反連協のあゆみ 
6 歴史的な市長選挙
1992年度の活動
 1992年度の珠洲反連協の第15回総会は,6月17日に珠洲労働会館で北野県議を来賓に迎えて開催されました(出席代議員:38名)。
 この総会では規約の一部を改正し,従来は1名だった副会長を2名にし,事務局体制の強化を図ることになりました。

1 活動方針
<情勢分析>(世界・日本の状況については転載を省略)
 石川県では92年秋に延期された能登(志賀)原発の試運転を前に,防災訓練が行われました。この訓練は,試運転のためのアリバイ作りでしかなく,明らかになったことは決して住民の安全は守り得ないということです。
 なぜなら,ひとたび大事故が起これば,その被害が志賀町にとどまることはありませんし,少なくとも石川県全域に及びます。まして,志賀町よりも北に位置する能登地区では避難経路も方法も確立していません。このまま試運転を認めることは,事故の際に少なくとも奥能登が切り捨てられることを認めるようなものです。原発事故の危険性については,志賀原発建設差し止め訴訟で科学的に証言されています。原子力安全委員会さえも,苛酷事故を否定しえなくなりました。
 まもなく実施される参議院議員選挙で,必ずしも原発拒否の世論が結集しえない状況を憂れいつつも,粘り強い運動の継続が必要になっています。
 珠洲市におけるこの一年も,県議選での北野氏当選,市議選での4名の反原発候補の当選,来春に控えた市長選挙への思惑から,平穏に推移する可能性もあります。しかし背後では関西・中部の両電力による懐柔策は確実に続けられます。行政もまた,「可能性調査再開」を当面の課題として住民の懐柔を画策しています。そのためあらたに事業所単位での「先進地視察」動員を画策しています。原発に関係なく当然行政がやらなければならないことを,あたかも原発誘致の前提であるかのように結びつけ,反対しずらい状況を創ろうという思惑もあるようです。特に寺家地区におけるそうした攻勢には十分警戒が必要でしょう。
 以上のような状況の中で,珠洲原発反対連絡協議会は従来どおりの具体的な活動方針を決定しました。
 
2 92年度の経過
(1)日本の状況(省略)
(2)石川県の状況
 石川県では能登(志賀)原発が間もなく(93年7月下旬)営業運転を開始しょうとしていますが,すでに2号機の計画が発表されました('93.5.24)。能登半島エネルギー基地化の策動とそれに対する反対運動について,この1年の経過を次の4点について報告します(珠洲原発に関しては項を改めて記載)。
@ 「能登原発差し止め訴訟」の状況
 1988年12月に200名の原告団で提訴して以来,精力的に取り組まれてきました。
 92年6月の第24回公判で京都大学今中哲二氏がチェルノブイリ現地調査結果から原発事故の危険性を指摘したのをはじめ1993年3月11日の第30回公判,4月22日の第31回公判で地元原告住民や消費者団体職員らの証言に至るまで,あらゆる角度から能登原発の危険性・不当性が証言されました。これらの証言の中で,北電が発表した「2号機増設計画」も厳しく批判されています。
 これで証人尋問はすべて終わり,6月17日と7月15日の弁論の後,9月にはいよいよ最終意見陳述・結審が予定されています。判決は来春3月の見通しとなっています(『能登原発とめよう原告団ニュース』25)。
 この間,終始原告団優位で展開されてきました。北電側の主張は次々に矛盾を生み,原告側証人への反対尋問を取りやめるなど,追い込まれてきました。これまで原告側から次のような人々の証言がありました。
・久米三四郎:原発の本質的危険性について
・小村浩夫:BWR型原発の危険性−核暴走にしぼって
・吉村盗エ:原発防災・核燃料輸送の問題点
・今中哲二:放射線の危険性と事故被害の甚大さ
・平井孝治:エネルギー論及び原発の不要性(廃炉,再処理,廃棄物)
・沖崎信繁:電力側の宣伝の欺瞞性と現地住民の不安など
・和田広治:自治労富山と市民団体による防災対策を求める運動など
・野田克己:多発する原発事故の情報公開への不信など
A 防災計画の見直しを求める運動
 1992年6月9日,石川県と志賀町等は原子力防災訓練を実施しました。しかしこれは同年秋に予定していた試運転に至るまでの単なるセレモニーでしかないことが明確になりました。およそ住民が要求していたような「防災計画」には程遠く,この訓練によって住民の不安はますます増大しました。
 10月10日には志賀町民ら260名が参加して「自主避難訓練」を実施し,県評センターや自治労本部などが協力しました。改めて「防災計画の全面見直し」が必要であることが明らかになりました。そして行政による訓練のやり直しを求める声が結集されましたが,県はこれを拒否しています(93年6月議会で志賀町長は7月下旬の避難訓練の実施を表明しましたが,これは2号機増設受け入れのためのセレモニーで,住民が求めるような防災計画策定には至らないでしょう)。
B 試運転阻止・中止を求める運動
 1992年11月2日,ついに能登原発は試運転(核燃料の初装荷)を開始しました。これに対して10月31日(土)に輪島地区労センターと市民団体が共催で集会と市内のデモを実施し,能登原発試運転中止と防災計画の全面見直しなどを訴えました。
 試運転の当日(11月2日)は,早朝から赤住の団結小屋前で集会を開き,町内をデモ行進し,原発前では北電の谷社長に対しての「申し入れ書」が地元の「赤住を愛する会」と「石川県評センター」の連名で提出されました。試運転の中止と2号機増設の撤回を要求する内容です。 
