反連協の第11回総会は, 1988年5月21日(土)午後2時から労働会館で開催されました。「脱原発」を求める運動が全国各地で拡大する中で珠洲での運動をどう拡大・定着していくかが問われました。能登エネ協から前後和雄氏を来賓として迎え,“珠洲の地に合った運動”を討議しました。
1 活動方針
(1)情勢分析
チェルノブィリ原発事故を大きな契機として,世界の趨勢は確実に「脱原発」に向っています。
「核兵器の廃絶」と同時に「脱原発」こそが,21世紀まで人類が生きのびるための最大の課題として広く認識されています。今後ますます世界の趨勢は「脱原発」へと加速するでしょう。
日本における状況は,いまや「脱原発」を求める声が大勢を占めています。原発は決して狭い立地地点だけの問題ではないという認識がひろまっています。チェルノブイリ事故直後から日本の原発推進当局は「日本では考えられない事故」と盛んに日本の原発の安全性PRに努めてきています。「炉型が違う」とか「自己制御性がある」とか……しかしながら,日本でもあいかわらず予想を越えた事故が続いています。そして現在,日本における世論は次の通りとなっています(4月16日放送NHKスペシャル 徹底討論『いま原子力を問う』より)。
【第1問】あなたは日本の原発で,ソ連チェルノブイリ事故のような大事故が起こるという不安を感じますか?
・強く感じる 46%│
・多少感じる 36%│
・あまり感じない 8%│
・全く感じない 2%│
政府や電力がいかに熱心に「安全性」を宣伝しようとも,原発がいかに危険であるかは,着実に広く国民に認識されてきています。
既成の政党や組織の陳腐な対応にはまかしておれないという危機感で多くの市民グループによる運動が広がっています。月刊誌『湧』の最新号「1988年5月号」の巻頭言「自らが変わる」の中で,現状を次のように分析しています。
「たしかに最近の原発への危惧と不信の動きは,子を持った婦人層を中心に,これまでの運動にない勢いで伝播している。次代の生命に対する責任を感じているこれらの人達は,知的な運動の横断的広がりというより,自らのからだの深いところからつのった思いを肌で伝え合っている」
今年1月の総理府の世論調査では80%の人々が「原発に対する不安」を回答しています。もはや,新たに原発立地が可能な候補地は容易に確保できないというのが実態です('71年以降,新規立地は皆無。既存地に増設してきただけ)。
4月24日,日比谷公園で「原発とめよう1万人行動」が行われ,全国から2万人を超える参加者があったと伝えられています。脱原発の動きは,もはや止めようもないほどの大きな流れになりつつあります。
このような状況に,政府・業界は一体となってクサビを打ち込もうとしています。これまで原発は一基も持たない北陸電力が,行政・権力の後押しを得てしゃにむに能登原発建設をもくろむのもその一環ですし,「安全性のPR活動の強化」に取り組もうとするのもそのあらわれです(5月17日付『日経産業新聞』によれば「電力9社が一斉に原子力広報体制の強化に着手している。ソ連のチェルブィリ原発事故や四国電力伊方原子力発電所での出力調整試験をきっかけにした反原発運動が市民運動的な広がりをみせ始めたことに危機感を抱いたためだ」 と指摘し,電力9社の新たな「原発広報体制」を紹介している。「検討中」と答えた北陸電力を除き,いずれもが専属チームを組んで原発視察などを実施しているそうです)。
(2)珠洲原発をめぐる状況
関西電力による具体的な構想・規模等についての要請が期待されていますが,依然としてあいまいなままです。寺家地区については中部電力が前年秋以来,出稼ぎ先まで訪問して“顔つなぎ”を行ってきました。
珠洲市長が「ヤマ場」と言明してきた 1988年春を迎えましたが,寺家地区では交渉の窓口が一新し,近々移転移住先進地?の視察が計画されているようです。
これまで珠洲市当局及び電力は,最も狭義な現地を「地元」と位置づけ,もっぱら寺家塩津・上野の人々とのみ話し合いをすすめています。しかしこと原発に関しては,ヨーロッパでは「国境がない」という事実が広く認識され,国境を超えた反原発運動が起こっています。原発先進国のアメリカで,ソ連で起きた大事故は,いずれもが「予想を超えた,考えられない事故」であったことを思えば,珠洲原発だけが「建設予定地」に限定できる問題ではありえないことは論を待ちません。
