反連協のあゆみ 
4 「反原発」の正念場
1987年度の活動
 チェルノブイリ原発事故を契機に,世界中が脱原発へ向けて着実に歩み始めたこと,そして珠洲でも4月の市議選に反原発を掲げた国定正重氏が上位当選を果たすなど,反原発の運動に一つの節目をもたらす第10回の総会('87.7.3,労働会館)となりました。
 総会には44名の代議員(委任状3名分を含む)が出席,Y幹事が進行役をつとめ「反連協結成以来10年を経た今日,地道な反対運動により珠洲原発は今だに足踏み状態が続いており,土地はまだ一坪たりとも電力会社に渡していない」と挨拶,総会の成立確認を報告,珠洲教組の代議員が議長を務めました。
 入院中の河岸会長に代わって副会長が「反原発運動10年の節目にあたり,これまでの運動を再度点検し,再構築しなければならない」と挨拶。
 来賓として国定正重市議は,市議選に対する謝意を述べた後,6月議会の報告をし「珠洲原発については,市民全体が手をつないで息の長い反対の闘いを続けていこう」と決意を述べました。続いて「高屋・郷土を愛する会」会長の竹中庄一氏からの挨拶を受けました。その中で「現在の高屋は,寺家ほど深刻ではないが,電力の工作員はあいかわらず各戸へ訪れている。北部漁協では組合長1人が原発の誘致に積極的に動いている」との現状報告がありました。

1 活動方針(総会議案書より)
<情勢分析>
 今年3月の定例市議会直後,自民党珠洲支部の会合で,支部幹事長の新木巌市議が,「自民党公認を名乗る以上,原発立地の推進を公約に掲げてほしい」と市議選立候補予定者らに要請しました。その結果,「選挙公報」の紙上で,現職の自民党公認候補14人のうち10人が「電源立地の促進」「電源立地による地域開発」などの表現で,原発推進を掲げました。昨年の6月議会に原発誘致を決議した自民党議員が,原発誘致に取り組んでから13年目にして,初めて「電源立地の推進」を公約にしたわけで,強気の姿勢が感じられました。21人の市議選立候補者の中で,「原発立地に反対」を表明したのは,国定正重候補(地区労推薦)と坂東正幸候補(共産党)の2人だけでしたが,国定候補が1077票という高得票で上位当選を果たしたことは,珠洲の良心の勝利と言えます。前回の市議選で社会党が議席を失ってから県内8市で野党議員が一人もいないのは珠洲市だけでしたが,漸く革新の灯をともすことができました。くしくもこの4月26日の投票日は,チェルノブイリ事故1周年の日でもあり,心ある市民が一丸となって原発阻止に燃えた日となりました。
 ところで,能登原発1号炉が '86年12月18日に電調審の認可を受け,珠洲原発もそれに続けという内外からの圧力が日ごとに増大しつつあります。
 6月8日,北陸原子力懇談会の総会で,宮太郎会長が挨拶の中で,「珠洲原発は新しい進展が見こまれる」と評価し,昭和62年度事業計画にも「珠洲予定地の新しい進展を目指し,安全性の理解促進を基調に情報サービス提供の充実,啓蒙活動に努める」との基本方針があり,承認されました。
 6月11日には,珠洲原発の建設問題で杉山副知事,深美県企画開発部長ら県側と,「珠洲原発建設反対移転者・土地所有者連盟」(10人)の第2回会談が,珠洲市役所でありました。
 又,6月18日から22日にかけて,市の地域振興課長ら一行が寺家地区塩津上野56戸を対象に,原発立地と家屋移転の理解を求める説明会を行いました。これは86年9月10日に,電力側が「寺家地区に出力が100万kW級原発を2基建設したい」と表明したのを受けたもので,初めて家屋移転後の街づくりイラストを提示しました。
 6月24日の県議会では,上田幸雄議員が「高屋地区での珠洲原発立地促進を図れ」と質問したのに対し,中西知事は「珠洲原発立地は,寺家地区に比べ高屋地区で具体化が遅れており,電力側に推進を働きかける」と答えました。
 こうした圧力に抗して6月17日,珠洲市議会で国定正重議員は「原発誘致を積極的に進めている市側の姿勢は 市民感情を無視したものだ」と質しました。
 又,6月22日の県議会で池田健議員(社会党)が 「珠洲原発の計画が 21世紀の能登半島にどれだけ寄与するかは疑問。安全性,電力需給量の見通しなど論議を呼ぶところ。副知事がこれまでに3回も現地におもむいて説明しているようだが,原発の可否は住民の自由な判断にゆだねるべきだ」と質問しました。
 6月22日,原子力委員会は,電力需要の低迷を反映して「2000年の原発設備容量の旧計画を40%下方修正する」と原発開発のペースダウンを発表しました。原発の発電コストも,石油・石炭より割高になり,「安い原発」という神話がくずれました。
 県内の政治・経済界が,珠洲原発に熱のこもった論議をしている昨今ですが,私達はチェルノブイリ事故後,世界の趨勢が原発廃棄に向かっているという歴史の流れを忘れてはなりません。私達は今後とも,原発を取り巻く状況や問題を学習し,能登原発・珠洲原発に反対する市内外の人達と連帯して,原発におびやかされない,自然の豊かな,住みよい珠洲市の建設を目指して行動していきたいと思います。
(「具体的な取り組み」は従来と同じ)

2 総会での質疑等
 総会の質疑で出された意見や質問のうち,主なものは次の通りでした。
・能登原発(現「志賀原発」)をめぐる情勢は,非常に活発に動いているようだが,そこから大いに教訓を学び,珠洲原発反対運動に生かしていくべきだ。
・原発予定地はもとより,市内の各地にもっと「反原発」の看板を設置するとか,各戸にステッカーを貼ること等,宣伝方法を検討したらどうか。
・反連協としての主な年間活動内容についてはできるだけ具体的に提示してほしい。
・反連協の会計年度は4月〜3月なのだから,総会はできるだけ年度当初に開催すべきだ。
 以上のような意見・要望については,今後反連協の役員会でできるだけ取り入れていくことが了解され,「'87年度活動方針」は原案の通り決定されました。
 「'87年度予算」の審議では「年間の収入見込みが7万円という予算では非常に少なく,充分な活動はできないのではないか」との意見がだされましたが,事態の推移によっては,赤字覚悟ででも運動を追求したいとの事務局の決意が表明され,了解されました。
 第10回総会では次の「反連協規約の一部改正」も決まりました。これによって国定正重市議を最初の「特別幹事」に迎えることになります。

3 世界・日本の状況
(1)世界は「脱原発」の流れ
 1986年4月26日のソ連チェルノブイリ原発事故で世界に撒き散らされた放射能は,土・水を通して生物の体内に濃縮され,それが食物汚染となって人類を含めてすべての生物の生存を危うくしています。