 11月21日には能登原発が臨界に達したことに抗議して羽咋と珠洲で集会とデモが実施されました。羽咋と珠洲の集会名でメッセージの交換を行いました。
C 「2号機増設」に反対する運動
 前述のように1号機の営業運転も始まっていない段階で,北電は2号機の計画を発表しました。1号機自体がすでに余剰設備であるというのに,最大規模出力135万kWの原発を増設しようという計画です。
 1号機に関しての防災計画さえ不十分極まりない状況で2号機増設というまさに常軌を逸した計画発表に,志賀町の「子供達の明日を考える父母の会」が中心となって署名運動に取り組んでいます。この運動には県評センターも加わり全県的に広がりつつあります。署名は知事への「要望書」で,次の2点を営業運転前に北陸電力に申し入れることを要望しています。
(1)住民本位の防災対策と,国が北陸電力にも検討を勧告したシビアアクシデント(過酷事故)対策が充分できるまで,営業運転は見合わせること。
(2)原子力発電の安全性が確認されるまで,志賀原発2号炉の計画は凍結すること

 1993年6月8日には市民団体「原発反対石川女性の会」が県と北電に対して2号機増設計画の白紙撤回などを求める申し入れを行いました。('93.6.9付『朝日新聞』)

3 珠洲原発に関する闘い
 91年度が概して平穏に推移したのに比べ,この一年は極めて意義深いものとなりました。そしてこの一年の運動を今後どのように発展させていくのかが,長期的な展望との関わりの中で課題となるものと思われます。そうした点からも経過をきちんと総括しておく必要があります。
 以下,反連協が関わった運動を中心に,できるだけ客観的に時間を追って次の7点について報告します。
(1)1992年7月の参議院議員選挙に対して
 県評センターや社会党県本部では3年前の参議院選挙と同様「連合」候補を擁立する方針を確認,民社党や同盟・連合石川との協議を経て民社党県本部の書記長であった宮本一二氏の擁立を決定しました。しかしながら原発問題に関心の深い珠洲にあっては,宮本氏の擁立を歓迎するような受け止めは皆無に等しい状況にありました。こうした認識から,珠洲地区労センターや社会党珠洲支部では,「推薦」を決定するに至らず,結局「支持」という方針で臨むことになりました。両組織を母体とする反連協としても,この決定にそい参議院選挙を位置づけました。
 宮本氏自身が原発推進を掲げる民社党出身であること,そしていかに「連合」候補として民社党を離れたとしても,「連合」そのものの方針を決して納得はできないこと(特に「連合」の原発に対する方針とPKOへの対応に不信が大きい)等,積極的に参議院選挙を位置づけて取り組むには,困難な状況がありました。
 しかしながら手をこまねいていては自民党現職で珠洲においても積極的に原発の必要性を説く沓掛哲男氏の完勝に終わります。そしてそれが珠洲における原発推進の口実にされるのを黙認することはできません。“ベスト”でなくとも“ベター”な選択として,ある程度の原発批判票の結集を目指す必要があると判断しました。
 こうした認識から反連協としては一定程度ネットワークに対しての働きかけを行いました。また,粟森氏の要請もあってネットワークの一般市民と粟森氏の話し合いの場の設定も行いました。その場では「連合」の原発に対する姿勢に大きな不信が数多く表明されました。特に高屋のある老婦人の鋭い指摘には,心を打たれるものがありました。
 3年前の選挙では,全国的なブームもあって石川県でも初の快挙が実現したのでずが,珠洲においてはその時点でも特にネットワークの間に「連合」への不信がありました。しかし,何とかそれを説得し原発批判票のかなりの部分を粟森氏に集中できたのは,粟森氏自身が県評議長として常に反原発運動の先頭に立ってきたという実績と,山本信晃氏の熱心な説得によるものでした。粟森氏が自民党現職に競り勝ったという実績から,珠洲における反原発運動に明るい展望を見いだそうとした人々も多かったでしょう。しかしながら当選後の粟森氏の行動は,そうした期待にまったく応えるものではありませんでした。「連合」といういわば素人集団の中で粟森氏の任務が余りにも多過ぎたという面と,氏の関心が一地域を離れて日本全体の,まさに政界再編へと向かったからなのでしょう。国会議員としては当然のこととはいえ,珠洲にとっては期待はずれと受け止められたのもまた,やむを得ないことかも知れません。
 反連協としては参議院選挙特集の『地区労センターだより』号外(1〜4)の作成・配布,電話戦術(比例区の社会党支持依頼を含む)などに協力しました。
 珠洲における得票は次の通りでした。
  ・宮本(連合)3,236  ・沓掛(自民)8,182  ・尾西(共産)993  ・無効 495
(2)学習・交流の活動として
@ 社会党国会議員による「PKO国会報告会」と交流会('92.6.28〜29)
 島崎譲衆議院議員,翫正敏参議院議員ほか社会党県会議員などが珠洲を訪れ,国会の状況についての報告がありました。夜には社会党珠洲支部の党員や地区労役員らと交流会に参加し,珠洲の状況についても報告しました。翌日は議員団が珠洲市内各地で街頭演説を行い,反連協役員も同行しました。
A 「ピースサイクル」との交流・連帯('92.7.25〜27)
 大阪や金沢から約10名を迎えて蛸島の民宿で交流会を持ちました。地元からは北野県議が出席して珠洲の状況を報告しました。翌日早朝6時に蛸島漁協前で国定市議らの激励など出発式を行い,寺家〜高屋,輪島を経由して門前まで自転車で走破しました。反連協では街宣車でアピールしながら第一日の行程に同行したほか,2名が一行と共に金沢まで自転車で走破しました。
