している反連協としては,極めて苦しい選挙戦を覚悟せざるを得ませんでした。最終的には飯田地区から落合誓子氏,正院地区から小谷内毅氏,蛸島地区から新谷栄作氏,三崎地区から出村龍彦氏の4名が立候補されました。このほか共産党公認で坂東正幸氏も原発反対を訴えて立候補されました。
 国定正重氏は“光あふれる郷土を守る”,“公正で思いやりのある政治をめざします”をキャッチフレーズとし,次の5点を公約として掲げられました。
(1) 公正で思いやりのある市政をめざし,信頼される議会の確立につとめます。
(2) 誰もが健康で明るい生活ができ,老人,子ども,病人の人権を大切にする政の実現をめざします。
(3) 安全性に疑問のある原発の立地に反対し,地場産業の育成,無公害企業の誘致につとめます。
(4) 自由で創造的な教育が行われるよう民主的教育環境づくりに努力します。
(5) 人間が人間らしく生きるための生活環境の整備・充実につとめます。
 反連協にとってもこの選挙は絶対に勝利しなければならない闘いであるとの決意で臨みました。新しい市議会構成の中で,何名の反原発議員が誕生したとしても,その束ね役としての国定氏の存在は絶対に欠かすことはできないし,過去4年間の国定氏の孤軍奮闘の成果をきちんと継承していくためにも,そしてまた珠洲市における反原発運動の士気の上からも,絶対に当選させなければならないという責任を痛感しながら選挙戦に臨みました。地区労の指導のもと,まず組合員の支持を確保する運動から始まりました。しかし,4年前に比べて組合員の絶対数の減少,市民グループからの4名の候補者,危機感を抱いた保守陣営の締めつけと切り崩しなど極めて厳しい現実に直面せざるを得ませんでした。他の反原発候補との競合を避けながら,支持者を確保していくという,これまでに経験したことのない試練の中で最終的に919票を獲得できたのは,結局地区労組合員の奮闘と良識,地元の結束さらに4年間の実績の中で国定氏自身が獲得されていた幅広い支持者の力が結集されたからにほかなりません。919票の中身については,誰もが明確には読み切れなかったともいえるでしょう。そこに市民の良識を見ることができます。
 今回の市議選に際して「原発推進」をきちんと公約に掲げた候補者は2名に過ぎませんでした。他に1名の方が「住民の意志の尊重」を掲げられただけでした。従って「原発反対」を掲げた6名のほかは13名がまったく原発に触れずに公約を並べられていたわけです。まさに争点隠しの態度というべきでしょう。しかも当選するや,いつの間にか「原発推進」に積極的に荷担しているという,ある意味では選挙民を愚弄した態度と言えるでしょう。こうしたやり方は,どこでも原発ゴリ押しの常套手段であるかのように『ENERGY for the 90's』(1991 No.3)で吉田威夫氏が書いています。これはシリーズとなっている「ルポルタージュ53」で,石川県珠洲市の場合(3年ほど前にも珠洲市が取り上げられている)ということで『「原発選挙」戦いすんで日が暮れて』というタイトルのもと8ページにわたて珠洲の状況を記載したものです。光栄にも(?)反連協のチラシの引用から始まっており,このルポの前半の一部を引用すると次の通りです(HPでは省略)。
 吉田威夫氏のレポートはまだまだ続き,次には市長選挙の得票の分析,さらに今の県会議員選挙での北野氏勝利についてのコメントなどが続いていますが,氏の結論は,次のくだりにあるようです。
「これからは議会も変わってくるだろうし,市民のほうも無関心ではなくなるだろう。保守陣営の原発推進派にとっては,禍を転じて福となす絶好のチャンス到来となるかどうかである。」
 やはり本音の部分としては,原発推進に荷担している保守系議員の依拠してきた有権者は原発問題に「無関心」であったということの認識があるようです。そこに今後のせめぎ合いがあります。従来のような先進地視察は物見遊山にすぎないことも指摘しています。選挙での買収と同じような発想で視察が位置づけられていたのではないか,という印象を吉田氏のレポートは暗示しています。
(3)市長・市議会に対する申し入れ
@ 市長への申し入れ('90.3.26)
 1990年3月26日,反連協は社会党石川県本部と連名で珠洲市長に対する申し入れを行いました。申し入れの内容は次のとおりでした。
(1) 原発とこれに関する一切の施設誘致を断念すること。
(2) 原発誘致のための一切の施策(視察や宣伝,講演会など)を止めること。
(3) 関西電力,中部電力に珠洲からの撤退を求めること。
 なお,申し入れに応じられない場合は,趣旨についての見解と別紙質問事項について文書で回答することを求めておりました。申し入れの席上,市長は文書回答を約束していたのですが,1ヶ月,3ヶ月,半年…と,時は経ても回答はなく,再三にわたり社会党県本部が催促していたのですが,その度ごとに「あと1週間…」というような返事が続き,何と250日をへた12月14日になってようやく「回答」がありました。
 この申し入れは,市長や助役の寺家における土地の先行取得が明るみに出,多くの市民の注目を浴びていたこと,さらに3月議会で国定市議が追求したことなどの状況を踏まえてなされたものですが,12月議会を迎えてようやく回答したという,しかも「別紙質問事項」には一切触れないという,極めて逃げ腰の態度です。ただひたすら「原発しかない」という,しかも「正しい認識」というのは原発の安全性を信じ,その誘致に同意することなのだという,極めて一方的,非科学的でファッショ的な態度に終始しています。