5月18日,金沢で「第1回珠洲原子力発電所推進対策連絡会議」が開催されました。これには石川県側から中西知事,杉山副知事をはじめ総務部長,企画開発部長ら8名,珠洲市側からは林市長,小坂助役ら3名が出席しました。またこの会合には,オブザーバーとして電力3社から原発担当重役など7名も参加しました[北陸電力:川島副社長,長浜立地部長/中部電力:太田常務,中西取締役,足立支配人/関西電力:南常務,岡本立地部長]。この会合は,県・市の行政側と「珠洲電源開発協議会」を組織している電力3社が,初めて顔をそろえたものであり,翌日の新聞各紙の報道を総合すれば,行政側が電力側に対して「早急に推進せよ!」と迫ったというのが主内容であったようです。知事は「全国ではいろんな動きがあるが,大事なことは地元や電力会社が呼吸を合わせて立地に取り組むこと」と述べ,「抽象的な論議,説明の繰り返しでは進展しない。移転補償の額や原電立地に伴う雇用の場の確保など,住民に具体的な例をあげて理解,協力を求めるべき時期だ」と要請したようです。
また「現状は立地へ向けて着実に前進しているとは言い難い」という県側からのクレームがつけられたようです。林珠洲市長は「計画が公表されてから13年の歳月が過ぎた。立地のために県の協力をお願いしたい」と積極的な支援を要請したそうです。
これに対して中部電力は「地元の『移転関係者世話人会』が発展的に解消して「寺家地区原子力発電所立地に伴う住宅・宅地移転関係者の会」に代わるなどの現状報告に続いて「(原発建設に対する)理解を深めてもらうために関連資料を地元に積極的に提供したい」と提案しました。
一方,昨年来態度の明確でない関西電力は,「年内に立地に関して何らかの意思表示をしたい」と,慎重な発言にとどまったようです。
一般的には,どこでも電力側が何とか立地を推進するために行政当局に協力をお願いするというスタイルですが,こと珠洲原発に関しては電力に対して行政が「早く立地しろ!」と要請するという,時代錯誤著しい状況が続いています。
珠洲市議会では,昨年の初当選以来ことある度に国定正重市議が反原発の観点から,行政をただしてきました。「珠洲の活性化には原発誘致しかない」と盲進する市長・市政に対する遠慮や気おくれから,原発に不安を抱きながらも口を閉ざしてきた多くの良識ある人々が,「もうこれ以上は黙ってはいられない!」と立ち上がりつつあります。
珠洲でも子どもの健康・生命に責任を感じて母親たちの間で食糧汚染を考える動きがあります。また,21世紀を展望する珠洲青年会議所は,今年4月の例会で『原発のない珠洲市を!』とのタイトルでルポライター落合誓子さんの講演を聞き,その記録を「対内紙」として5月号に紹介しているそうです。
しかしながら行政当局や電力による反撃も予想されます。2月21日に珠洲中央公民館で開催した「広瀬隆講演会」に関して,中部電力は何と当地珠洲にではなく三重県津市(芦浜原発候補地)に,広瀬隆氏を中傷するチラシを配布したそうです。珠洲での講演内容を捏造したものであることは,実際に講演を聞いた人には明確なところです(『週刊朝日』より)。彼らの珠洲での動きにも充分注意しなければなりません。
内浦町をはじめ鳳至郡・輪島市などでも珠洲原発に対して大きな不安を感じる人々が増えています。それらの人々もまた,原発の「現地」にとりこまれることを拒否するのは,まさに当然の権利です。そしてまた珠洲原発を阻止する取り組みは,全国各地での「反原発」運動と連帯し,世界各地でまさに地球的規模で拡大している「反核・反原子力」の運動につながっていきます。21世紀を展望するためにも,解決しなければならない最大の課題がここにあります。
(3)具体的な活動
1988年度の「具体的な活動」として次の点を新たに追加しました。
・内浦町をはじめ近隣の輪島・鳳至地区に対しても,各地区労に協力を呼びかけながら「珠洲原発反対」の情宣活動を検討します。
・国定正重市議との連絡を密に保ちながら,市議会の傍聴行動も実施します。
・珠洲市内各地に結成されていくグループ等との連携をめざし,対話を行ない情報交換等に努めます。
2 88年度の経過
(1)石川県内の動き