 この運動は全国各地から「反戦・平和・反原発」を訴えながら自転車で広島までつなげようというもので,珠洲が近畿北陸ブロックのスタート地点となったのは90年からで,今年で3年が経過したことになります。
B 「日・韓 反原発に国境はない」交流集会('92.8.23)
 韓国全羅南道議会の反原発議員ら11名と通訳2名が来日,8月24日〜26日に珠洲市(国民宿舎「木の浦荘」)で開催される「全国革新議員会議」に参加するという計画が,北野県議や珠洲市民会議の議員を通して明らかにされました。韓国にはすでに多数の原発があり,さらに大幅な新規立地や増設,核廃棄物処理場の問題を抱えています。そして,韓国における原発推進を支えているのが日本であるという実態を知るにつけ,日本海に突き出た能登半島の置かれた地理的な立場から,改めて放射能汚染の危惧を深くしました。蛸島町の勝安寺で8月23日の夜,交流集会を開催することを7月の「ネットワーク」で確認しました。8月10日には反連協も加わって「交流集会実行委員会」を結成,交流集会の成功に向けて取り組みました。この集会の協賛団体には地元蛸島漁協青年部と婦人部,ネットワークと共に反連協も加わりました。反連協では手配り用のチラシ作成と珠洲全域へチラシの新聞折り込みなどを行いました。
 この交流会に当初来日が予定されていた全羅南道議会の議員について,直前になって不可能となりました。日本の電力業界を通しての圧力が働いたためのようです。結局来日できたのは韓国反核資料情報室の主幹で,反原発運動のリーダー金(キム) 源植(ウォンシュク)氏をはじめ反原発運動に携わっている成 楽俊,文 善景,呉 珍姫の4名でした。交流集会にはネットワークを中心に約150名が参加しました。
C 清水修二氏講演会('92.8.24〜25)
 6月のネットワーク(三崎公民館)で三崎のグループから提案のあった福島大学経済学部の清水教授を招いて講演会を開催する件について,反連協としては全面的に支援することを確認し,地区労センターにも働きかけ実現に至りました。
 清水氏は「原発による地域経済学」を専門として,福島原発による地域の活性化について研究を続けており,その結果を多数の具体的資料を使いながら説明されました。「原発問題講演会−原発による地域活性化を問う」という演題での講演会を「珠洲の原発を考える会」主催,ネットワークと地区労センター・反連協の共催で24日には飯田町の乗光寺で(約100名参加。地区労センターは「労働講座」として位置づけ動員体制で臨み,また「止めよう原発 飯田住民の会」も共催しました),翌25日には三崎町寺家の翠雲寺(約50名参加)で「三崎町反原発の会」と「自然を護る地権者の会」の共催で開催することができました。
 この講演会には広く参加を呼びかけましたが,市役所の電源立地対策課の職員や電力の社員なども参加し熱心に聞き入っていました。
 両日とも講演会が終わってから清水氏が持参されたスライドを見ながら氏との交流会を持ちました。
 反連協としてはこの講演会と「日・韓 反原発に国境ははない」交流集会の案内用のチラシを同時に作成し,新聞に折り込みました。また,街宣車による広報活動,清水氏の講演用の資料(6ページ)の印刷(300部)などで協力しました。
D 「全国革新議員会議」との交流会('92.8.25)
 この会議は全国の革新系無所属の地方議会の議員178名によって結成,毎年1回,全国集会を開催しているものですが92年度は珠洲市で開催されることになったものです。この会議の準備には北野進県議や珠洲市民会議の4名の議員があたり,反連協では側面的に協力しました。会議は国民宿舎「木の浦荘」で8月24日〜26日の3日間の日程で約80名が参加して開催されました。各地の運動についての意見交換や韓国での原発反対運動との交流などが行われましたが,反連協では会議への参加者用に「珠洲原発の経過と現状」についてのパンフ(36ページ,85部)を作成し配布しました。
 地元住民や地区労センター役員・反連協役員など約15名が加わっての交流会は
25日の夜開催され,韓国からのメンバーも交えて意義深いものとなりました。
E 「珠洲原発反対ネットワーク」への参加
 92年度もほぼ毎月一回,各地持ち回りでネットワークが開催されてきました。反連協もこの集まりに常に参加する中で,各種の催しなどについて協力体制を構築してきました。前述の企画などはもとより,参議院選挙への理解と協力要請や,反原発集会の計画や他地区での集会への参加要請,市長選挙への対応など,広く意見を集約する場としても重要な役割を果たしてきました。
(3)情宣啓蒙活動として
@ 『反原発チラシ』の作成と新聞折り込み
 1992年度には次のようなチラシを発行しました。
・ 8/18 清水修二講演会と「日・韓 反原発に国境はない交流集会」案内
・ 8/22 上の内容を裏面に掲載したと反原発啓蒙のチラシ(新聞折り込み)
・10/26 「10・26 反原子力の日」特集チラシ(珠洲市郡に折り込み)
・10/31 上のチラシを増刷し輪島で配布(投げ入れ)
・11/20 「11・21 原発反対珠洲市民集会」への参加要請チラシ(折り込み)
・11/21 「11・21 原発反対珠洲市民集会」集会宣言と羽咋集会メッセージ
  〃   珠洲市民に訴えるチラシ(配布,投げ入れ)
・ 1/21 『反原発チラシ』(93年1月号)
・ 2/12 『反原発チラシ』(93年2月号 No.1 地震関連チラシ)
・ 2/24 『反原発チラシ』(93年2月号 No.2 )