 世界各国で,いかに早急に脱原発を実現していくかが最も緊急の課題として受け止められ,行動が起されています。
(2)日本での反原発・脱原発の広がり
 「脱原発」に流れを転換している世界の趨勢から取り残され,日本の「反原発」の運動は,それぞれの狭い「現地」だけの問題のように矮小化されてきた傾向がありました。しかし,特に広瀬隆氏の著書『危険な話』(八月書館)の記録的な広がり等によって,「原発は危険である」という事実・実態が広く認識されるようになり,一人ひとりの行動の輪としての「反原発」の運動が,全国各地で生まれています。
 高知県窪川町は四国電力の原発建設候補地となっていましたが,誘致を進めてきた町長が1988年1月に誘致を断念して辞職,原発反対の新町長が当選しました。
 3月末には和歌山県日高原発(関西電力)も白紙状態に追い込んでいます。
 青森県六ヶ所村の「核燃料サイクル基地」計画,北海道幌延町の「放射性廃棄物の集中貯蔵施設」等に対しても,全国レベルでの反対運動が拡大しつつあります。   「電力不足」「原発は安全」「原発は安い」………そのどれもが,もはや虚偽であり,何ら説得力を持ち得なくなっています。電力需要は低迷し,その一方では「自家発電」をとり入れた企業が増大しています。ために電力需要の長期見通しは相次いで下方修正を余儀なくされています。廃炉後のコストや廃棄物処理費用を入れずにかろうじて「低コスト」を宣伝してきたのですが,それも破綻しています。
 世論は次第に「反原発」への大きなうねりとなりつつあります。こうした現状への不安から政府・電力は「原発安全PR」にやっきになっており「原発否定は電力の否定」とのキャンペーンをはっています。しかし,彼らの「大丈夫という説明がむなしく聞こえる」(瀬戸内寂聴敦賀女子短大学長)のが現状となっています。

4 能登原発をめぐる状況
 石川県では,北陸電力と県が一体となって能登原発の立地に向けてゴリ押ししています。1987年11月,北陸電力は能登原発の準備工事を開始しました。4度にわたる敷地縮小や敷地内に県道があること等,多くの未解決の問題を抱えたままの既成事実づくりに対し,12月には「能登原発・安全審査徹底追及『準備工事』着手抗議集会」に数百名が結集し,赤住の町をデモし反原発を訴えました。また,原子力安全委員会に対して「安全審査」の徹底を求める上京交渉団を派遣するなどの運動が展開されました。1988年2月には「能登に原発はいらない!加・越・能共同行動」として県内4ヶ所で「チェルノブイリ原発事故と私たちの未来」と題する広瀬隆氏の講演会が開催され,反原発運動に大きな弾みを与えました。
 2月24日には「能登原発第二次公開ヒアリング」が強行されましたが,今回もものものしい警備の中で,住民の意志を無視したセレモニーでしかありませんでした。狭い意味での地元だけではなく県内各地からはもとより,富山県などからも多数の住民が結集し(2200名),抗議行動を起しました。また,こうした事態に際して,県内でもいくつかの自主的・自発的な市民運動のグループができ,それぞれが具体的な行動を始めています。

5 珠洲原発推進側の動き
 珠洲原発をめぐっては,前年来「来春がヤマ場」(林市長)と設定されてきました。県でも,新たに珠洲原発立地のための職員を増員し珠洲に派遣するなど,全面的に珠洲原発実現に向けて取り組んでいます。「原発しかない!」との行政当局の悲壮感が,三重県芦浜での原発立地を断念せざるをえなくなり「珠洲しかない!」という中部電力の思惑と一体化している状況です。
(1)寺家地区の状況
 1987年8月,「石川県・珠洲市」発行というかたちで2冊のカラーの小冊子が寺家地区の各戸に配布されました。1つは『地域の活性化と原子力発電所』というタイトルで,その内容は概略次の通りです。
・「寺家地点での原子力発電所建設基本構想」
 当面100万kW級2基,敷地面積約50万坪
・「原子力発電所と地域の振興」
社会経済への波及効果:人口の増加,地元雇用の創出,地域経済への波及効果
生活・産業基盤の整備:電源三法交付金制度による社会基盤の整備
        [120万kW2基の場合として約75億円]
       [固定資産税による長期的財政基盤の確保:数値なし]
・「寺家地区振興計画の基本構想」
生活環境施設等の整備:移転住宅地の整備,公共施設等の整備,教育・スポーツ施設等の整備
産業の振興:農業の振興,林業の振興,水産業の振興,商工観光業の振興
・「地元雇用対策」
「地元優先の雇用対策」「創意と工夫による地元雇用の創出」
     ※ほとんどが抽象的な記述にとどまり,希望的な項目の列挙に終始
 今1つの小冊子は『原子力発電のしくみと安全性』というタイトルで,石川県や珠洲市が独自に作成したものとはいえません。全部で6ページですが,裏表紙に「能登半島の最北端・禄剛崎」の写真があり,それだけが珠洲に関する部分です。
 「廃棄物処理方法」の説明では,「気体」は排気筒から放出,「液体」は海へ流す,「固体」は濃縮液とともにドラムカンにつめて敷地内に安全に貯蔵することが図解されています。それが「処理」だとしています。
 これら2冊の小冊子と同時に中部電力は『補償の基本的な考え方』と題した印刷物を配布しました。このなかで「誠心誠意努力」し「金銭でもって補償」すること,具体的な補償内容については「移転者・地権者の集り(組織)を作っていただいて,その場で誠意をもって,話し合いのなかから決めさせていただきたい」と記しています。
 9月に入って,市・電力は寺家地区塩津・上野の58戸を対象に班単位での説明会を実施しました。どの会場でも当該住民の数と説明する市・電力側の数が殆ど同じ位という状況で開かれ,概して一方的な説明に終始したようです。
 10月5日付『北國新聞』社説は<珠洲原発,本心の論議を>との見出しで「地域の現状は待ったなし」とのサブタイトルを掲げて次のように提起しています。「漁業,農業とも厳しさを増す中で,さし当たって地域の活力を回復する手だてとしては原発立地が唯一,最大のものではなかろうか。市当局も含めて地元側には早く本題に踏み込む積極さがほしい」「単発的に電力会社側の説明会が行われる今の遅々とした交渉スタイルは,地元住民にも長い苦痛を強いる」とも論評しています。