石川県では,北陸電力と県当局が一体となって「能登原発」建設に向けて盲進してきた1年でした。チェルノブイリ事故後世界初の新規立地であり,北陸電力初の原発であり,県が企業の肩代わりして海洋調査を実施したこと,度重なる敷地の縮小などまさになりふりかまわぬ暴挙が続いてきました。立地地点の地質にすら疑惑が指摘され,問題は何一つ解決しないまま,工事が開始されました。
1988年12月1日の本格工事強行と同時に「能登原発」を「志賀原発」に名称変更するなど,こそくな手段さえ駆使しています。
こうした動きに対し「能登原発をやめさせよう住民訴訟団」が結成され,12月1日に第一次訴訟が提訴されました(建設差止請求。この訴訟には石川県で2736名,富山県で536名,その他754名の合計4205名[3月末現在])が参加しています。その訴状は,能登原発をめぐる経過をはじめ石川県の不当な介入の実態,能登原発独自の問題性,さらに原発一般の問題点などを網羅したテキストとしても貴重なものとなっています。能登原発に反対する運動は,訴訟団の募集のほか6月10日には北電本社に対して署名提出・中止要求を行ったほか,翌11日には金沢で反原発パレードや「原発いらん!百万人まつり」が開催されました。
また8月6日には,原子炉炉心設置許可が目前ということで,「ヒロシマ・チェルノブイリ・能登炉心設置許可反対」の平和行進と県民集会が志賀町で開催されました。
9月12日,羽咋市議会は能登原発に隣接する自治体としては画期的といえる「非核平和都市宣言」を決議しました。これには「すべての核被害の廃絶をめざし」という表現があり,原発を含めた「非核」であることに意義があります。志賀原発の安全協定に対する羽咋市の基本姿勢として表面化していくことになります。
11月22〜23日には「能登原発とめよう11月大集合」が取り組まれ,隣接の自治体や農漁協に対する交渉やデモ,花の苗や球根植えなどが行われました。この行動には地元のみならず富山や北海道など全国各地から700名の参加がありました。
11月30日には原発の本体着工を控え,金沢で2000名が集って「本体着工を認めない県民集会」が開催されました。その後は着実に原告団の募集活動と情宣・学習会や原告団の地区集会などが続けられています。
1989年3月17日には第1回の公判が金沢地裁で開催され,「原発なしで生きる権利」が原告団から訴えられました。7月14日の第2回公判を前に,原告団の二次募集が取り組まれています。
その他6月には小松で,3月には羽咋で「北信越原水禁学校」が開催され,8月には小松基地を「人間の輪」で包囲する大行動が行われました。また,3月18日に輪島市職員組合の主催で「地域生活と原子力発電」という講演会が輪島市文化会館で開催されました。講師は福井県小浜市の中島哲演氏で,「原発銀座・若狭からのメッセージ」と題して,放射能汚染・札束汚染・人心汚染の三つが進んでいるという現地の状況が報告されました。県内においても,原発は決して志賀や珠洲だけの問題ではないという認識が着実に広まっているといえます。
(2)珠洲の動き
原発をめぐる状況は,この1年間特に著しい動きがありました。
1988年5月18日,金沢で石川県と珠洲市で構成する「珠洲原子力発電所推進対策連絡会議」(会長・中西知事)の初会合が開催されました。会合にはオブザーバーとして北陸,中部,関西の3電力の担当重役も出席し,寺家を担当する中電は「移転に伴う具体的な資料を近く出したい」と表明しました。一方,関電は「年内には何らかの意思表示をしたい」と述べました。これに対して原発誘致をめざす知事は「移転補償や雇用拡大など,身近で具体的なものを示すべきだ」と注文をつけたのをはじめ,杉山副知事からは「順調な前進なんかしていない。もっと目に見える話をして欲しい」とのクレームがついたということです。まさに「行政主導」で,住民を上手に早くだませと言っているようなものです('88.5.19付各紙報道)。以後,度々杉山副知事の指導・助言?を受けながら珠洲市当局は,ひたすら原発立地に向けて地元懐柔を昼夜を問わず推進してきました。
@ 寺家地区について