・ 3/30 『反原発チラシ』(93年3月号)
・ 4/ 7 『反原発チラシ』(93年4月号)
・ 5/10 「5・12事前調査再開阻止,疑惑選挙糾弾集会」参加要請チラシ
・ 5/12 「5・12事前調査再開阻止,疑惑選挙糾弾集会」集会宣言
  〃  珠洲市民に訴えるチラシ(配布,投げ入れ)
A 街頭宣伝活動
 反連協で管理している街宣車を利用して,次の機会に街宣活動を行いました。
・ 6/28 社会党国会議員による街頭宣伝活動に同行
・ 7/26 ピースサイクルの先導車として市内で街宣
・ 8/24 清水修二氏講演会の案内(〜25)
・10/25 「10・26 反原子力の日」市内街宣
・10/31 輪島での集会・デモへの参加
・11/21 「11・21 原発反対珠洲市民集会」の進行とデモ先導
・2〜4月 「新しい珠洲を作る会」講演会の案内
・ 4/24 「疑惑選挙糾弾・選挙のやり直しを求める集会」とデモ
・ 5/12 「事前調査再開阻止・疑惑選挙糾弾集会」とデモ
B 屋外広告物(「原発反対」看板)の整備
 鉢ヶ崎にあった看板の移転を求められ小泊バイパスの柳谷さん所有地へ移転しました。この際,基礎をコンクリートで固め,一部破損部分を整備しました。また,若山町火宮のHさん所有の車庫に掲示していた看板が台風で破損したため,新たに作成し直しました。
 現在維持している看板は三崎町寺家地内にある看板を含めて3つです。正院町川尻地内で掲示していた看板は,2年前から破損し撤去したままです。
C 街宣車の廃棄と新規入手
 これまで管理・使用していた街宣車は,旧県評所有のものを穴水地区労が譲り受け管理していたものですが,関西電力による事前調査開始に伴い反連協が譲り受けて利用していました。しかし,車体の破損が著しくついに93年5月の車検切れを持って廃車としました。
 これに代わり幸いにも石川県高等学校教職員組合が,それまで所有していた車を無償貸与してくれることになりました。看板などをつけ替えて次年度より活用する予定です。
(4)各種集会やデモなどの組織化と参加
 反連協が直接的にかかわりをもって組織化した集会・デモは次の2つです。
@ 「11・21 原発反対珠洲市民集会」とデモ('92.11.21)
 これは93年春の市長選挙を控えて,市内の多くの反原発の意志を3年ぶりに大結集させるには最後の機会であると判断したからです。11月21日(土)はちょうど能登原発が初の臨界を迎え,ついに核分裂を開始するという日にあたり,県評センターでは羽咋市で大規模な抗議集会を計画していました。当初は珠洲からも羽咋集会への参加が要請されていたのですが,反連協では珠洲でも集会とデモを実施すべきであると判断,10月末のネットワークに提案し賛同を得ることができました。県レベルの了解を得て近隣の輪島・能都・内浦などへの参加依頼も可能となりました。11月9日にはネットワークと地区労センター代表も交えて準備委員会を開催し,要項などを決定することができました。
[集会の主旨]
 珠洲における「反原発」の運動が健在であることを示し,更なる結束の強化をはかる(来春の市長選挙を展望しつつ,志賀原発試運転に抗議する)。
[集会の名称]メインタイトル:「原発反対!珠洲市民集会」
           サブタイトル :−珠洲原発白紙撤回・志賀原発試運転中止−
[主催団体]ネットワーク,地区労センター(準備の事務局:反連協)
[日程など]11月21日(土)午後2時 蛸島漁協前集合(集会は約40分)
  集会後蛸島〜飯田までデモ行進(途中休憩を入れ午後4時半,飯田で解散)
  解散後はJRバス2台で蛸島漁協前まで輸送
 反連協では可能な限りの準備を尽くしました。幸い他地区からも多数の参加があり(特に輪島地区労センターは大型バス1台以上分が参加),総勢500名をこえる集会・デモを実現,所期の目標を達成することができました。特に10割動員で臨んでくれた地区労センターと地元蛸島漁協をはじめとする多数の町民の参加が成功に結びつきました。
 反連協は市内全域に50枚のポスターを掲示したほか新聞折り込みのチラシやマスコミ各社への案内,更に街宣車による参加呼びかけなども行いました。デモ行進時市内各家庭に『珠洲市民のみなさんへ』というチラシの投げ入れを行いました。当日は羽咋でも集会が開催され,珠洲集会と羽咋集会の間でメッセージの交換も行いました。また,衆議院議員島崎ゆずる氏,社会党県本部委員長池田健氏からもメッセージが寄せられました。
 この集会に関わった一切の費用は反連協が負担しましたが,蛸島漁協と宝立ネットワークからカンパをいただきました。
A 「5・12事前調査再開阻止!疑惑選挙糾弾集会」とデモ('93.5.12)
 市長選挙では極めて深い疑惑が残りました(後述)。4月24日には選対本部などの呼びかけで,疑惑選挙を糾弾する集会とデモが行われました。しかし,選管のその後の対応にはまったく誠意も反省も見られず,更に一部で関西電力による事前調査再開策動の懸念もあって,急遽5月12日の集会とデモの実施を地区労センターと協議しました。その結果,地区労センターとしても5月1日のメーデーへの参加を見合わせたという状況もあって,積極的に計画を支持し組織として主催することを決定しました。反連協ではネットワークにも協力を要請し,ネットワークと反連協が共催団体として名を連ねることになりました。
 5月12日を設定したのはちょうど4年前のこの日が関西電力によって強引に事前調査が開始された“記念日”にあたるからです。平日であるため午後5時30分集合とし,飯田町の埋立地で集会の後飯田町内をデモ行進しました。