 1986年No.6の座談会「地域振興と電源立地」で林珠洲市長が「原発問題は自分の政治生命どころか,体を張ってまでやらなければならない」と述べている日本プレスセンター発行の『ENERGY』誌は,1987年No.4でルポルタージュ『石川県珠洲市の場合』との吉田威夫氏の記事を8ページにわたって掲載しています。“半島の尖端に「反対派」がいなくなる日”というショッキングなタイトルで,珠洲原発をめぐる状況を一部固有名詞入りで紹介していますが,「ただ,反対派の中に『放射能』という言葉は聞かれない。確かに『放射能』うんぬんで反対するのは,もはや時代遅れなのかも知れない」と書き,「原発ができれば,道路は飛躍的によくなる。それだけで美しい能登の観光が,はなやかな脚光を浴びることになるだろうことは,誰にでも容易に想像できるのである」と結んでいます。
(2)高屋地区の状況
 寺家地区では中部電力によって具体的な構想が示され,補償基準も提示されていますが,高屋地区を担当する関西電力は今だに具体的な構想を示していません。
 1987年9月,珠洲市議会エネルギー対策特別委員会は「高屋地区の原発構想について,早期に電力側から規模などを含む建設の申し入れが行われるよう,県などに働きかけていく」ことを決めました。これを受けるかのように県議会で「高屋地区についても地元住民の理解が得られるよう努力している」との知事答弁がありました。しかしその後も関西電力からの具体的な申し入れは行われていません。

6 反連協の具体的な活動
 反連協は1987年7月3日の第10回総会以後の1年間,次のような観点で運動に取り組んできました。
 ・より多くの人々に対して「反原発」を訴えていくこと。
 ・立地予定地区の人々との対話を拡大していくこと。
 ・能登原発反対等に取り組んでいる人々との連帯を深めていくこと。
 以下,具体的な活動については以下の通りです。
(1)宣伝活動
 寺家・高屋地区に対して「情宣ビラ」を毎月一回,配布してきました。それには地区労加盟のいくつかの単組の全面的な協力がありました。それ以外の地区にも出来るだけ「情宣ビラ」を拡大するため,帰省者の多いお盆前には「珠洲原発は寺家・高屋だけの問題ではない」とのタイトルで2000枚のビラを宝立・上戸・飯田・野々江・若山・蛸島地区にも配布しました。
 10月には「10・26反原子力の日」の行動として珠洲市内全域を街宣車をしたてて反原発を訴えました。また,地区労の協力で市内に5000枚の「情宣ビラ」を配布しました。このビラでは寺家・高屋地区の人々に対して行ったアンケート集計結果(後述)も報告することができました。
 1988年2月には,「広瀬隆講演会」のチケットの販売活動が多くの市民や教組青年部の協力で取り組まれました。
 3月,「3・28スリーマイル島事故から9周年」というタイトルで5000枚の「情宣ビラ」を作成し,「春闘ビラ」とあわせて市内全域に配布しました。
 4月,「4・26チェルノブイリ原発事故2周年」行動として29日に街宣車を使って市内全域に街宣行動を行いました。また,小冊子『まだ,まにあうのなら』を寺家の移転対象家庭にチラシをつけて配布しました。
(2)学習・交流活動
@ 県評・能登半島エネルギー基地化反対地区労協議会のよびかけに呼応して志賀町赤住での「団結小屋交流」に毎月2名が参加してきました。能登原発の敷地問題を現地で学び,また,土地を取得するためにダミー会社が登場している実態を見聞してきました。
A こうした交流を10月には珠洲で開催することができました。24日午後珠洲労働会館で地区労と共催で「反原発学習会」を開き,多名賀哲也羽咋地区労事務局次長から,能登原発を例にした原発反対運動の進め方を学習しました(この学習会には珠洲地区労組合員約50名が参加)。また同日の夕方には能登の各地区労から「反原発交流会」への参加者が結集してきました。寺家の原発立地「予定地」を案内したあと,高屋町の会場に寺家・高屋の人々10名を交えて28名が集まりました。予想を超える参加者があり,しかも寺家や高屋の人々の生の声を聞くことができ,珠洲原発が決して寺家・高屋の問題ではなく少なくとも能登全体の問題であるという連帯を深めることができました。
B 1988年2月21日の夜,「広瀬隆講演会」を珠洲中央公民館で開催しました。『危険な話』が昨年来絶えずベストセラーになっていることもあって時期的・時間的な悪条件にもかかわらず,会場いっぱいに140名を超える入場者がありました。
 多くの主婦の方をはじめ,市内の各層の人々が最後まで時間の経つのを忘れて熱心に聞き入っていました。「自分も何かをしなければ!」との教訓を伴なって,人々に大きな感動を与えました。広瀬隆氏の著書『東京に原発を』と『危険な話』を各50冊の販売を行いましたがすぐに完売しました。
C 寺家・高屋の人々との交流は10月以降,特に拡大するには至っていませんが着実かつ慎重に継続しています(当時は公表を控えていたが,寺家の炉心地を含む予定地内に虫食い的な共有地の設定が県評の指導と弁護士の協力で進行していた)。
(3)その他の活動
寺家・高屋地区にアンケート実施
 1987年9月,定例の「情宣ビラ」と共に「アンケート用の葉書」を寺家・高屋地区の全戸に250枚配布しました。回答数は58枚でしたがその結果は概略次の通りです。回答していただいた方の半数以上もの方が,自分の思いをコメントとして記述してくれました。

1988年度の活動
   反連協の第11回総会は, 1988年5月21日(土)午後2時から労働会館で開催されました。「脱原発」を求める運動が全国各地で拡大する中で珠洲での運動をどう拡大・定着していくかが問われました。能登エネ協から前後和雄氏を来賓として迎え,“珠洲の地に合った運動”を討議しました。

1 活動方針
(1)情勢分析
 チェルノブィリ原発事故を大きな契機として,世界の趨勢は確実に「脱原発」に向っています。
 「核兵器の廃絶」と同時に「脱原発」こそが,21世紀まで人類が生きのびるための最大の課題として広く認識されています。今後ますます世界の趨勢は「脱原発」へと加速するでしょう。
 日本における状況は,いまや「脱原発」を求める声が大勢を占めています。原発は決して狭い立地地点だけの問題ではないという認識がひろまっています。チェルノブイリ事故直後から日本の原発推進当局は「日本では考えられない事故」と盛んに日本の原発の安全性PRに努めてきています。「炉型が違う」とか「自己制御性がある」とか……しかしながら,日本でもあいかわらず予想を越えた事故が続いています。そして現在,日本における世論は次の通りとなっています(4月16日放送NHKスペシャル 徹底討論『いま原子力を問う』より)。
【第1問】あなたは日本の原発で,ソ連チェルノブイリ事故のような大事故が起こるという不安を感じますか?