一昨年来,移転対象とされている寺家塩津上野地区の42戸(4班で構成)に対して,班単位での「説明会」などが行政と中電によって数度にわたって実施されてきました。そして「移転関係者世話人会」('87.9.28発足準備会,世話人10名,地元市議1名,市当局6名,県当局2名,電力3名)が昨年3月まで月平均2〜3回開催され,協議や調査,視察などが行われてきました。この「世話人会」は1988年4月より「寺家地区原子力発電所立地に伴う住宅,宅地移転関係者の会」(委員10名)に引き継がれました。しかし,世話人会の最終報告にも次のような記述があり,問題点が大きく残っています−「決して行政や電力よりの組織であってはならず,地元の考え方を反映する組織であるべきである」
その後この組織は,特に組織としての活動は殆どなく,昨年の9月頃からは移転対象家屋に対しての「家屋調査」が取り組まれてきました。調査に同意すれば迷惑料?として10万円を支払うとのことで,しかも,あくまでも参考資料を得るための調査ということで,中電・行政が懸命に説得にあたってきました。「単なる調査」だけとのことですが,42戸のうち12月議会での報告では25戸が終了,その後5ヵ月を経た現在も27戸終了しただけです。調査を受け入れた人の中には「原発反対だし,移転する気はない」という意志の人も多く含まれており,この点で既に当局側の計画は暗礁に乗り上げています。
このことに関して,9月議会で市長は「家屋移転に伴う判断材料となる家屋調査の実施について,同意を得るため鋭意努力を重ねている」と述べています(国定市議発行の『議会報告No.6』より)。また,今年1月発行の『広報すず・号外』で市長は「寺家地区についても,担当している北電,中電が現在,補償の具体的判断材料とするための家屋調査を実施しており, … 一日も早く調査が完了するよう期待しているところであります」とも述べています。
形式的にしろ「移転関係者の会」が発足した後,当局は立地予定地の地権者組織づくりにのり出しました。聞くところによれば,夏までには「準備委員会」を発足させたかったようですが,各集落からの代表委員の選出が思うように進まず,かなり強引な形で17名の委員(塩津上野10名,下出5名,川本・大浜各1名)を決定し10月31日に「寺家地区原子力発電所立地に係る地権者の会準備委員会」が発足したという発表がありました。発足に至る経過や会の運営方法などのすべてについて市当局がお膳立てしたものといえます。その第2回準備委員会('88.11.14)では,会長の挨拶の後地域振興課課長,県から田村参事,中電足立支配人がそれぞれ挨拶するなど,当初から一体誰のための組織なのか疑惑の多いものでした。「地権者の会」を1989年4月に発足させようとのスケジュールで,その規約の検討に入ったのですが原案では地権者全員が「会員」とされていることに対して,土地を売却する意思のない地権者にとっては甚だ迷惑ということで,「土地の売却に同意する地権者」で構成するように一部改正してほしいとの要望が準備委員会会長に対して提出されました('88.11.25)。
こうした地元における動きなどを踏まえ12月10日付でK会長は辞任を表明しました。しかし,市当局はそれを認めず,12月23日に第3回の準備委員会を強行開催しました。地元の人たちは,この会議で前述の規約原案の改正(土地の売却に同意する地権者による会とする)を検討議題として準備していたのですが,それを阻止しようと市当局から6名,県当局2名,電力6名など14〜15名(以上の人数は後日市当局が説明したもの。地元では30名程だったとの声がある)が入りこみ,会議は紛糾しました。こうした状況に際してK会長以下7名が「辞任届」を出しましたが,市当局が持ち帰ったそうです。誰のために,誰が運営する会議であったかが如実に示された事件であったといえましょう。地域住民の声を「聞く」というのと「無視する」のとはまさに180度の違いです。たとえ市当局が原発立地こそがその地域住民の為になるのだと信じていたとしても,その行為は権力による横暴以外の何物でもありません。会長などの辞任という事態に直面して杉山副知事の介入があったようです。特に強固な原発反対の住民に直接面談しょうとしたり,K氏に代わる会長候補者の出稼ぎ先まで訪れて直接就任を要請するなど,一段と強引なテコ入れを行ったという話さえあります。しかしながら,現在まで破綻した「準備委員会」は開催できませんし,当初の4月発足予定だった「移転関係者の会」も実現してはいません。