 なお輪島地区などからも参加協力の申し入れがありましたが平日でもあり今回は依頼しませんでした。それでも珠洲市内から多数の参加があり,その数はデモ行進が進むにつれて増加していきました。結局500名近い参加がありました(集会宣言[資料24])。
 市長選を闘った樫田氏さんが連帯の挨拶を述べられ,盛んな拍手がありました。この集会に向けて反連協はネットワークへの協力依頼を行ったほか,市内の新聞3紙にチラシの折り込みとマスコミ各社への案内,集会用と市内配布用のチラシの作成([資料25])などを行いました。それらの費用も反連協が負担しました。
B その他の集会
 以上2つの集会・デモのほか,反連協として参加した集会などは次の通りです。
・「PKO国会報告会」('92.6.27)
・「PKO粉砕・参議院選挙勝利決起集会」('92.7.4)
・「原発に反対する輪島市民の集会とデモ」('92.10.31)
 この集会とデモはまぢかに迫った能登原発の試運転開始に対して,その中止と「防災計画の全面見直し」などを要求して,輪島地区労センターと輪島の市民グループが計画したものです。反連協は輪島地区労センターからの要請を受けて,珠洲市内のネットワークにも働きかけ,珠洲から総勢20名以上が参加しました。反連協ではチラシを持参し集会とデモ行進の際に投げ入れを行いました。この集会で11月21日の珠洲市民集会の予定を連絡しました。
・「能登原発試運転中止要求現地集会とデモ」('92.11.2)
 早朝8時から志賀町赤住の団結小屋前で集会を開き,その後町内をデモ行進しました。珠洲からも宝立や高屋など各ネットワークから数名ずつが参加しました。この集会でも11月21日の珠洲市民集会の予定を連絡しました。
・「疑惑選挙糾弾!選挙やり直しを求める集会とデモ」('93.4.24)
 選挙に関しての数々の不正や不当な圧力などに加えて,開票作業で明るみにでた極めて重大な疑惑に対して,その真相の徹底究明と選挙のやり直しを求めるため,急遽,選対本部などの呼びかけによって標記の集会が開催されました。集会開始時までは激しく降りしきっていた雨もあがり,熱気に満ちた集会とデモが約500名の参加で実施されました。輪島の朝市組合から大型バス2台にも及ぶ支援参加もあり,一層盛り上がりました。反連協では街宣車も参加しました。
(5)市長・議会・電力への申し入れなど
@ 議会への請願について
 1992年6月議会に対しての請願は,同年5月29日のネットワークで三崎地区が担当することを決定。三崎と飯田の住民約40名の署名を得て提出されました。他に宝立ネットワークと輪島地区労センターからも「珠洲原発の白紙撤回」を求める請願が出されました(輪島については反連協の要請によるものです)。
 次に9月議会に対しては,飯田住民の会が中心となって請願を実現しました。この請願書自体の作成については反連協が全面的に協力しました。なおこの9月議会には内浦地区労センターも同主旨の請願を提出してくれました。
 珠洲市長選挙が終わり最初の議会にあたる1993年6月議会に対しては反連協が単独で請願書を提出しました。市議会で「同じ人・団体が議会のたび毎に同じ内容の請願を繰り返すのはいかがなものか」と,6ヶ月位の自粛を申し合わせたということなので,その点をも考慮した提出となりました。
A 市長への申し入れについて
 1993年2月7日の夜,珠洲沖で発生した大地震は,改めて原発への不安を募らせました。こうした状況からネットワークと反連協が連名で市長への申し入れを実施しました('93.2.17)。この申し入れには反連協河岸二三会長や北野進県議らが臨みました。申し入れの要点は次の通りです。
・全国でも最も地震が少ないといわれる能登半島で発生した地震は一昨年の台風19号に続き珠洲市に大きな被害をもたらした。市民は改めて天災の恐ろしさに思いをよせ,子どもや親などの身を案じた。
・揺れが一段落して思ったことは試運転中の志賀原発のことだった。ところがテレビでは「異状はなく運転を続けている」と報じていた。JRやのと鉄道さえ運転を停めて点検しているという時に,原発の安全性への配慮のなさに不安は一層つのるばかりであった。何よりも経済性を優先するという原発の本質が明らかになった。
・もし,珠洲に原発が稼働していたら…と思うと,まさにいい知れない恐怖に怯え続け,そして被曝していくことになる。高屋地区は地質が弱く,中小規模の無数の断層が存在するということが,すでに1976年から和光大学生越忠氏によって指摘されている。通産省作成の地質図にも示されている。
 以上のような観点からも改めて次の2点を強く要望する。
1.珠洲原発計画の白紙撤回を求めます。
2.関西電力,中部電力の珠洲からの撤退を申し入れるよう求めます。

B 電源開発協議会への申し入れ
 1992年10月15日に反連協として独自に電源開発協議会に対して申し入れを行いました。反連協による電力への申し入れは,美浜原発のECCS作動という危機一髪の重大事故後の91年3月以来ですが,今回は特に次のような点についても申し入れを行いました。
・中部電力は寺家で,関西電力は高屋で,それぞれどのように土地に関する契約を締結しているのか。また,住民の「理解」を得んが為どのような活動(視察・寄付・就職斡旋・飲食・物品供与など)を行ってきたか明示すること。
・美浜に続いて福島原発でもECCS作動事故があったが,どのように受けとめているのか。
・日本へのプルトニウム返還が国の内外から憂慮されているが,どのように理解しているのか。「核燃料サイクル」についての判断は?