  ・強く感じる 46%│
  ・多少感じる 36%│
  ・あまり感じない 8%│
  ・全く感じない 2%│
 政府や電力がいかに熱心に「安全性」を宣伝しようとも,原発がいかに危険であるかは,着実に広く国民に認識されてきています。
 既成の政党や組織の陳腐な対応にはまかしておれないという危機感で多くの市民グループによる運動が広がっています。月刊誌『湧』の最新号「1988年5月号」の巻頭言「自らが変わる」の中で,現状を次のように分析しています。
「たしかに最近の原発への危惧と不信の動きは,子を持った婦人層を中心に,これまでの運動にない勢いで伝播している。次代の生命に対する責任を感じているこれらの人達は,知的な運動の横断的広がりというより,自らのからだの深いところからつのった思いを肌で伝え合っている」
 今年1月の総理府の世論調査では80%の人々が「原発に対する不安」を回答しています。もはや,新たに原発立地が可能な候補地は容易に確保できないというのが実態です('71年以降,新規立地は皆無。既存地に増設してきただけ)。
 4月24日,日比谷公園で「原発とめよう1万人行動」が行われ,全国から2万人を超える参加者があったと伝えられています。脱原発の動きは,もはや止めようもないほどの大きな流れになりつつあります。
 このような状況に,政府・業界は一体となってクサビを打ち込もうとしています。これまで原発は一基も持たない北陸電力が,行政・権力の後押しを得てしゃにむに能登原発建設をもくろむのもその一環ですし,「安全性のPR活動の強化」に取り組もうとするのもそのあらわれです(5月17日付『日経産業新聞』によれば「電力9社が一斉に原子力広報体制の強化に着手している。ソ連のチェルブィリ原発事故や四国電力伊方原子力発電所での出力調整試験をきっかけにした反原発運動が市民運動的な広がりをみせ始めたことに危機感を抱いたためだ」 と指摘し,電力9社の新たな「原発広報体制」を紹介している。「検討中」と答えた北陸電力を除き,いずれもが専属チームを組んで原発視察などを実施しているそうです)。
(2)珠洲原発をめぐる状況
 関西電力による具体的な構想・規模等についての要請が期待されていますが,依然としてあいまいなままです。寺家地区については中部電力が前年秋以来,出稼ぎ先まで訪問して“顔つなぎ”を行ってきました。
 珠洲市長が「ヤマ場」と言明してきた 1988年春を迎えましたが,寺家地区では交渉の窓口が一新し,近々移転移住先進地?の視察が計画されているようです。
 これまで珠洲市当局及び電力は,最も狭義な現地を「地元」と位置づけ,もっぱら寺家塩津・上野の人々とのみ話し合いをすすめています。しかしこと原発に関しては,ヨーロッパでは「国境がない」という事実が広く認識され,国境を超えた反原発運動が起こっています。原発先進国のアメリカで,ソ連で起きた大事故は,いずれもが「予想を超えた,考えられない事故」であったことを思えば,珠洲原発だけが「建設予定地」に限定できる問題ではありえないことは論を待ちません。
 5月18日,金沢で「第1回珠洲原子力発電所推進対策連絡会議」が開催されました。これには石川県側から中西知事,杉山副知事をはじめ総務部長,企画開発部長ら8名,珠洲市側からは林市長,小坂助役ら3名が出席しました。またこの会合には,オブザーバーとして電力3社から原発担当重役など7名も参加しました[北陸電力:川島副社長,長浜立地部長/中部電力:太田常務,中西取締役,足立支配人/関西電力:南常務,岡本立地部長]。この会合は,県・市の行政側と「珠洲電源開発協議会」を組織している電力3社が,初めて顔をそろえたものであり,翌日の新聞各紙の報道を総合すれば,行政側が電力側に対して「早急に推進せよ!」と迫ったというのが主内容であったようです。知事は「全国ではいろんな動きがあるが,大事なことは地元や電力会社が呼吸を合わせて立地に取り組むこと」と述べ,「抽象的な論議,説明の繰り返しでは進展しない。移転補償の額や原電立地に伴う雇用の場の確保など,住民に具体的な例をあげて理解,協力を求めるべき時期だ」と要請したようです。
 また「現状は立地へ向けて着実に前進しているとは言い難い」という県側からのクレームがつけられたようです。林珠洲市長は「計画が公表されてから13年の歳月が過ぎた。立地のために県の協力をお願いしたい」と積極的な支援を要請したそうです。
 これに対して中部電力は「地元の『移転関係者世話人会』が発展的に解消して「寺家地区原子力発電所立地に伴う住宅・宅地移転関係者の会」に代わるなどの現状報告に続いて「(原発建設に対する)理解を深めてもらうために関連資料を地元に積極的に提供したい」と提案しました。
 一方,昨年来態度の明確でない関西電力は,「年内に立地に関して何らかの意思表示をしたい」と,慎重な発言にとどまったようです。
 一般的には,どこでも電力側が何とか立地を推進するために行政当局に協力をお願いするというスタイルですが,こと珠洲原発に関しては電力に対して行政が「早く立地しろ!」と要請するという,時代錯誤著しい状況が続いています。
 珠洲市議会では,昨年の初当選以来ことある度に国定正重市議が反原発の観点から,行政をただしてきました。「珠洲の活性化には原発誘致しかない」と盲進する市長・市政に対する遠慮や気おくれから,原発に不安を抱きながらも口を閉ざしてきた多くの良識ある人々が,「もうこれ以上は黙ってはいられない!」と立ち上がりつつあります。
 珠洲でも子どもの健康・生命に責任を感じて母親たちの間で食糧汚染を考える動きがあります。また,21世紀を展望する珠洲青年会議所は,今年4月の例会で『原発のない珠洲市を!』とのタイトルでルポライター落合誓子さんの講演を聞き,その記録を「対内紙」として5月号に紹介しているそうです。