また,中部電力は寺家下出地区で「通年作物研究施設」としてガラス張り温室とビニールハウスを建設すると発表('88.11.28),12月から着工し1989年3月に完成予定ということでした。珠洲市当局と一体となって計画されたものですが,当の地元での合意がきちんとなされないままの見切り発車的な計画で,そこまでの通路や水源などについもて未解決な点が明らかになり工事は中断したままとなっています。地元の基本的な考えとしては,地域の問題(温室を作るなど)は自治体や農協で解決すべきであって,何も中部電力に依存するようなことではないという理念です。電力はことあるたびに「地域の皆さんとの共存共栄をはかりたい」と言いますが,それに対して明確に拒否するとの意思のあらわれです。
以上のような状況の中で今年に入って寺家で「故郷を愛し自然を守る会」の結成が準備されてきました。まさに住民の自発的な,やむにやまれぬ意思の結集としての組織が,当局や電力の圧力に抗して結成されたわけです。その綱領には原子力発電所の建設には絶対反対であることが明確にうたわれています。
また,1989年3月12日には寺家下出地区常会で「原発反対決議」がなされました(これらの動きは,反連協としても一定のかかわりを持ち,支援しました)。
4月の市長選では,多くの住民が毅然とした態度で「反原発」で闘った北野進氏を支援していました。それが広く市民に訴える力となったといえるでしょう。
とにかく中部電力の思惑('91年度までに地元の基本合意を取りつけ'92年には環境調査に着手する方針('88.8.6付『北國新聞』)も,林市長の意向(「今年は寺家地区で移転者・地権者の皆さんの合意を何としても取り付けたい」('88.1.28付『北國新聞』)も,住民意思とはほど遠いものとなっています。行政が電力と一体化し,住民と対立するというような「住民自治」があるのでしょうか。
そのことがいよいよ明確になった一年だったといえます。
A 高屋地区について
1988年5月の金沢での会合で関西電力は「まちづくり推進会の動きを見極めて年内に立地に関して何らかの意思表示をしたい」と言明しました。まちづくり推進会もまた事務手続から予算まですべて市当局によって運営されていますが,昭和60年9月に珠洲市が提示した「電源立地を想定したまちづくり構想」がその出発で,市当局の指導で昭和61年1月に「高屋町まちづくり推進会」として発足したものです。この会は原発先進地視察,講演会,勉強会などの事業のほか,4つの部会(農林,水産,商工観光,生活環境)活動を行ってきました。昭和62年12月の推進会役員会で関西電力は「まちづくりと発電所との共存共栄で推進したい」旨表明しました。その後この推進会では,原発立地地点を当初想定されていた西側の小浦出地区から東側の新保出地区に変更した「まちづくり」を打ち出しました。これに対して関西電力は同年7月の役員会で,町の東側での事前調査が必要であることを説明し,9月には高屋町の4地区で事前調査についての説明会を実施しました。当初予定の小浦出地区については,昭和51年に資源エネルギー庁が3ヵ所でボーリング調査を実施していますが新たな場所に変更に至った経緯には,子どもたちの通学上の問題(高屋の子供達が原発前を通らなければ学校に行けなくなる)との説明以外に,小浦出では土地の入手が困難との認識があったと見られています。
12月14日,関西電力(と北陸電力)は石川県知事と珠洲市長に対して高屋町の原子力発電所立地について「まちづくり構想と共存共栄できる発電所構想の可能性を確認するため」(申し入れ書)事前調査を申し入れました。事前調査の内容は以下の通りです。
@ ボーリング:地下の土砂や岩石の種類と分布調査と地下水位の観測
A 試掘坑:山地の中腹部の2箇所に小さなトンネルを掘って岩盤の状況調査,強度試験等で岩盤の性質調査
B 弾性波探査:100m間隔程度の網目状の線上で地盤に微小な振動を与え,その伝播速度測定から地盤の硬さ等を調査
C その他:伸縮計等
また事前調査の期間は「ボーリング等を開始後,約2年かかります」となっています。この申し入れは県庁と珠洲市役所で同時に行われたものですが,具体的な規模や構想については珠洲では全く触れられず,県庁でのみ「130万kW級2基」が発表されました。これまた県主導を匂わせる出来事でした。ところで県知事および市長に提出された「申し入れ」文書は,ワープロで作成されたものですが,日付の「昭和63年12月14日」のうち「12」と「14」だけが手書きとなっています。よく有ることではありますが,時期的にみるなら,ちょうど珠洲市の12月議会が開催されていたことや,寺家地区では前述のように原発推進が暗礁に乗り上げていた状況に対して,カンフル剤的効果をも狙ったのではとの憶測も生じます。