・原発のメリットとデメリットについて,どのように判断しているのか。
・珠洲における原発立地の可能性について,どのように判断しているのか。
 これらの申し入れとそれに対しての回答の要点については1992年10月26日付の反連協チラシに掲載し,珠洲市・郡の新聞3紙に折り込みました。また,輪島でも配布しました。('92.10.31)
 珠洲沖で発生した地震に関しては,1993年2月17日に反連協とネットワークの連名で電源開発協議会に申し入れを行いました。主旨などは同日市長に対して行ったものと同様です。申し入れ事項は次の通りです。
1.珠洲原発計画の白紙撤回を求めます。
2.関西電力,中部電力は珠洲から撤退し,珠洲電源開発協議会を解散する よう求めます。

(6)珠洲市長選挙に対する取り組み
 1991年4月の統一地方選挙では北野県議の誕生をはじめ,市議会にも4名の反原発議員が当選,それ以来珠洲における原発反対の世論は新たな展望として市長選挙での勝利を目指してきました。91年以降,ネットワークでの関心事は電力サイドの動きへの警戒と,反原発世論の高揚をめざした取り組み,そして「市長選をどう闘うか」にありました。
 以来二年間,時にはネットワーク内部での意見の違いなどもあり,大同団結を実現して選挙戦に立ち向かう体制を一刻も早く構築したい,というのがすべての人々の願いとなっていました。こうした状況の中で,反連協としては微力ながらも,望ましい体制づくりに貢献することに意を注いできました。ある意味では,この二年間のすべての運動を「市長選挙の体制づくり」という展望の中に位置づけ,極力表面には出過ぎないように留意しつつ,可能な限りにおいて積極的に担おうとしてきたと言えます。さらに,市長選挙への取り組みの過程において,最も望ましいと期待されたこととは言え,反連協の特別幹事である国定市議が選考委員会座長として選出されたことも,当反連協にとって全力投球すべき大きな励みであったとも言えます。
 この市長選挙の闘いをどう評価すれば良いのかについては,必ずしも意見の一致をみることはできないかも知れません。あるいは,本当の評価は今後の運動の推移にかかっていると言うべきでしょうか。私たちが何を目指して,何のために選挙戦を闘ったのかという原点にかえって総括することが必要なのでしょうが,そうした意味からも,この選挙に対する反連協としての対応を可能な限りにおいて正確に報告する必要があるでしょう。以下,経過を追って報告します。
@ 「選考委員会」と「小委員会」の設置
 市長選挙への取り組みをどうするかということについては92年度当初から,ネットワークでの話題になっていました。1992年6月20日に三崎町公民館で開催されたネットワークの場で「次回までに各グループから1〜2名の委員を選出する」ことを確認しました。
 7月24日宝立で開催されたネットワークで「市長選挙候補者擁立のための選考委員会」を結成することを確認しました。
 地区代表の他,地区労センター,社会党,反連協も含め総勢約30名の委員を見込みました。原則的なこととして次の4点を確認しました。
 1.「原発白紙撤回」を原則とする。
 2.年内に候補者を確定したい。
 3.候補者本人に費用を負担させない。(カンパでまかなう)
 4.選考委員会の座長は国定正重氏,副座長は沢田実氏(正院)とし,事務局は反連協(柳田)とする。委員会に要する費用は反連協が負担する。
 選考委員会は,8月4日に労働会館で発足。具体的な作業のため小委員会が設けられました。構成は次の通りです。
  国定座長,沢田副座長,塚本真如(高屋),長出広光(党),新谷栄作(蛸島)
  北野進(県議),事務局担当:反連協(柳田)        [以上,敬称略]
 ですが,9月4日から11月末まで4回開催するも,展望は開けませんでした。そこで第2回の選考委員会('92.12.2,正院町沢田実氏宅,18名)を開き,広く意見の交換を行いました。
 その結果樫田凖一郎氏にお願いしようということで一致しました。実は樫田氏については数年前から事ある度に最適の候補者として待望論が多かったのですが,そしてもちろん今回の選考においても当初からその念は強かったのですが,とても立候補に踏み切ってもらえないだろうという悲観論が強く,躊躇していたというのが小委員会の本音でした。しかし,この選考委員会では満場一致で樫田氏に出馬要請することを決定しました。
 同時にあらゆる妨害を防ぐ為にも「部外秘」を確認しました。
この決定によって小委員会は活気づきました。同日,早速別室で小委員会を開催し,集中的に出馬要請する方法を協議しました。
A 樫田凖一郎氏の擁立
 樫田凖一郎氏に焦点を絞っての出馬要請が12月3日から熱意に満ちて取り組まれました。こうした要請に対して,氏は非常に真面目に事態を受け止められ「何とか辞退したい」という思いを(それが本音であることは誰の目にも明らかでしたが)自ら克服できないかと悩まれる姿に,胸をうたれるものがありました。ご夫妻が描いておられた生活設計を根底から覆すことにもなり,申し訳ないという思いが募りました。しかし,珠洲の現状を打開するにはもはや樫田氏以外には見当たらないという認識から,人間味あふれる氏の真面目さにつけこまざる得なかったという“うしろめたさ”を抱きました。ご夫妻の葛藤に思いを寄せる時,責任の重大さを改めて認識させられました。
 こうして12月30日でついに,樫田凖一郎氏の擁立を決定しました。同時に,選挙に取り組むための準備についても検討に入りました。
 12月議会では林市長が再選を目指して出馬することを表明しましたが,これに対して私たちの戦いは「短期決戦」となることを覚悟しました。それだけに事前にできるだけの準備体制を構築するため,後援会や選対組織の原案や資金調達の方法などを候補者名をふせたままで,どのように進めていくかを協議しました。
B 選対準備委員会への発展('93.1.7,労働会館,22名)
 年が明けて1993年1月7日。第3回選考委員会を開催し,候補者を樫田凖一郎氏に絞り込んだことを報告,具体名の部外秘を確認しつつ後援会や選挙対策委員会づくりなど準備にはいることを決定しました。新たに「選対準備委員会」を結成,座長に長出広光氏を選出しました。また,政策の決定やリーフレットなどの作成を担当するための企画委員会の結成を決定しました。