 なお,回答日が「12月14日」で,2年前に関西電力が高屋における事前調査を申し入れた日と一致しているのは,単なる偶然でしょうか。その「申し入れ」の中で関西電力は「まちづくり構想と共存共栄できる発電所構想の可能性を確認するため」と述べていましたが,今回の市長回答と奇妙に?(当然?)一致しているのも注目に値します。市長は関西電力と同じ発想で問題をとらえています。電力と一体的な姿勢。果たしてこのような市政で住民の安全は守られるのでしょうか。美浜原発事故では住民無視・利益優先の関西電力の姿勢が明確になったわけですが,初めから電力ベッタリの態度ではますます不安と不信が増大します。
A 市長への申し入れ('91.3.4)
 また,1991年2月9日に発生した美浜原発での事故に関して,反連協は3月4日に市長に対して申し入れを行いました。美浜原発事故の重大性を指摘し「原発の安全神話」は完全に瓦解したことを説明し,以下の6点について申し入れました。
(1) 珠洲における原発及び関連施設の立地計画を白紙撤回すること。
(2) 関西電力,中部電力の珠洲事務所の撤収を求めること。
(3) 今回の美浜原発事故に関し,珠洲市として関西電力に対して原因の徹底究明などの要請をされましたが,それに対する明確な回答が得られるまでは,原発立地推進に係る一切の施策は行わないこと。
(4) 平成3年度の珠洲市の予算案では,電源立地関連の費用5,522万円が計上されているというが,少なくとも従来のような先進地視察は廃止し,原発に係る講演会などは賛否両方の講師を平等に招聘し,また公開討論会の開催をめざすこと。
(5) 今後も原発立地を推進しようとするなら,住民投票条例を制定し,賛否については住民投票に問い,その結果を尊重すること。
(6) 石川県に対して,電源立地に係る珠洲事務所の撤収を求めると共に,珠洲原発関連の平成3年度予算の廃止を求めること。
 以上の申し入れに対して,席上市長から次のような口答回答がありました。
・今回の美浜原発事故については,原因の徹底究明と再発防止などについて国 (資源エネルギー庁,科学技術庁)と県に申し入れてきた。
・今後については,国としても原因を究明した上で適切に対処する。
・日本の電力の3分の1は原子力であることを考えれば,原発は必要だ。
・今回の事故は,ECCS(緊急炉心冷却装置)が作動したために事故が防げたと思う。
[注:事故直後に新聞記者に対する市長のコメントとしても同様な発言がありました。つまりECCSが作動し安全確保が実証されたという認識]
・申し入れの件については,3月議会終了後に文書で回答する。
 3月28日付で次のような文書回答がありました([資料21])。
 1991年3月4日,市長に対する申し入れと同時に市議会議長に対しても申し入れを計画していたのですが,反連協の不手際で当日は議会事務局に「申し入れ書」を預けるだけに終わりました。後日,北沢良雄議長から口答で回答するからとの連絡があったのですが,当方としては時間がとれず,結局3月25日に申し入れの主旨説明と,それに対する議長の回答を聞く場が設定されました。申し入れの内容は市長に対するものと同様ですが,どの項目にたいしても申し入れの主旨に一定の理解は示しながらも,基本的には応じられないという回答でした。
B 公開質問状の提出
 1991年4月,市会議員選挙によって前述のように新しい議会が構成されましたが,「エネルギー対策特別委員長」に高畑高儀氏が就任されたという報道があり,これに対して疑義を持ち「公開質問状」を出したいという申し入れが市民グループから反連協にありました。反連協は役員会で検討した結果,主旨に賛同し,他の7つの市民団体と共に名を連ねました。「公開質問状」は当の高畑氏自身に対してと,新しい市議会議長の瀬戸勢一氏に対して出され5月末までの回答を求めていましたが,納得のいく回答は得られていません。
C 6月議会へ請願書を提出
 91年6月,新しい市議会議委員による6月議会を迎えるにあたって,反連協は役員会を開き「原発計画の白紙撤回」と「住民投票条例の制定」を求める2つの請願書を提出することを討議しました。その際,できるだけ多数の市民グループとの共同行動を目指そうということになり,反連協の責任において市内の各地区のグループに連絡をとり,6月10日の夜「ネットワーク」を召集しました。その席上,白紙撤回が実現すれば「住民投票」は必要ないという点での論理的矛盾についても話し合われ,結局「白紙撤回」をのみ請願することになりました。
 この請願は反連協が中心となり,市内の9つの市民グループの賛同をえて,10団体連名によって実現しました。総務常任委員会では請願の紹介議員でもある国定市議が奮闘されましたが,残念ながら自民党の党議(?)を崩すには至らず,不採択となりました。なお,この請願書は,規程により瀬戸勢一議長,総務常任委員長,林市長,貝藏治電源立地対策課長に提出したほか,事前に全市会議員にも送付して,賛同されるよう要請しておきました。
(4)電力(珠洲電源開発協議会)への申し入れ
 美浜原発の事故に関して,1991年3月5日に反連協として珠洲電源開発協議会に対して,美浜原発事故の持つ極めて重要な問題点について指摘し,以下のような申し入れを行いました。この申し入れには反連協からは河岸会長,国定特別幹事のほか5名が臨み,電力側からは珠洲電源開発協議会を代表する駒形氏,関西電力の黒木氏,中部電力の杉浦氏,北陸電力の石川氏が出席しました。
 席上での電力サイドの回答は次のとおりでした。
◇まず,今回の美浜原発事故に関しては次のようなコメントでした。
・今回の事故は,9電力全体の問題としてとらえている。これを教訓として,事故原因を調査し改善していく。
・現在は,事故原因について真剣に解明中であり,専門的なことについては今は答えられないことが多い。
◇申し入れ事項について
・白紙撤回や珠洲における事務所の撤収はできない。
質:国や県が白紙撤回を指導したらどうするのか?