 しかしながら行政当局や電力による反撃も予想されます。2月21日に珠洲中央公民館で開催した「広瀬隆講演会」に関して,中部電力は何と当地珠洲にではなく三重県津市(芦浜原発候補地)に,広瀬隆氏を中傷するチラシを配布したそうです。珠洲での講演内容を捏造したものであることは,実際に講演を聞いた人には明確なところです(『週刊朝日』より)。彼らの珠洲での動きにも充分注意しなければなりません。
 内浦町をはじめ鳳至郡・輪島市などでも珠洲原発に対して大きな不安を感じる人々が増えています。それらの人々もまた,原発の「現地」にとりこまれることを拒否するのは,まさに当然の権利です。そしてまた珠洲原発を阻止する取り組みは,全国各地での「反原発」運動と連帯し,世界各地でまさに地球的規模で拡大している「反核・反原子力」の運動につながっていきます。21世紀を展望するためにも,解決しなければならない最大の課題がここにあります。
(3)具体的な活動
 1988年度の「具体的な活動」として次の点を新たに追加しました。
・内浦町をはじめ近隣の輪島・鳳至地区に対しても,各地区労に協力を呼びかけながら「珠洲原発反対」の情宣活動を検討します。
・国定正重市議との連絡を密に保ちながら,市議会の傍聴行動も実施します。
・珠洲市内各地に結成されていくグループ等との連携をめざし,対話を行ない情報交換等に努めます。

2 88年度の経過
(1)石川県内の動き
 石川県では,北陸電力と県当局が一体となって「能登原発」建設に向けて盲進してきた1年でした。チェルノブイリ事故後世界初の新規立地であり,北陸電力初の原発であり,県が企業の肩代わりして海洋調査を実施したこと,度重なる敷地の縮小などまさになりふりかまわぬ暴挙が続いてきました。立地地点の地質にすら疑惑が指摘され,問題は何一つ解決しないまま,工事が開始されました。
 1988年12月1日の本格工事強行と同時に「能登原発」を「志賀原発」に名称変更するなど,こそくな手段さえ駆使しています。
 こうした動きに対し「能登原発をやめさせよう住民訴訟団」が結成され,12月1日に第一次訴訟が提訴されました(建設差止請求。この訴訟には石川県で2736名,富山県で536名,その他754名の合計4205名[3月末現在])が参加しています。その訴状は,能登原発をめぐる経過をはじめ石川県の不当な介入の実態,能登原発独自の問題性,さらに原発一般の問題点などを網羅したテキストとしても貴重なものとなっています。能登原発に反対する運動は,訴訟団の募集のほか6月10日には北電本社に対して署名提出・中止要求を行ったほか,翌11日には金沢で反原発パレードや「原発いらん!百万人まつり」が開催されました。
 また8月6日には,原子炉炉心設置許可が目前ということで,「ヒロシマ・チェルノブイリ・能登炉心設置許可反対」の平和行進と県民集会が志賀町で開催されました。
 9月12日,羽咋市議会は能登原発に隣接する自治体としては画期的といえる「非核平和都市宣言」を決議しました。これには「すべての核被害の廃絶をめざし」という表現があり,原発を含めた「非核」であることに意義があります。志賀原発の安全協定に対する羽咋市の基本姿勢として表面化していくことになります。
 11月22〜23日には「能登原発とめよう11月大集合」が取り組まれ,隣接の自治体や農漁協に対する交渉やデモ,花の苗や球根植えなどが行われました。この行動には地元のみならず富山や北海道など全国各地から700名の参加がありました。
 11月30日には原発の本体着工を控え,金沢で2000名が集って「本体着工を認めない県民集会」が開催されました。その後は着実に原告団の募集活動と情宣・学習会や原告団の地区集会などが続けられています。
 1989年3月17日には第1回の公判が金沢地裁で開催され,「原発なしで生きる権利」が原告団から訴えられました。7月14日の第2回公判を前に,原告団の二次募集が取り組まれています。
 その他6月には小松で,3月には羽咋で「北信越原水禁学校」が開催され,8月には小松基地を「人間の輪」で包囲する大行動が行われました。また,3月18日に輪島市職員組合の主催で「地域生活と原子力発電」という講演会が輪島市文化会館で開催されました。講師は福井県小浜市の中島哲演氏で,「原発銀座・若狭からのメッセージ」と題して,放射能汚染・札束汚染・人心汚染の三つが進んでいるという現地の状況が報告されました。県内においても,原発は決して志賀や珠洲だけの問題ではないという認識が着実に広まっているといえます。
(2)珠洲の動き
 原発をめぐる状況は,この1年間特に著しい動きがありました。
 1988年5月18日,金沢で石川県と珠洲市で構成する「珠洲原子力発電所推進対策連絡会議」(会長・中西知事)の初会合が開催されました。会合にはオブザーバーとして北陸,中部,関西の3電力の担当重役も出席し,寺家を担当する中電は「移転に伴う具体的な資料を近く出したい」と表明しました。一方,関電は「年内には何らかの意思表示をしたい」と述べました。これに対して原発誘致をめざす知事は「移転補償や雇用拡大など,身近で具体的なものを示すべきだ」と注文をつけたのをはじめ,杉山副知事からは「順調な前進なんかしていない。もっと目に見える話をして欲しい」とのクレームがついたということです。まさに「行政主導」で,住民を上手に早くだませと言っているようなものです('88.5.19付各紙報道)。以後,度々杉山副知事の指導・助言?を受けながら珠洲市当局は,ひたすら原発立地に向けて地元懐柔を昼夜を問わず推進してきました。
@ 寺家地区について