いずれにしても5月以来,関西電力としては「年内には何らかの意思表示」を約束していたわけで,予想された申し入れであったともいえます。
この申し入れによって,それまで寺家に比べて遅れているといわれた原発推進の状況を,一気に逆転するかのような危機が生じています。
しかしながら高屋町の総意として原発立地を認めたという状況ではありません。まちづくり推進会の委員の選出をめぐっても,寺家地区における準備委員会の場合同様,問題があるようです。また,永年にわたって「高屋・郷土を愛する会」(竹中庄一代表)は毅然とした態度で原発絶対反対を貫いています。
B その他の状況
2〜3年前から市民の間で劇団「はぐるま座」の公演や,「サムルノリ」珠洲公演,「文化講演会」などが取り組まれてきました。そして今年に入って,「止めよう原発!珠洲市民の会」が結成され,非常に精力的に活動を開始しています。とりわけ1989年4月の珠洲市長選に対しては「無投票では原発推進を黙認することになる」という危機感に燃えて,北野進氏を擁立し,広く全国に呼びかけながら意欲的に選挙戦を闘いました。「原発反対」を中心にすえた訴えは,寺家・高屋のみならず広く珠洲市民の間に共感を呼び,大きな成功をおさめました(6295票,有効投票の38.2%を獲得)。
また,この運動を通して,珠洲市に真の民主主義を定着させるための前進がはかられたことを評価しなければなりません。
さらにこの市長選には,直前になって「珠洲市を考える会」の代表米村照夫氏がやはり「原発反対」を掲げて立候補されました。そして殆ど独自の選挙戦ながらも2166票(有効投票の13.1%)を獲得されました。
この市長選では結局「原発反対」を訴えた二人の得票合計が8461票となり,有効投票に占める割合は51.3%となりました。原発賛成だが北野氏や米村氏に投票した人は殆ど皆無とみられるのに対して,林氏に投じた人の中には,逆に原発には反対だという人もかなりいたとみられています。
林氏や知事などの選挙後の談話によれば,「リクルート」や「消費税」を理由としたいようですが,それらは今回の珠洲における選挙戦の争点ではなかったことは明らかです。何が何でも「市民の過半数が原発反対」だということを認めないのなら,今度は「原発」一点について住民投票を実施すべきでしょう。
とにかく今回の選挙結果は,「原発拒否」が市民の声として表明されたことを示しています。
3 反連協の具体的な活動
(1)学習
1988年2月に開催した「広瀬隆講演会」が非常に好評であったことから再度,機会をみて開催することをめざしました。幸い9月27日(火)に飯田町の乗光寺で開催することができ,会場いっぱいの300名を超える市民の参加があり,おおいに学習を深めることができました。その際にアンケートをお願いしたところ,貴重なご意見や感想が寄せられました。後日,わざわざ郵送された方も数名あり反響の大きさに改めて問題の重大性を感じさせられました。
近隣の内浦・能都地区労からも多数の参加がありました。
この講演会会場で,広瀬隆編著『北陸が日本地図から消える日』を原価販売したところ準備した130冊が完売しました。
講演会はビデオ撮影ができ,後日,相当活用されました。
原発の危険性をわかりやすくまとめたビデオ『牛乳が飲みたい』(河出書房新社作成)を15本購入し,寺家・高屋などに提供したほか,学習資料として活用をはかりました。('88年11月〜)
1989年3月18日(土),輪島市文化会館で開催された輪島市職組主催の学習会「地域生活と原子力発電」(講師:中島哲演氏)に参加しました。珠洲原発や志賀原発が決して狭い地域の問題ではないという認識で,輪島市民の健康と安全を考える市職組が,こうした学習会を開催したことに敬意を表しつつ,原発銀座・若狭の現状を学習しました。
(2)宣伝
@ 原則として毎月1回の情宣ビラの配布を,寺家・高屋地区に対して実施してきました。同時に,できるだけ地区労組合員にも配布する方向で取り組んできました。また,限られた予算の範囲内で,市内全戸に配布することも検討してきました。