・現段階では電力需要の面から見て撤回できない。
質:89年5月の高屋での調査強行を反省すべきではないか?
・(関西電力の黒木氏は頭を下げるも)対話不足を反省し,今後も立地に向けて進めさせてもらう。
・事故原因の解明に時間がかかるので,安全宣伝は控えている。
・しかし,電源の必要性については今後も宣伝していく。
・関西電力としては,珠洲での取り組みは過去と変わらない。
・高屋については,会える範囲で説明をし,お詫びと経過報告をした。新聞広告も出した。(関西電力)
・寺家については,関電の事故も同業者という立場からお詫びをし,事故の説明をし,7割程度の理解を得た。(中部電力)
質:寺家でも関西電力のまねをして「土地の賃貸契約」を結んでいると聞くが?
・お答えできない。(中電は再度の追求にも口をつむり回答を拒否する)
・高屋では立地調査を行うために契約を結んでいる。(関電の回答)
質:町野や馬緤などで関西電力が土地をあさっているというが?
・全然知らない。(関西電力)
・現時点では調査中であり答えられない
・国の安全審査を受けて建設,運転している。事故の想定は,最悪のものを考えている。
・(圧力逃し弁の故障についての質問に対して)原因究明中であるが,この弁は圧力が加わらなければ作動しない。

 文書による回答は平成3年3月29日付で届けられました(

 その後「珠洲電源開発協議会」としてのチラシの折り込みはストップしていますが三崎町における中部電力のチラシ配布などが続けられています。
 美浜原発事故については,その後も事故に関わる事実を関西電力が隠していたことが明るみに出るというような状況で,関西電力の回答にあるような「原因と対策が明確になり次第…」という事態には立ち至っていないようです。従って「別途ご説明」もありません。しかしながら関西電力は,事故直後から「美浜2号機の事故があっても大きな被害がなかったではないか。原発は安全だ。」と説明して回りました。(91年7月1日発行『高屋通信』より)「ECCSが作動し,安全性が立証された」というとらえ方は,事故直後の林市長のコメントと同じ発想のようです。
 ことの重大性がわかっているからこそ,そのように強弁するよう指導されているのか,それともことの重大性がまるで教えられていないからなのか,関西電力の職員の活動には義憤を抱く人々が少なくありません。ついに彼らの中に暴力事件を起こす者まであらわれています。
(5)学習・宣伝活動として
 珠洲市当局や珠洲電源開発協議会,さらに能登原子力センターなどが,多額の費用を投じて「原発の安全性と必要性」を一方的に宣伝するのに対して,反連協としてはいかに正確に「原発の問題点」をきちんと訴えていくかが重要な課題であるととらえてきました。そのため,1990年8月15日に珠洲市内の3紙(北國,中日,読売)に折り込みを入れたのをはじめ,10月26日(反原子力の日),12月7日,1991年3月1日には珠洲市と内浦町の3紙に折り込みを入れました。また,4月29日には市会議員選挙を踏まえて珠洲市内の3紙に折り込みました。
 また,昨年度に引き続き多くの団体などの要請もあって『珠洲原発の経過と現状』をレジメにまとめ,印刷配布しました。特に1990年10月31日〜11月2日に金沢で開催された全国護憲大会用には500部のレジメを印刷,配布しました。
 泉滋子さんが自費出版された『鳥ではないから』は,珠洲原発をめぐる攻防を主婦の立場から記録した,まさに人間の魂の記録で,多くの人々に読んでもらうことが大切であるとの観点から,その販売にも協力しました。
 当局側が招聘して開催し続けている「原発講演会」は,実に一方的で非科学的なものであるとの認識から,ヒモつきでない学者や専門家による講演会の開催を検討してきました。その結果,原子力資料情報室の高木仁三郎氏にご協力をいただくことができました。1990年12月8日(土)は午後7時から内浦町福祉センターで,翌9日(日)午後2時から珠洲市農協会館ホールで「原発ホントの話」という内容で講演会が実現しました。この講演会の開催についての準備などは,反連協が担当しましたが主催団体としては広く市民グループの協力をも得て「珠洲の原発を考える会」を構成し,珠洲地区労,内浦地区労とも共催した形で実現しました。講演の中で高木氏は,推進側のチラシの内容がいかに誤りに満ち,恣意的なものであるかをもていねいに説明されました。なお,主催者を代表して国定氏は挨拶の中で「91年の県議選勝利をめざそう」という決意を表明されましたが,それが4ヶ月後に見事実現しました。
 なお,この講演会では原子力資料情報室発行のパンフや高木氏らの著書の販売活動も行いました。