 一昨年来,移転対象とされている寺家塩津上野地区の42戸(4班で構成)に対して,班単位での「説明会」などが行政と中電によって数度にわたって実施されてきました。そして「移転関係者世話人会」('87.9.28発足準備会,世話人10名,地元市議1名,市当局6名,県当局2名,電力3名)が昨年3月まで月平均2〜3回開催され,協議や調査,視察などが行われてきました。この「世話人会」は1988年4月より「寺家地区原子力発電所立地に伴う住宅,宅地移転関係者の会」(委員10名)に引き継がれました。しかし,世話人会の最終報告にも次のような記述があり,問題点が大きく残っています−「決して行政や電力よりの組織であってはならず,地元の考え方を反映する組織であるべきである」
 その後この組織は,特に組織としての活動は殆どなく,昨年の9月頃からは移転対象家屋に対しての「家屋調査」が取り組まれてきました。調査に同意すれば迷惑料?として10万円を支払うとのことで,しかも,あくまでも参考資料を得るための調査ということで,中電・行政が懸命に説得にあたってきました。「単なる調査」だけとのことですが,42戸のうち12月議会での報告では25戸が終了,その後5ヵ月を経た現在も27戸終了しただけです。調査を受け入れた人の中には「原発反対だし,移転する気はない」という意志の人も多く含まれており,この点で既に当局側の計画は暗礁に乗り上げています。
 このことに関して,9月議会で市長は「家屋移転に伴う判断材料となる家屋調査の実施について,同意を得るため鋭意努力を重ねている」と述べています(国定市議発行の『議会報告No.6』より)。また,今年1月発行の『広報すず・号外』で市長は「寺家地区についても,担当している北電,中電が現在,補償の具体的判断材料とするための家屋調査を実施しており, … 一日も早く調査が完了するよう期待しているところであります」とも述べています。
 形式的にしろ「移転関係者の会」が発足した後,当局は立地予定地の地権者組織づくりにのり出しました。聞くところによれば,夏までには「準備委員会」を発足させたかったようですが,各集落からの代表委員の選出が思うように進まず,かなり強引な形で17名の委員(塩津上野10名,下出5名,川本・大浜各1名)を決定し10月31日に「寺家地区原子力発電所立地に係る地権者の会準備委員会」が発足したという発表がありました。発足に至る経過や会の運営方法などのすべてについて市当局がお膳立てしたものといえます。その第2回準備委員会('88.11.14)では,会長の挨拶の後地域振興課課長,県から田村参事,中電足立支配人がそれぞれ挨拶するなど,当初から一体誰のための組織なのか疑惑の多いものでした。「地権者の会」を1989年4月に発足させようとのスケジュールで,その規約の検討に入ったのですが原案では地権者全員が「会員」とされていることに対して,土地を売却する意思のない地権者にとっては甚だ迷惑ということで,「土地の売却に同意する地権者」で構成するように一部改正してほしいとの要望が準備委員会会長に対して提出されました('88.11.25)。
 こうした地元における動きなどを踏まえ12月10日付でK会長は辞任を表明しました。しかし,市当局はそれを認めず,12月23日に第3回の準備委員会を強行開催しました。地元の人たちは,この会議で前述の規約原案の改正(土地の売却に同意する地権者による会とする)を検討議題として準備していたのですが,それを阻止しようと市当局から6名,県当局2名,電力6名など14〜15名(以上の人数は後日市当局が説明したもの。地元では30名程だったとの声がある)が入りこみ,会議は紛糾しました。こうした状況に際してK会長以下7名が「辞任届」を出しましたが,市当局が持ち帰ったそうです。誰のために,誰が運営する会議であったかが如実に示された事件であったといえましょう。地域住民の声を「聞く」というのと「無視する」のとはまさに180度の違いです。たとえ市当局が原発立地こそがその地域住民の為になるのだと信じていたとしても,その行為は権力による横暴以外の何物でもありません。会長などの辞任という事態に直面して杉山副知事の介入があったようです。特に強固な原発反対の住民に直接面談しょうとしたり,K氏に代わる会長候補者の出稼ぎ先まで訪れて直接就任を要請するなど,一段と強引なテコ入れを行ったという話さえあります。しかしながら,現在まで破綻した「準備委員会」は開催できませんし,当初の4月発足予定だった「移転関係者の会」も実現してはいません。
 また,中部電力は寺家下出地区で「通年作物研究施設」としてガラス張り温室とビニールハウスを建設すると発表('88.11.28),12月から着工し1989年3月に完成予定ということでした。珠洲市当局と一体となって計画されたものですが,当の地元での合意がきちんとなされないままの見切り発車的な計画で,そこまでの通路や水源などについもて未解決な点が明らかになり工事は中断したままとなっています。地元の基本的な考えとしては,地域の問題(温室を作るなど)は自治体や農協で解決すべきであって,何も中部電力に依存するようなことではないという理念です。電力はことあるたびに「地域の皆さんとの共存共栄をはかりたい」と言いますが,それに対して明確に拒否するとの意思のあらわれです。
 以上のような状況の中で今年に入って寺家で「故郷を愛し自然を守る会」の結成が準備されてきました。まさに住民の自発的な,やむにやまれぬ意思の結集としての組織が,当局や電力の圧力に抗して結成されたわけです。その綱領には原子力発電所の建設には絶対反対であることが明確にうたわれています。
 また,1989年3月12日には寺家下出地区常会で「原発反対決議」がなされました(これらの動きは,反連協としても一定のかかわりを持ち,支援しました)。
 4月の市長選では,多くの住民が毅然とした態度で「反原発」で闘った北野進氏を支援していました。それが広く市民に訴える力となったといえるでしょう。