 この委員会は,1月17日,1月25日,1月31日に開催しながら諸々の準備を進めました。後援会の規約や役員の原案,さらに選挙事務所の準備,資金の調達のための活動開始などです。
C 立候補表明('93.2.1,労働会館)
 長い間の苦悩と周辺からの不当きわまりない圧力を克服して,ついに樫田氏本人の口から堅い決意の表明がありました。その一言一言にはずっしりした重みと深み,人間的な暖かみが溢れていました。これ以上の候補者は絶対にいないとの思いで,感謝に満ちた拍手が会場をゆるがせました。
D 2月以降の取り組み
・2月2日 珠洲教組が樫田氏の推薦を決定
・ 4日 珠洲地区労センターが拡大幹事会で推薦を決定(一部単組退場)
(以降,各単組による推薦が決定されていく)
    第5回選対準備委員会
・ 5日 第6回選対準備委員会
・ 7日 「かしだ凖一郎後援会」結成大会
    第1回後援会役員会,選対委員会
・ 10日 第2回選対委員会(以降,定期的に開催される)
・ 12日 市民会議・北野県議と樫田氏による座談会
              (市民会議の議会報告で掲載)
・ 15日 後援会事務所(後に選挙事務所)のプレハブ着工
     反連協の第5回役員会
・ 16日 社会党珠洲総支部の旗開き
・ 17日 地区労センター・社会党合同選対準備会
・ 19日 石川県評センターが推薦と支援行動の方針を決定
・ 21日 「かしだ凖一郎後援会」事務所開き
・ 23日 地区労センター・社会党合同選対発足(事務所開き)
 以上のように選挙戦を担っていく組織が確立し,これ以降着実に取り組まれていきました。(具体的な運動については割愛します。)
E 選挙結果とその評価について
 1993年4月11日告示,18日投票の市長選挙は,いろんな意味からもまさに珠洲にとっては歴史的なものとなりました。その投票結果として当初発表されたのは次の通りでした。
 ・樫田凖一郎:  8,241票
 ・林  幹 人:  9,199票
 ・無  効:    88票
 ・合   計: 17,528票[名簿による投票者総数は17,512票]
 以上より16票も多く投票があったことになり,追求により無効票88票の再調査の結果,「不受理分9票が混じり,さらに2票は数え間違いで,残りの5票は不明票」と発表しました。この極めてずさんな投票管理・開票管理に対しては現在,県の選挙管理委員会に対して異議申し立てが行われています。また,今回の投票総数の10%もの不在者投票があったということも極めて「異例」なことであり,その処理についても疑惑を指摘する意見があります。総じて今回の選挙には,不当な選挙干渉・妨害,悪質な違反,不正転入の試み,元市議会議長による買収,背後にあっては電力会社による水面下での暗躍など,およそ「公明選挙」には程遠い選挙となりました。これらについては『'93珠洲市長選報告集』で,多くの人によって報告されています。
 これら一連の不正疑惑に対して1000名を越える市民によって選挙無効の申し立てが取り組まれています。この申し立てについて珠洲市の選挙管理委員会は意見陳述会を開き,申し立て人の意見を聞くことを了解しておきながら,当日になって「非公開,マスコミ排除」や「陳述人の人数制限」など“密室”での処理をめざそうとしました('93.5.24)。私たちが要求する「選挙無効」を決定できるのは市の選管です。その「当事者」に対しての異議申し立てであったわけで当初より期待はできないという見方がありましたが,5月24日の対応はやはり,それを裏づけるものでしかなかったというべきでしょう。結局,意見陳述はボイコットせざるをえなかったようです。そして予想通り5月28日,市の選管は申し立てを棄却しました。市の選管による棄却を受けて,それを不服とする申し立てを今度は県の選管に対して取り組むことになりました。(法的な手続き手段で,弁護士の指導によるもの)これらの取り組みのための打ち合わせが6月13日まで数回続けられ,「不正選挙を糾明する会」(会長:国定正重氏,事務局長:塚本真如氏)を結成,これ以降の裁判闘争まで視野に入れた法的な対抗手段をとることを確認しました。県の選管への申し立ては,1300名を越える市民によって6月16日に提出されました。この申し立てについて奥村弁護士は「市選管は数々の疑問点に何も答えなかった。公正であるべき選挙に疑問が生じること自体,民主主義の危機だ。県選管の手でしっかりと解明して欲しい」と述べています。また代表の国定市議も「不正選挙に珠洲市民は今も怒っている。納得のいく答えを期待している。」と述べています。('93.6.17付『朝日新聞』)
 今回の市長選挙をどのように評価・総括すべきかについては,現時点では極めて判断しにくい状況にあります。それは次のような経緯によります。
 第一に,今回の市長選挙で何を目指していたのかが必ずしも明確ではなかったということです。
 もとより「原発阻止」のためには重要な選挙であり,何としても現職に対して戦いを挑まなければならない状況にあることは,共通の認識としてありました。つまり,端的にいえば「不戦敗は許されない!」という出発点がありました。
 そして次に情勢を分析するならば「おおいに勝機のある戦い」であるという展望が生じていました。そうした状況から「勝てる候補を!」を追求しました。
 そして最終的には「最高の候補」の擁立に成功しました。珠洲の未来を託するにはまさに最高の候補であり,単に「原発阻止」にとどまらず,真に明るい希望に満ちた,自然と調和し,人々や町が輝く市政が実現できると信じました。
 この選挙によって珠洲が生まれ変わり,まさに「構築型の行政」が実現し,そして同時に,日本のエネルギー政策の転換,つまり<脱原発>の実現にもおおいに寄与し,住民自治のあり方を能登半島の突端から変換していくのだという自負さえありました。県内はもとより広く全国各地から注目されたのも,まさにその点にあったのでしょう。
 以上のように私たちの目標は,あまりに優れた候補者を擁立しえたことによって,いつの間にかだんだん大きく膨らんでいったというべきでしょうか。
 第二に,「必ず勝てるという保証はないが,勝機はおおいにある」というのが共通した認識でした。そして選挙がひとまず終わって「勝機はあったが,勝てなかった」というのが結果としてあります。「勝機はあった」という段階まで追い込んだという実績・プロセスを評価すべきなのでしょうか。それとも「勝てなかった」という結果を謙虚に反省すべきなのでしょうか。そのいずれに重点をおいてとらえるべきなのでしょうか。前述の『市長選挙報告集』に寄せられた人々の受け止め方の違いも,まさにこの点にあります。