 その他,反連協では市内の4ヶ所に「原発反対」の看板を維持してきましたが,そのうちの正院町川尻地内のものが破損し,撤去しました。現時点では改修していません。また,街宣用に自動車を保持しておりますが,この効果的な利用の点では十分に機能しているとはいえません。
(6)他団体との交流など
 この1年間に珠洲を訪れ,反連協も一定のかかわりを持って交流した団体は次のとおりです。
・ 4月13日(金)〜14日(土)
大阪市職員組合「反核・反原発闘争推進委員会」の一行約40名(木の浦荘)
・ 6月8日(金)〜9日(土)
日本都市交通労組関西地方本部の青婦協役員12名(木の浦荘)
・ 6月9日(土)〜10日(日)
石川県評センター青年部一行(高橋美奈子氏同行)約15名(高屋:塚本宅)
・ 7月25日(火)〜27日(木)
ピース・サイクル一行珠洲スタート(数名が合流し,行動を共にする)
・ 9月6日(木)〜7日(金)
日本都市交通労組関西地方本部の青婦協メンバー約40名(木の浦荘)
・ 9月27日(木)〜28日(金)
大阪市職員組合青年部約20名(木の浦荘)
・10月6日(土)
大阪の原水禁・総評センター役員(現地案内と交流会:珠洲労働会館)
 以上のように大阪方面からの現地視察が多く,彼らは電力の大量消費地に住み,関西電力のひざ元にいるという立場から,原発反対の運動にどのようにかかわっていけばよいのかという問題意識を持っていました。交流会には常に地元の高屋や寺家の方にも参加してもらい,生の声を聞いてもらうことができました。なお,これらの団体の珠洲訪問は,すべて県評センターなどの仲介によるものです。
 この他,石川県高等学校教職員組合(高教組)は1990年7月12日に機関会議を開き,珠洲における反原発運動の状況について報告するよう反連協に要請してきました。運動の状況と推進側の動き(毎週折り込まれてくるチラシなども資料として)を簡単に紹介したところ,珠洲における反原発運動・土地共有化運動を支援するためにカンパを行うことを決定してくれました。そして8月末までに,各分会から集約されたカンパを携えて,高教組執行委員長と書記次長が8月29日に珠洲を訪れ,反連協会長河岸二三氏に渡してくれました。なお,その際に寺家や高屋の現地を訪問し激励やさしいれをしていきました。その後,高教組による支援カンパの最終集約分が1991年4月9日に納入されました。
 また,西日本鉄道産業労働組合自動車地区本部(鉄産労)は1990年9月5日に第3回定期地区本部大会を開き,特別決議として珠洲原発反対運動を支援する取り組みを決定,同時に支援カンパと署名活動を行いました。その結果,石川県内のみならず福井県,滋賀県に在住の組合員(一部富山県在住者も含め)192名の署名とカンパが届けられました。
 全農林の北能登支部定期大会や旗開き(珠洲)には常に反原発運動を課題として位置づけているほか,11月17日(土)には「日本の農業と自然を守る運動」として高屋から飯田までを自転車キャラバンし,珠洲原発反対を訴えました。この行動は反連協も若干の支援行動をとりました。また,全農林(北陸地区)青年部でも珠洲原発の問題に関心を示し,10月に金沢で学習会を開催,反連協からの報告を求めてきました。(資料原稿を送付)このように全農林では日本の農業を守る運動と反原発運動を一体的にとらえ,日常的な運動としています。
 能登原発反対運動とのかかわりの点では,常に受動的で,県評センターなどからの要請があった場合にのみ行動(下記)するという程度で,主体的・積極的に取り組むことはできませんでした。
1990年 6月15日(金) 志賀町での平井孝二氏による原発講演会と,海恵宏樹氏の総決起集会への参加
10月 4日(木) 能登原発海洋調査訴訟結審総決起集会(志賀町)
1991年 2月 9日(土) 能登原発防災計画についての学習会(七尾)
6月 8日(土) 能登原発防災計画の全面見直しを求める県民集会
 特に現在争っている裁判闘争に関しては,その原告団にも一部加わってはいますがまったく参加することができませんでした。90年6月の志賀町町長選挙や91年5月末〜6月の能登原発への核燃料搬入に際しても,反連協としての行動は特別できませんでした。市民グループの中には,これらに際して連日,積極的に現地を訪れ,具体的な行動を行った人々も多く,あらためてそのパワーを痛感させられました。
(7)その他の行動として
 高屋における関西電力の工作に対する監視行動については,90年6月末までは地区労の協力を得て実施してきましたが,電力の工作活動の時間帯が夜間に及ぶことが多く,動員体制で監視・阻止することは不可能でした。7月以降,高屋への計画的な動員は見合わせています。