 とにかく中部電力の思惑('91年度までに地元の基本合意を取りつけ'92年には環境調査に着手する方針('88.8.6付『北國新聞』)も,林市長の意向(「今年は寺家地区で移転者・地権者の皆さんの合意を何としても取り付けたい」('88.1.28付『北國新聞』)も,住民意思とはほど遠いものとなっています。行政が電力と一体化し,住民と対立するというような「住民自治」があるのでしょうか。
 そのことがいよいよ明確になった一年だったといえます。
A 高屋地区について
 1988年5月の金沢での会合で関西電力は「まちづくり推進会の動きを見極めて年内に立地に関して何らかの意思表示をしたい」と言明しました。まちづくり推進会もまた事務手続から予算まですべて市当局によって運営されていますが,昭和60年9月に珠洲市が提示した「電源立地を想定したまちづくり構想」がその出発で,市当局の指導で昭和61年1月に「高屋町まちづくり推進会」として発足したものです。この会は原発先進地視察,講演会,勉強会などの事業のほか,4つの部会(農林,水産,商工観光,生活環境)活動を行ってきました。昭和62年12月の推進会役員会で関西電力は「まちづくりと発電所との共存共栄で推進したい」旨表明しました。その後この推進会では,原発立地地点を当初想定されていた西側の小浦出地区から東側の新保出地区に変更した「まちづくり」を打ち出しました。これに対して関西電力は同年7月の役員会で,町の東側での事前調査が必要であることを説明し,9月には高屋町の4地区で事前調査についての説明会を実施しました。当初予定の小浦出地区については,昭和51年に資源エネルギー庁が3ヵ所でボーリング調査を実施していますが新たな場所に変更に至った経緯には,子どもたちの通学上の問題(高屋の子供達が原発前を通らなければ学校に行けなくなる)との説明以外に,小浦出では土地の入手が困難との認識があったと見られています。
 12月14日,関西電力(と北陸電力)は石川県知事と珠洲市長に対して高屋町の原子力発電所立地について「まちづくり構想と共存共栄できる発電所構想の可能性を確認するため」(申し入れ書)事前調査を申し入れました。事前調査の内容は以下の通りです。
@ ボーリング:地下の土砂や岩石の種類と分布調査と地下水位の観測
A 試掘坑:山地の中腹部の2箇所に小さなトンネルを掘って岩盤の状況調査,強度試験等で岩盤の性質調査
B 弾性波探査:100m間隔程度の網目状の線上で地盤に微小な振動を与え,その伝播速度測定から地盤の硬さ等を調査
C その他:伸縮計等
また事前調査の期間は「ボーリング等を開始後,約2年かかります」となっています。この申し入れは県庁と珠洲市役所で同時に行われたものですが,具体的な規模や構想については珠洲では全く触れられず,県庁でのみ「130万kW級2基」が発表されました。これまた県主導を匂わせる出来事でした。ところで県知事および市長に提出された「申し入れ」文書は,ワープロで作成されたものですが,日付の「昭和63年12月14日」のうち「12」と「14」だけが手書きとなっています。よく有ることではありますが,時期的にみるなら,ちょうど珠洲市の12月議会が開催されていたことや,寺家地区では前述のように原発推進が暗礁に乗り上げていた状況に対して,カンフル剤的効果をも狙ったのではとの憶測も生じます。
 いずれにしても5月以来,関西電力としては「年内には何らかの意思表示」を約束していたわけで,予想された申し入れであったともいえます。
 この申し入れによって,それまで寺家に比べて遅れているといわれた原発推進の状況を,一気に逆転するかのような危機が生じています。
 しかしながら高屋町の総意として原発立地を認めたという状況ではありません。まちづくり推進会の委員の選出をめぐっても,寺家地区における準備委員会の場合同様,問題があるようです。また,永年にわたって「高屋・郷土を愛する会」(竹中庄一代表)は毅然とした態度で原発絶対反対を貫いています。
B その他の状況
 2〜3年前から市民の間で劇団「はぐるま座」の公演や,「サムルノリ」珠洲公演,「文化講演会」などが取り組まれてきました。そして今年に入って,「止めよう原発!珠洲市民の会」が結成され,非常に精力的に活動を開始しています。とりわけ1989年4月の珠洲市長選に対しては「無投票では原発推進を黙認することになる」という危機感に燃えて,北野進氏を擁立し,広く全国に呼びかけながら意欲的に選挙戦を闘いました。「原発反対」を中心にすえた訴えは,寺家・高屋のみならず広く珠洲市民の間に共感を呼び,大きな成功をおさめました(6295票,有効投票の38.2%を獲得)。
 また,この運動を通して,珠洲市に真の民主主義を定着させるための前進がはかられたことを評価しなければなりません。
 さらにこの市長選には,直前になって「珠洲市を考える会」の代表米村照夫氏がやはり「原発反対」を掲げて立候補されました。そして殆ど独自の選挙戦ながらも2166票(有効投票の13.1%)を獲得されました。
 この市長選では結局「原発反対」を訴えた二人の得票合計が8461票となり,有効投票に占める割合は51.3%となりました。原発賛成だが北野氏や米村氏に投票した人は殆ど皆無とみられるのに対して,林氏に投じた人の中には,逆に原発には反対だという人もかなりいたとみられています。
 林氏や知事などの選挙後の談話によれば,「リクルート」や「消費税」を理由としたいようですが,それらは今回の珠洲における選挙戦の争点ではなかったことは明らかです。何が何でも「市民の過半数が原発反対」だということを認めないのなら,今度は「原発」一点について住民投票を実施すべきでしょう。
 とにかく今回の選挙結果は,「原発拒否」が市民の声として表明されたことを示しています。

