反連協のあゆみ 
7 選挙無効裁判闘争とやり直し市長選挙
1993年度の活動
 1993年度の珠洲反連協の第16回総会は,1993年6月21日(月)に珠洲労働会館で樫田凖一郎,鍵主政範氏らを来賓に迎えて開催されました(出席代議員:36名)。

1 活動方針(略,以後03年度まで原本でも略しています)

2 93年度の経過

(1)プルトニウムをめぐる情勢
 1993年10月3日,敦賀で「止めよう もんじゅ93全国集会」があり,5000人が参加しました。主催者を代表して,高木仁三郎さんが,「もんじゅは,暴走,爆発の危険性がある原発です。そのうえ,核兵器に転用できるプルトニウムを増殖することで,六ヶ所村の再処理工場とともに世界の懸念を集めています。この反対運動は,世界の流れに反した日本のプルトニウム政策の撤回を求めるものです」と訴えました。
 しかし,動燃(動力炉・核燃料開発事業団)は,翌年4月5日,高速増殖原型炉「もんじゅ」(出力28万kW)の初臨界を強行しました。
 高速増殖炉は,プルトニウムと燃えないウランを燃料に使い,燃やした量より多くのプルトニウムを増殖させながら発電するので,かつては“夢の原子炉"と呼ばれました。しかし,その原型炉である「もんじゅ」は,耳かき一杯で数十万人を殺す猛毒のプルトニウムを燃料に使い,チェルノブイリ原発のように暴走しやすく,核爆発を起こす危険性があります。水に触れると爆発するナトリウムを冷却材に使うので,大火災が発生しやすいし,増殖するプルトニウムは,大変高純度で,核兵器にはうってつけです。この高速増殖炉によるプルトニウム利用を,早くから推進して来た米英独仏では,実験中に深刻な事故が頻発し,経済的にも採算が合わず,わりにあわないため断念し,安全なエネルギーの道を進み始めています。
 ところが日本は,まだ,この危険な路線を追及しようとしています。その結果,日本が原爆材料であるプルトニウムを大量に保有することになるため,世界中から核武装の強い疑惑をもたれており,政府も弁解に困っいます。今こそ,すべての生命を脅かす,危険でむだな「もんじゅ」の運転を,即刻凍結させるべきです。

(2) 放射性廃棄物問題をめぐる情勢
① 1993年4月1日,旧ソ連が,30年間にわたって北極海や日本海に大量の放射性廃棄物を捨てていたことを,ロシア政府の委員会が2月にまとめた報告書で明らかになりました。日本近海だけでも原子力潜水艦原子炉2基を含む液体・固体の放射性廃棄物が大量に捨てられており,放射能量は,合計700兆ベクレルにも及ぶといいます。この無謀な投棄に,全漁連などが,農水省や科学技術庁などに,ロシア政府に放射性廃棄物の海洋投棄の即時停止を求める要望書を提出しました。
② 放射性廃棄物は,原発や再処理工場の日常的運転によるものの他,高レベル廃棄物の処分問題やガラス固化の問題,95年にフランスから戻ってくる高レベル放射性廃棄物の問題,近い将来現実になる廃炉廃棄物の問題など広範な問題をかかえています。「トイレのないマンション」といわれる原発のつけが,ここに来て,いっきに噴き出したようです。