 候補者本人はもとより選対本部をはじめそれぞれの段階で献身的に力の限りを尽くして奮闘を続けてこられた方々のことを考えるならば,まさにその成果としての8241票を高く評価し,敬意を表したい思いです。長期間にわたり珠洲に滞在し,諸々の面で豊富な経験を活かして運動をリードしてくれた県評センターのオルグ(多名賀氏,富瀬氏)をはじめ,多数の支援団体や県の内外から自発的に珠洲に入り込み,献身的に支援行動やオルグを担ってくれた多数の人々のことを思えば,選挙を戦うプロセスにも貴重な教訓・成果があったことは明らかです。珠洲における原発反対の意志はさらに拡大・強化されました。
 しかし「勝てる選挙に勝てなかった」との思いの中で,一個人としてはまだまだやり残したこともあった…という反省の念にかられます。過去において,わずか3.5票差で当選できなかったという苦い経験があります。そしてその時,運動にかかわった多くの人々が,それぞれに自責の念にかられたという経験があります。以来,常に「悔いを残さないように」を念願してきたはずです。勝利していたならば樫田市長が誕生し,今頃は最初の議会で所信表明が行われていたはずです。そして珠洲市民は大きな期待をもって,注目しているはずです。そうなって当然といえるような市長選挙でした。それを思えば現実との隔たりは余りに大きく,<善戦>とか<プロセスが大切>とかでは納得しえない反省点が浮かびます。まだまだやれることはあったのではないか…そんな自責の念が残ります。
 真に珠洲の将来に思いを寄せ,候補者自身とその政策を理解してもらうことができれば,あらゆる圧力をはね除けて<圧勝>して当然の選挙戦ではなかったでしょうか。そう考えると,現実は甘くはないとしても<力及ばず>と評価せざるを得ない面があります。
 第三に「実質的には勝っていた」という認識があります。不正操作がなかったならば勝っていた,という判断です。密室での不在者投票のスリ替えがあり,それが不明票発生の原因であるという説があります。選管ぐるみの不正選挙であったとしたら,いかなる場合も勝てないことになります。そしてそれを徹底的にあばかなければ,勝利はありえないことになります。とするとまさに現在は“延長戦”ということになるのでしょうか。そして結局,裁判で確定するまで試合は続くことになります。「選挙には勝っていた」という確信で,その“延長戦”を戦っていくことになります。
 一部を除いてマスコミ各社の論評は非常に好意的なものが多く,選挙後の評価も高いといえます。客観的に分析するなら当然の扱いではありますが,だからと言って樫田市長が実現するわけではありません。世論を無視した国会での自民党の暴挙さながらに,石川県の自民党県連は「明確に原発立地の可否を争点として戦い,勝った。県もこの結果を重視して,中断したままになっている立地可能性調査を再開してもらいたい」と知事に申し入れました。これに対して中西知事は「あれは勝ったといえるのか」と発言。すぐ取り消したものの,県連の熱意とのギャップもかいまみせた('93.6.17付『朝日新聞』)。しかし知事は6月16日の県議会での所信表明で調査再開の問題について「地元の一層の理解を深めていただけるよう最善の努力をする」と述べています。また「珠洲原発の電源立地は県政最大の課題であり,地元にも積極的に足を運んで理解を得たい」と,自民党県連四役に答えたと伝えられています('93.6.17付『北國新聞』)。
(7)その他の活動として
@ 石川県教育研究集会に対して
 県内の教育労働者(県教組,高教組,私学教組)による教育研究集会が,92年度は珠洲市で開催されました('92.11.4〜6)。反連協では,これまで特に県教組と高教組から物心両面での支援を受けてきていることもあって,この集会を歓迎する意味をも込めてB4版46ページのパンフを 500部作成しました。「歓迎 石川県教育研究集会」とのタイトルで『珠洲原発の経過と現状』についてまとめたものです(1部100円以上のカンパを要請したのですが,残部を高教組に買い取ってもらい,ほぼ採算がとれました)。
 なお,以上のような経過もあって日教組の雑誌『教育評論』(93年2月号)の「プルトニウムと子どもたちの未来」という特集記事への寄稿の依頼があり,珠洲原発の現状について報告しました。
A 寺家・高屋との交流
 反連協独自の活動としては寺家の「自然を護る地権者の会」と若干の交流を持った程度でした。
(8)最後に
 この一年を顧みて,私たちの運動があくまでも原発阻止にこそ,その中心があることを考えるなら,市長選挙には勝利できなかったものの原発阻止をめざす運動は決して後退してはいないし,むしろ市長選挙をとおしてより強固なものとして市民の間に定着してきたことを積極的に評価する必要があります。そしてこれは,市長選挙そのものの評価とは別の次元でとらえるべきであろうと考えます。私たちの目指す原発阻止を願う輪は,確実に質・量ともに発展してきています。そしてこの力量を背景として,自信をもって事前調査の再開や新たな推進策動を実力でもって排除していくことが可能であると判断します。
 この一年,一部単組の組織的な脱落がありながらも,終始反連協の活動を積極的に支えてくれた珠洲地区労センター及び社会党珠洲総支部に対して,心から敬意を表します。また,物心両面にわたって反連協を支援してくれた石川県評センター,石川県高等学校教職員組合に深く感謝します。
 そして同じ珠洲の地にあって,原発反対の運動を積極的に担っている多くの市民グループ,ネットワークに対して心から敬意と感謝と連帯の意を表します。珠洲原発阻止という一点において目標を共有する限りにおいて,必ずや一致団結した力で,その目標は達成できるものと確信します。そして,そうした確信をより一層強くすることができたのがこの一年のたたかいであったと言えるでしょう。
 この一年の活動をふり返るとき最後に,最大の感謝の意を樫田凖一郎氏に捧げなければなりません。1993年2月1日のあの尊い所信表明に始まる77日間,そのすべてが私たちにとって貴重な財産となったことを確認したいと思います。

  反連協のあゆみ