 高屋での農業を身を持って守り,スイカの産地直送を開始したIさんに協力して若干ながらスイカの販売を試みました。非常においしく,好評でした。
 10月末〜11月に金沢で開催された全国護憲大会に向けて,珠洲の現状を少しでも知ってもらおうと,反連協の負担により『珠洲原発の経過と現状』のパンフ500部を作成し,配布してもらいました。また,泉滋子さんの著書『鳥ではないから』の販売をも県評センターを通して取り組んでもらいました。
 この一年,県評は解散して県評センターに,また珠洲地区労も解散して地区労センターへと移行しました。珠洲では1991年5月のメーデーが「連合」としての開催となり,「原発反対」のプラッカードに混じって「原発推進」が掲げられるという,まさに異常なものとなりました。地域に根ざして原発を阻止した運動を展開していくとき市民グループとの協調とともに,いわゆる同盟系の労働者の中にいかにして理解を深めていくかが今後の課題でしょう。
 1978年3月の反連協結成以来,常にその中心母体として運動を積極的・献身的に担ってきた珠洲地区労が解散しました。新たに発足した地区労センターに引き継がれますが,これまで13年間に及ぶ地区労組合員のご協力に敬意を表します。

1991年度の活動
 反連協は第14回総会を 1991年7月27日(土)に開催しました。91年は,統一地方選挙の年に当たり,関西電力による調査再開の阻止と,中部電力による寺家での具体的な調査開始の阻止のためには選挙で勝利することが最も現実的な課題であるとの認識のもと,年頭から選挙に向けての取り組みが最優先されました。そのため反連協の最大の母体である珠洲地区労(総会後は「地区労センター」と改名)の定例総会の開催も6月下旬にずれ込み,それに連動して反連協も大幅に定例総会の開催が遅れました。
 総会は,統一地方選挙での勝利を踏まえ,活気ある雰囲気の中で開催されました。

1 活動方針
  チェルノブイリ原発事故の被害は,時とともに拡大の一途をたどっています。「核燃料サイクル」という発想は,今やドイツでもフランスでも過去のものとして葬られようとしています。「再処理」はすでにアメリカでは放棄され,今なおこれに固執しているのは日本だけと言って過言ではありません。
 経済大国日本は,今回のサミットで「地球環境を守るには原発も必要」という宣言を盛り込むことに成功しました。それが世界の趨勢に逆行するものであっても,経済大国の威力でしょうか。
 地球という星は,人類の生存に関係なく太陽からのエネルギーと,豊かな水に覆われた,太陽の惑星であるというごく当然の事実を無視して,地球環境を論議することはできません。人類の活動が,この環境の中で何をなしうるのかを,今こそ自問自答すべきでしょう。40億年という歴史があって,ようやく地上から払拭された放射線(放射能)を,なぜ人類は自らの手で再現させようとするのでしょうか。そんな次元に「原子力の平和利用」はあり得ません。
 世界の趨勢がようやく太陽光発電や風力発電へと転換し始めました。地球環境の許容範囲での活動を意識し始めました。環境を守ることが一時的な経済(コスト)よりも優先することだという認識が広まっています。
 日本における「脱原発」の運動も年々着実に拡大しています。和歌山県の日高では,町長も原発誘致を断念することを明言しました。日高のみならず全国至る所で原発の新規立地を阻止する運動が着実に効を奏しています。
 いま一つの問題は,既存の原発ではその保管場所が困難になってきている低レベル放射性廃棄物を含めた廃棄物処理場の確保についてです。ひそかに電力が調査している箇所が次々と明るみにでて,反対運動が起こっています。今後,さらにこの問題がクローズアップされるでしょう。そしてその候補地の一つに珠洲市があるとの懸念は依然として払拭できません。
 先頃,地下に活断層があることが指摘されたばかりの「もんじゅ」は来年10月の初臨界を目指して総合機能試験中ですが,二次冷却水系の配管が設計とは逆方向に熱膨張していることが判明しました。高速増殖炉は冷却材にナトリウムを使用するため,その一点だけを考えても危険きわまりないものなのですが,いまだ確立していない技術により強引に実用化への道をばく進しようとしている姿勢こそが,厳しく糾弾されなければなりません。
 石川県では92年夏と計画されている能登(志賀)原発の試運転を前に,法廷闘争と防災計画・避難訓練の策定に向けての運動が,ますます重要となっています。志賀町は91年7月22日に「町防災会議」を開き今年度中に原子力防災計画を策定することを決定しました。志賀町の「子供達の明日を考える父母の会」は町議会議員に対して防災計画や避難訓練についてアンケートを実施しました。それによれば過半数をこえる議員が町民全員対象による避難訓練実施に肯定的な回答をしたと伝えられています(91.7.23 北国新聞)。どのような事故が起きても安全が保障されるような防災計画と避難訓練が確立しない限り,試運転を認めないという姿勢を堅持するよう運動を拡大していく必要があります。