(3)能登原発をめぐる情勢
① 1967年に北電が原発建設計画を公表してから25年経た1992年11月2日,400名が現地で集会・デモをする中で,能登(志賀)原発1号機の試運転が始まりました。11月21日の初臨界にも羽咋で700名,珠洲で500名が抗議の集会・デモを行いました。
② 1993年5月24日,北電が志賀・富来町に2号機(ABWR,130万kW)の増設を申し入れました。
 これに抗して,志賀町住民らで作る「志賀町子どもたちの明日を考える父母の会」が,1号機の運転中止及び2号機計画の凍結を求める署名運動を展開。町内全戸を訪問し,半数以上の2500世帯から5000名の署名を集めました。さらに,県内各市町村でも集めた8万2427人の署名と要望書を,6月21日,中西知事に提出しました。
 要望書によると,「廃棄物処理や事故対策費に膨大な費用がかかる原発は,次世代に深刻な影響を残す。能登沖地震の不安もあり,原子力防災計画の見直しが必要」とし,
 (ⅰ)防災対策と事故対策ができるまで1号炉の営業運転を見合わせる。
 (ⅱ)原子力発電の安全が確認されるまで2号炉の計画を凍結する
の2点を,北陸電力に申し入れるよう求めています。('93.6.22付『朝日新聞』)
③ こうした声を無視するかのように,北電は,7月30日,能登(志賀)原発1号機(沸騰水型軽水炉,54万kW)の営業運転を開始しました。
④ 9月24日,志賀町議会が,12月3日には,志賀町区長会も,能登(志賀)原発2号機の増設推進を決めました。
⑤ 1988年12月1日,金沢地裁に提訴してから4年10ヵ月にわたった能登原発差し止め訴訟は,1993年9月29日,結審しました。原告側は,最終弁論で幅広く危険性を陳述し,主張を締めくくりました。
 公判後開かれた報告集会では,弁護団から「民事訴訟を選択して,原発について住民の主張を最大限展開できた。地裁は,原告の切実な叫びを真摯に受け止めて勝訴判決を出してほしい」という訴えがありました。最後に,「原告勝訴を確信するが,今の司法のもとでは楽観できない。二審への準備も含め,止めるまで頑張ろう」と誓い合いました。

3 珠洲原発をめぐる情勢

(1)原発立地推進の動き
① 不正選挙で当選証書を渡された林氏ですが,「一票差でも勝ちは勝ち,電源立地の推進に努めることが民主主義だ」という,恥も外聞もない声に押されてか,1993年6月議会の冒頭,「電力会社に,一日も早い時期に調査を再開するよう要請した」と述べました。また議会の「エネルギー対策特別委員会」の名称を「電源立地推進特別委員会」に変更し,あくまでも原発推進のために努力する委員会という本音をあらわにしました。
② 9月議会で林市長は,「要対策重要電源立地地点指定によって国からの支援体制が確立されるので,本市の電源立地推進に大きな弾みがつくものと期待している」と述べ,最終日に「原発立地促進に関する決議」を可決しました。
 また9月県議会と同時に,寺家の移転先用地の地質調査が予算化されました(県・市600万円ずつの補正予算,計1200万円)。
 議会の「原発立地促進決議」を受け,1993年11月21日,珠洲市主催で2000名動員の「珠洲原発立地推進総決起大会」が開催されました。記念講演をした竹村健一氏は,原発の温排水で温水プールを作って経営しているところがあると,事実無根のことを放言し,顰蹙をかいました。
③ 中西知事は,1993年6月議会で,自民党の代表質問の珠洲原発の推進に対する答弁で「いわゆる凍結ということではなく,積極的に乗り出さねばならない」と述べ,可能性調査の再開に意欲を示しました。また,「場合によっては直接珠洲に足を運ぶことも考えている」とも述べました。
 9月16日,中西知事は,林市長らの案内で蛸島の「鉢ヶ崎リゾート」の視察を目的に珠洲市にやって来ました。知事は,蛸島公民館で町民との懇談の席上,「鉢ヶ崎リゾートを日本一のリゾートにしたい」と発言し,原発問題については,触れませんでした。この知事の現地視察を珠洲・輪島の市民約200名で迎え,「原発反対!」の声を上げました。10月4日,中西知事が,予算特別委員会の席上,答弁不能になり退席,入院し,12月議会を欠席し,1994年2月2日に亡くなったのは,このときの疲労が影響したのではないかと懸念されます。 
④ 自民党は,政権末期に,珠洲原発を「要対策重要電源」に指定しましたが,自民党県連も12月18日に珠洲入りして調査再開を確認し,12月24日,関西電力に調査再開を要請しました。
⑤ 関西電力は,この間,立地可能性調査の再開に向けて努力し,年明けにも調査再開をする手筈を整えていたようですが,中西知事が死に,知事選挙で「珠洲原発は,可能性調査も含め現状では困難」という谷本知事が誕生し,足踏みせざるを得ない状況にあります。
 中電も移転対象家屋の移転予定地のボーリング調査の実施に,県・市に予算を付けてもらいましたが,反対する地権者の抵抗に合い,調査できないでいます。しかし,駐在員たちは,ひそかに土地の賃貸契約を取り付ける中で,沈黙料も払っているそうで,油断はできません。