A 1988年8月には原水禁平和行進の際に飯田〜鵜飼間でビラの投げ入れを実施しました。9月には地区労の協力を得て市内5000枚のビラ配布(広瀬隆講演会の案内などを記載)を実施しました。
B 10月には珠洲市・内浦町の新聞に1万700枚のチラシを折り込みました。
C 12月は関電による事前調査の申し入れや,反連協の当局・電力に対しての(原発反対の)申し入れなどを内容とするチラシを1万5000枚作成し,珠洲市・内浦町・能都町の新聞に折り込みました。このうち能都町については,折り込みの費用を能都地区労で負担してくれました。
D 1989年2月には,珠洲市内のみ8050枚の新聞折り込みを実施しました。
E 街宣活動としては,9月25日(日)に「広瀬隆講演会」の宣伝を兼ねて珠洲市内の街宣を行いました。
F 10月23日(日)には「10・26反原子力の日」の行動として同じく珠洲市内を街宣し,反原発を訴えました。
G その他,特に寺家・高屋の人々との対話については,8月や1月に直接面談して情宣ビラを手渡すよう努力しました。その結果,非常に多くの人々が昼夜を問わず当局や電力から悩まされているという実態を知らされましたし,殆どの人が原発には反対の意思を持っていることを聞かされ,何とかして欲しいとの要求を受けました。
H 「原発反対」立看板の修理[鉢ヶ崎](8月下旬)
(3)市長,議会議長,電源開発協議会に対する申し入れ('88.12.26)
1988年12月14日に関西電力等による事前調査の申し入れがあり,これによって珠洲原発立地が大きく実現性を帯びたかの報道が多く,市民感情を超えて推進へ向うことに危険を感じ,反連協として申し入れを行いました。特に市長との交渉の中では,市当局による寺家地区への不当な介入問題も取り上げ,住民の意思としては決して原発誘致を望んではいないことを訴えました。
珠洲電源開発協議会には「なぜ珠洲にまで来て原発を造ろうとするのか,紀伊半島での立地はどうなっているのか?」等を質しました。その回答によると紀伊半島(芦浜:中部電力,日高:関西電力。共に原発立地を地元が拒否)の人々の「理解が得られない」ということでした。それに比べて珠洲の住民は「理解が良い」(だましやすい?)と思っているかのようでした。
推進側は「原発は準国産資源」だと言いますが,その前提の「核燃料サイクル」に関しては残念ながら殆ど「無知」とといってよい程の理解でした。使用済核燃料の処理についても,納得できる説明はありません。ひたすら「珠洲の皆さんと共存共栄をはかりたい」と言いますが,珠洲には,関西や中部から出向いてもらってまで「共存共栄」をはかる必然性は全くないこと,信頼される電力になるため,真にクリーンな,再生可能なエネルギーの開発を目指すべきを訴えました。
(4)その他の行動
@ 「核燃いらない!青森の農漁業を守る会」の署名活動(約500名分を集約)
A 「能登原発止めよう!住民訴訟団」原告募集(反連協:35名分を集約)
B 能登原発反対運動への参加
「アイリーン・スミス講演会」[羽咋]('88.6.9)
「反基地全国交流集会」[羽咋]('88.6.18〜19)
「原水禁・能登原発原子炉設置許可反対石川県大会」[志賀町]('88.8.6)
「能登原発止めよう!11/23現地総行動」[志賀町]('88.11.23)
C 反戦・反核・平和運動へ参加
「原水禁平和行進」[労館前〜内浦役場前]('88.8.3)
小松基地を包囲する「人間の輪」[小松]('88.8.7)
「北信越原水禁平和学校」[羽咋]('89.3.4)
D 「能登エネルギー基地化反対地区労協議会」[珠洲労働会館]('89.4.1)
E 「止めよう原発!珠洲市民の会」の主催する催しと市長選挙
・「トーク&トーク地球を語ろう」(おすぎ&広瀬隆)[中央公民館]('89.4.3)
・「広瀬隆講演会」[乗光寺]('89.4.3)
・珠洲市長選告示('89.4.9) 珠洲市長選投票('89.4.16)
F 12月議会の傍聴(関西電力の事前調査申し入れ,国定市議の質問)('88.12.14)
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