 珠洲市におけるこの一年は,県議選での北野氏当選,市議選での4名の反原発候補の当選,国体開催などの要因から,表面的には平穏に推移する可能性もあります。しかし,背後では関西・中部の両電力による懐柔策は確実に続けられています。両者ともに土地の確保のための賃貸契約の締結を執拗に求めています。また,行政とも一体的に「先進地視察」への動員を画策しています。平成2年度寺家地区原子力発電対策委員会総会で,辻委員長は「すでに(寺家)区民全所帯の割以上の方々が先進地視察され,それなりに良い結果が得られたかと思います。(中略)全く食わず嫌いで視察研修を拒む人のないよう努力をしなければなりません」と開会の挨拶で述べています。つまり行政と電力が一体的に進める先進地視察に参加しないような人を「食わず嫌い」と断ずるだけでなく,拒ませないように努力することを訴えています。つまり「有無を言わさず行かせよう」という,まさにゴリ押しの推進側の本音があります。職場・血縁・利害など,あらゆるしがらみを利用して,推進側に引き込もうとする巨大な力を前にして,自らの信念を貫き通している多くの人々を,いかにして支えていくかが問われています。
 それは,高屋でも寺家でも共通した課題です。原発に関係なく当然行政がやらなければならないことを,あたかも原発誘致の前提であるかのように結びつけ,反対しずらい状況を創ろうという思惑さえあるようです。特に寺家地区におけるそうした攻勢には十分警戒が必要でしょう。

2 91年度の経過
(1) 石川県の動き
@ 不十分な防災計画
 石川県においては,能登(志賀)原発の1992年秋の試運転にむけた準備が進められています。試運転を前にして,防災計画の策定を求める運動が県内はもとより富山県などでも取り組まれました。しかし策定された防災計画では多くの問題があります。石川県評センターや能登原発差し止め訴訟原告団では次のように指摘しています。
(1)甚大な被害が予想されるのに,原因責任者の電力が,米国と異なり防災計画策定の義務もなく,国の安全審査の対象にもされていない。
(2)肝心の事故想定が抽象的かつ楽観的で,現に予想される事態をカバーしていない。対象区域も10キロという狭い範囲を固守している。
(3)住民の防護基準=予測被曝線量が高すぎる。「急性障害を避ければ良い」という発想である。
(4)緊急時体制は電力・行政とも無きに等しい。現に美浜事故で関電は構内の見学者すら放置したし,県は奇しくも前年,同じ事故想定で通信訓練をやったのに周知の通りだった。
(5)緊急時の医療も多数の被災者に対応できない代物。スタッフ自体,確保できていない。
A 原子力防災訓練の問題点
 住民の健康を守るための防災計画ではないという批判を無視し,石川県と志賀町等は,1992年6月9日に原子力防災訓練を実施しました。県評センターおよびとりわけ自治労が積極的に取り組み,住民の安全確保に意を注ぎました。当日は早朝から集結し,訓練の監視行動や住民へのアンケートを実施しました。その結果,予想されていた以上の問題点が明らかになりました。
 すべては定められていたスケジュール通り行われました。住民にも動員されている町の職員にも何の緊迫感もなく,事務的に処理している姿が印象的でした。果たして実際の事故の場合はどうなのでしょうか。
 自治労や県評センター,市民グループによる住民アンケートの結果,いつかの問題が明らかになりました。特に高浜地区ではアンケートの結果,事故を伝える放送について,334名中278名(83%)が「よくわからなかった」または「気づかなかった」と答えています。当日,訓練があることは事前に知らされていたことを考えるなら,実際の場合は更に気がかりです。
 総じて実際の事故の場合に,すべての住民が安全に確実に身を守り得るのかといえば,とても不可能だと断言しなければなりません。ましてたとえ避難を要する範囲を半径10qに限定したとしても短時間に広報を徹底し,全住民を避難させうるだけのバスを確保することは不可能でしょう。また,空中に散布された放射能が風に乗って南下したとしたら,能登半島の中央からどこへ避難するのでしょうか。
 結局この訓練は,試運転を実現させるためのセレモニーでしかないようです。しかし,そうであればあるほど試運転を認める口実にしてはなりません。万が一の場合にも安全が保障されるということがとても立証されなかった以上,試運転を認めるわけにはいきません。
B 原発建設工事が終わって,もう1基?