3 反連協の具体的な活動
(1)学習
 1988年2月に開催した「広瀬隆講演会」が非常に好評であったことから再度,機会をみて開催することをめざしました。幸い9月27日(火)に飯田町の乗光寺で開催することができ,会場いっぱいの300名を超える市民の参加があり,おおいに学習を深めることができました。その際にアンケートをお願いしたところ,貴重なご意見や感想が寄せられました。後日,わざわざ郵送された方も数名あり反響の大きさに改めて問題の重大性を感じさせられました。
 近隣の内浦・能都地区労からも多数の参加がありました。
 この講演会会場で,広瀬隆編著『北陸が日本地図から消える日』を原価販売したところ準備した130冊が完売しました。
 講演会はビデオ撮影ができ,後日,相当活用されました。
 原発の危険性をわかりやすくまとめたビデオ『牛乳が飲みたい』(河出書房新社作成)を15本購入し,寺家・高屋などに提供したほか,学習資料として活用をはかりました。('88年11月〜)
 1989年3月18日(土),輪島市文化会館で開催された輪島市職組主催の学習会「地域生活と原子力発電」(講師:中島哲演氏)に参加しました。珠洲原発や志賀原発が決して狭い地域の問題ではないという認識で,輪島市民の健康と安全を考える市職組が,こうした学習会を開催したことに敬意を表しつつ,原発銀座・若狭の現状を学習しました。
(2)宣伝
@ 原則として毎月1回の情宣ビラの配布を,寺家・高屋地区に対して実施してきました。同時に,できるだけ地区労組合員にも配布する方向で取り組んできました。また,限られた予算の範囲内で,市内全戸に配布することも検討してきました。
A 1988年8月には原水禁平和行進の際に飯田〜鵜飼間でビラの投げ入れを実施しました。9月には地区労の協力を得て市内5000枚のビラ配布(広瀬隆講演会の案内などを記載)を実施しました。
B 10月には珠洲市・内浦町の新聞に1万700枚のチラシを折り込みました。
C 12月は関電による事前調査の申し入れや,反連協の当局・電力に対しての(原発反対の)申し入れなどを内容とするチラシを1万5000枚作成し,珠洲市・内浦町・能都町の新聞に折り込みました。このうち能都町については,折り込みの費用を能都地区労で負担してくれました。
D 1989年2月には,珠洲市内のみ8050枚の新聞折り込みを実施しました。
E 街宣活動としては,9月25日(日)に「広瀬隆講演会」の宣伝を兼ねて珠洲市内の街宣を行いました。
F 10月23日(日)には「10・26反原子力の日」の行動として同じく珠洲市内を街宣し,反原発を訴えました。
G その他,特に寺家・高屋の人々との対話については,8月や1月に直接面談して情宣ビラを手渡すよう努力しました。その結果,非常に多くの人々が昼夜を問わず当局や電力から悩まされているという実態を知らされましたし,殆どの人が原発には反対の意思を持っていることを聞かされ,何とかして欲しいとの要求を受けました。
H 「原発反対」立看板の修理[鉢ヶ崎](8月下旬)
(3)市長,議会議長,電源開発協議会に対する申し入れ('88.12.26)
 1988年12月14日に関西電力等による事前調査の申し入れがあり,これによって珠洲原発立地が大きく実現性を帯びたかの報道が多く,市民感情を超えて推進へ向うことに危険を感じ,反連協として申し入れを行いました。特に市長との交渉の中では,市当局による寺家地区への不当な介入問題も取り上げ,住民の意思としては決して原発誘致を望んではいないことを訴えました。
 珠洲電源開発協議会には「なぜ珠洲にまで来て原発を造ろうとするのか,紀伊半島での立地はどうなっているのか?」等を質しました。その回答によると紀伊半島(芦浜:中部電力,日高:関西電力。共に原発立地を地元が拒否)の人々の「理解が得られない」ということでした。それに比べて珠洲の住民は「理解が良い」(だましやすい?)と思っているかのようでした。
 推進側は「原発は準国産資源」だと言いますが,その前提の「核燃料サイクル」に関しては残念ながら殆ど「無知」とといってよい程の理解でした。使用済核燃料の処理についても,納得できる説明はありません。ひたすら「珠洲の皆さんと共存共栄をはかりたい」と言いますが,珠洲には,関西や中部から出向いてもらってまで「共存共栄」をはかる必然性は全くないこと,信頼される電力になるため,真にクリーンな,再生可能なエネルギーの開発を目指すべきを訴えました。
(4)その他の行動
@ 「核燃いらない!青森の農漁業を守る会」の署名活動(約500名分を集約)
A 「能登原発止めよう!住民訴訟団」原告募集(反連協:35名分を集約)
B 能登原発反対運動への参加
 「アイリーン・スミス講演会」[羽咋]('88.6.9)
 「反基地全国交流集会」[羽咋]('88.6.18〜19)
 「原水禁・能登原発原子炉設置許可反対石川県大会」[志賀町]('88.8.6)
 「能登原発止めよう!11/23現地総行動」[志賀町]('88.11.23)
C 反戦・反核・平和運動へ参加
 「原水禁平和行進」[労館前〜内浦役場前]('88.8.3)
 小松基地を包囲する「人間の輪」[小松]('88.8.7)
 「北信越原水禁平和学校」[羽咋]('89.3.4)
D 「能登エネルギー基地化反対地区労協議会」[珠洲労働会館]('89.4.1)
E 「止めよう原発!珠洲市民の会」の主催する催しと市長選挙
 ・「トーク&トーク地球を語ろう」(おすぎ&広瀬隆)[中央公民館]('89.4.3)
 ・「広瀬隆講演会」[乗光寺]('89.4.3)
・珠洲市長選告示('89.4.9) 珠洲市長選投票('89.4.16)
F 12月議会の傍聴(関西電力の事前調査申し入れ,国定市議の質問)('88.12.14)

  反連協のあゆみ