 ところで志賀町では原発建設工事が終局を迎え,多くの作業員が去ってしまいました。一時的に賑っていた町に,静寂がもどりつつあるようです。ある喫茶店でそうした生の声が聞かれました。過疎からの脱却には原発が有効だと信じている志賀町のある職員は,もう1基原発をつくるのは当然だと語ってくれました。原発がエネルギー源として最適ではないことは認めながらも,事故は起こらないということを信じ込んでの選択のようです。しかし,それらの原発が事故なく稼働し,廃炉となって後のことについては,考えたこともないとのことでした。志賀原発の末期は町全体の死が待っているのでしょうか。
C 見えない能登半島の将来
 石川県は1992年夏,ソーラーカー・ラリーなどを計画しています。まさに自然にあるエネルギーを利用しようというものですが,その根本的な思想に疑問が涌きます。一方で原発の新規立地を極めて強引に推進しながら,他方では太陽エネルギーの利用を目玉にしたイベントを実施するという姿勢です。国民体育大会の次は国民文化祭というような連関さえなく,単なるイベント好みの事業なのでしょうか。リゾート開発が全国的に見直されている昨今,特に能登半島の将来にどのようなビジョンを示そうとするのかが,きわめて不安です。国の施策である原発立地に今後も積極的に協力しまさに能登半島全体をエネルギー基地としようというのでしょうか。
 地球環境が問われている今,恵まれた自然を保持している能登の長期的な展望を創造していくことが急務でしょう。
D 能登原発建設差し止め訴訟
 一方では能登(志賀)原発の建設差し止め訴訟が精力的に続けられています。
 1992年6月11日には,その第24回の口頭弁論が行われ,原告側の証人として京都大学原子炉実験所の今中哲二助手がチェルノブイリ原発事故の現地調査結果を報告しました。そのなかで,放射能汚染の状況や人体への影響など,原発事故の危険性を指摘しました。また,チェルノブイリ事故による汚染範囲を志賀原発にあてはめた場合,北は青森,南は四国にまで及び,阪神地区までは高濃度の汚染の恐れがあると,被害の大きさを強調しました(’92.9.12付『北國新聞』)
 このように裁判闘争の過程で,良識ある専門家たちが,原発の持つ潜在的危険性を明らかにし続けています。

3 珠洲での闘い
 珠洲におけるこの一年間の経過については,各種の選挙で賑った前年度に比べれば小康状態にあった,ということができるでしょう。もとより水面下では,さまざまな策動があり,とりわけ「先進地視察」が行政と電力によって精力的に取り組まれてきました。まさに1年に1回の定期的な無料慰安旅行のように位置付けている市民もいるほどです。またオピニオンリーダーの組織化,アトムスレディづくりなど,原発推進の担い手づくりも進められています。何回かの講習会に出席し,旅行(視察)に行って,最後に市長から終了証(認定証?)を直接受領するというように,原発推進のリーダーがいとも簡単に生み出されているようです。昨年度では,いわゆる「視察」が97団体,2235名,地区講演会・懇談会36回で836名,オピニオンリーダー学習会(9期)768名ということです。かくして「電源立地の正しい理解を深めるために大きな効果があった」というのが市長の認識です(1992年3月議会での市長発言)。
 この一年,珠洲における原発反対の運動は表面的には静かに推移しました。それには,とりたてて推進策動に大きな動きがなかったことと,昨年4月の統一地方選挙で一定程度の勝利を実現したことがあげられます。特に県会議員選挙で北野進氏の当選が実現したことは実に画期的なできごとであり,その若さと実直さをいかんなく発揮して奮闘をつづけていることにたいしての安心感があります。また,珠洲市議会でも国定氏のほか3名の反原発議員が誕生し,それぞれが議会で活躍していることによる信頼があります。単に原発問題に限らず,もろもろの政策決定のプロセスが,4名の議員による「珠洲市民会議」によって明るみに出され,従来の密室的政治が大幅に改善されてきたことも,画期的なできごとです。
 反連協は,この一年,地区労センターや社会党珠洲支部はもとより,北野県議・珠洲市民会議,市民グループなどとの連係を保ちながら運動にかかわってきましたが,以下,その主なものは以下の通りです。
(1)珠洲市議会に対する取り組み
 1991年の6月議会に「珠洲原発白紙撤回」を求める請願を提出しましたが,その後9月議会,12月議会にもほぼ同主旨の請願書を提出しました。そのいずれも反連協が主体となり,多数の市民グループの賛同を得て連名で提出してきました。議会内にあっては,珠洲市民会議の議員各位が採択するよう努力されましたが,毎回不採択となっています[12月議会へ提出した請願と採択結果→資料23]。
(2)広報・情宣活動として
 第14回総会('91.7.25)以降では,「10・26反原子力の日」に市内の3紙にチラシを折り込みました。また,翌27日(日)には,街宣車で終日市内の全域で反原発を訴えました。
 また,1992年4月26日,チェルノブイリ事故6周年に当たる日に,市内の3紙に反原発を訴えるチラシの折り込みを行いました。(B4版)
@ 藤田祐幸講演会(’91.11.8〜10)
 また,今年も昨年同様に「珠洲の原発を考える会」の主催で,講演会を開催しました。慶応大学の藤田祐幸先生が珠洲を訪問されるということで,1991年11月8日には夜8時から馬渡で開催したのを初めとして,翌9日(土)夜7時から三崎町公民館で,また10日(日)は午後2時から飯田町乗光寺,夜7時からは宝立町公民館で開催しました。そのいずれの会場でも,進行や運営は当該市民グループに担当してもらい,反連協としては‘裏方’に徹しました。藤田先生には「視察では見えない原発の実態」ということでお話を願いました。氏は,チェルノブイリ原発事故の現地を詳しく調査され,その「汚染地図」を作成されましたが,その被害の実際について,OHPを使って生々しく説明されました。氏らが作成された「汚染地図」を200枚反連協で買い取り,販売しました。以上4会場あわせて約140名の市民が講演会に参加しました。
 この講演会の宣伝のために,各会場別にポスターを作成し掲示したほか,B5版サイズで新聞折り込みを行いました。また,11月9日(土)と10日(日)にはそれぞれの地区に街宣車を出して,広く参加を呼びかけました。
A チェルノブイリからの報告会
 同じく11月に,今度はチェルノブイリから直接その惨状を報告し,子供たちの救援を求める人々が珠洲を訪れました。民間の救援団体「チェルノブイリの子供たちのために」の一行3名(ベラルーシのミンスク大学教授で最高会議議員でもあるゲンナジー・グルシェヴォイ氏が代表)です。ベラルーシの状況,特に子供たちの被害のようすについて説明され,夏休みなどの休暇を利用して子供たちを受け入れて欲しいという訴えがありました。また,一行はベラルーシの写真や,子供たちが描いた絵画を持参され,珠洲市中央公民館に展示しました。
 「原発事故で子供たちは…」と題した“チェルノブイリからの報告会”は,「原発を考える議員連盟」(珠洲市民会議の4市議と北野県議で構成)の主催という形で開催,反連協はその事務局を担当しました。この報告会は11月21日(木)の午後2時からと夜7時からの2回,珠洲市中央公民館で開催しました。昼夜合わせて約250名の市民が参加しました。この報告会の案内用チラシ(B5版)を反連協で作成し,市内の新聞に折り込みました。
 なお,この報告会の参加者に「チェルノブイリ汚染地図」の残部を無償配布しました。会場ではチェルノブイリの子供たちのためのカンパも行われました。
B その他
 1992年3月28日〜29日に,石川県評センター青年部が高屋で学習・交流会を開催しましたが,29日午前中には高屋,三崎,飯田でチラシの配布行動を行いました。反連協も若干の共同行動を実施しました。
(3)各種団体との交流
@ 「ネットワーク」とのかかわり
 1989年6月17日に多くの市民グループなどによって「珠洲原発反対ネットワーク」が結成され,ほぼ定期的に集まりを持っています。当初から反連協も参加し(正式に加盟しているというような組織ではない)交流を持っています。
 91年4月の市議選では,それぞれの地域から反原発の候補者を擁立したこともあって,常に共同行動をとっているわけではありませんが,現状の分析などで情報や意見を交換する場として,大きな意義を持っています。反連協がかかわった講演会などでも,このネットワークを通して協力を呼びかけてきましたし,市議会に対する請願行動に関してもネットワークで確認してきています。
 現在,ネットワークでは,来春に迫った市長選挙に関して意見の交換がはじまろうとしています。
A ピースサイクル
 全国各地から「平和・反核・反原発」を訴えて自転車で広島まで走ろうという「ピースサイクル」運動があります。この運動は,もともと全逓の仲間によて始められたものですが,現在では多くの賛同者が集まり,まさに全国的な運動となっています。石川県でも90年度から「ピースサイクル実行委員会」が結成され,同年7月26日に珠洲をスタートしました。この運動には反連協も共同行動をとってきました。
 91年にも7月25日に石川県のメンバーと「近畿ネットワーク」からの参加者が珠洲にやって来ました。夜,蛸島の民宿で地元漁協の婦人部などを交え交流会を持ちました。翌26日の早朝,蛸島漁協前で多くの漁協組合員や婦人の結集する前で出発式を持ちました。国定市議と新谷市議の激励もありました。
 反連協からも若干名が自転車で参加したほか,街宣車で先導しました。蛸島から三崎(寺家で休憩),狼煙,折戸を経て高屋で交流,大谷を経て輪島に到着,輪島市長に対する「申し入れ」を行いました。その後,門前まで走り第1日目の日程を終えました(この経路について同行しました。)
B 石川県評センター青年連絡会
 標記の青年労働者20名余りが1992年3月28日〜29日,高屋で学習・交流会を持ちました。地元の高屋の住民のほか,北野県議も参加しました。反連協からも若干名が加わりました。29日には高屋,三崎,飯田等でビラ配布を行いました。その後労働会館前で集会を開催,国定市議も出席されました。
C 救援団体「チェルノブイリの子供たちのために」一行との交流会
 1991年11月21日,昼夜2回の「報告会」を開催した後,労働会館で交流会が持たれました。ベラルーシからの4名のほか,「原発を考える議員連盟」の全員をはじめ,市民グループからも10名以上の参加がありました。
(4)その他の行動
@ 前述のように,この1年間は全般的に休止状態を続けています。寺家・高屋との交流についても,特別の取り組みは行っていません。また,両地での土地共有化に関しても,新たな取り組みは行っていません。
A 電力に対しては,91年2月の美浜原発事故に関して申し入れを行って以来,会っていません。その時の申し入れや質問事項の中で,事故原因が確定するまで回答が保留されている項目がありますが,いまだに電力サイドから話はありません。
B 珠洲における反原発の闘いは,まだまだ長期化すると考えなければなりません。当反連協が発足してからちょうど15年目を迎えました。この間,構成団体である地区労(センター)や社会党珠洲支部の各位の献身的な協力によって,珠洲における「反原発運動」に大きな足跡を残してきたことを自負しつつ,今後予想される重大な局面では,いかんなく力を発揮できるよう体制を整える必要があります。市民運動と一体的に原発阻止を実現していくための礎を固めることです。

  反連協のあゆみ