(2)反対運動の状況
① 「不正選挙を糾明する会」(代表:国定正重)に反連協・ネットワークが結集し,取り組んで来ました。1993年4月28日,珠洲市選管に,1137名が「選挙無効」 の異議申し立てをしましたが,5月28日,不当にもこれを却下されました。
② 6月16日,県選管に対して,1321名が「選挙無効」の異議申し立てを行い,8月26日に9名が不正・違法な選挙の実態を意見陳述。8月30日,県選管が,県庁で投票用紙の枚数を確認した結果,珠洲市選管が報告した票数と16票の食い違いが判明し,市選管の杜撰な開票・点検ぶりが再確認されました。樫田票が16票抜かれており,開票とその後の点検の中で,票が不正に操作された疑いが強まりました。
 それにも拘わらず,県選管は,11月30日,審査申し立てを棄却しました。裁決は,「有効票を含めてすべての数え直しをすべきだった」と珠洲市選管の管理執行上のミスを指摘しており,不在者投票を中心に無効または無効の可能性がある票が最大359票もあるとしながらも,「選挙の結果に異動を及ぼす虞はない」と,棄却しています。
 しかし,この裁決書で,「樫田凖一郎の有効投票の記号式投票で効力決定用紙に100枚と記載されている1束が,実際の枚数は84枚であることが確認された」事実は重大です。市選管で何度も数え直し,法的に確認され,100票として効力が決定していた1束が,16票も減っていたのは,誰かが,どこかで抜き取ったとしか考えられません。
 また,県選管は,8月30日の確認で投票総数を17,510票と数えていたことも明らかになり,これで,確定した投票総数は,
  17,528票(4月18日)
  17,517票(4月20日)
  17,526票(県選管への報告)
  17,510票(8月30日)
と4回も公表されたわけで,疑惑は深まりました。
③ 12月24日,珠洲市民2191人(その後2200人になる)が,選挙無効を訴えた審査請求を棄却した県選管を相手に,裁決の取り消しと選挙無効を求める訴訟を名古屋高裁金沢支部に起こしました。そして,1994年2月16日に第1回弁論,2月28日に第2回弁論を行う中で,市選管が裁判所に出そうとしない選挙人名簿や不在者投票関係書類を出させて来ました。3月28日に第3回弁論,5月16日に第4回公判があり,5月27日の第5回公判から証人調べの本格的裁判が開始されます。
④ 「不正選挙糾弾」を訴えながら,事前調査の再開阻止を目指して,集会デモも行ってきました。
・ 4月24日 「不正選挙糾弾」の集会・デモ
・ 5月12日 「事前調査再開阻止・疑惑選挙糾弾」の集会・デモ
・ 6月30日 「事前調査再開阻止」高屋集会・デモ
・ 9月16日 中西知事の蛸島視察に「原発反対」の抗議行動
・11月13日 「事前調査阻止・不正選挙糾弾」珠洲集会・デモ
 珠洲原発反対ネットワーク・珠洲地区労センターの主催で,県評センターの支援を受け,寺家でのデモ行進(400名)から始まり,蛸島漁協前で1200名の集会を開催しました。その後正院までデモ行進しましたが,多くの市民が参加し,熱気溢れる中,調査阻止と不正選挙糾明の意志を確認できました。
⑤ 衆議院選挙では,珠洲原発反対を掲げた,珠洲市出身の新人鍵主政範氏を,珠洲原発反対ネットワークで支援決定し取り組みました。
⑥ 1994年1月9日からは,3年4ヵ月ぶりに,珠洲原発反対ネットワークと反連協による,高屋の調査再開阻止を目指した監視活動を再開しました。そして,3月の知事選の期間中も続けました。
⑦知事選挙では,反対派がそれぞれに力を出し合い,珠洲原発は「現状では困難」という谷本氏を応援し,当選させました。
⑧ 「原発白紙撤回」の申し入れも行って来ました。
 1993年 6月14日 市議会に請願書提出(反連協)
   7月 1日 市長に申し入れ(反連協・ネットワーク)
   9月 市議会に原発反対の立場の学者による学習会を開催に関する請願
        (止めよう原発飯田住民の会)
   10月19日 珠洲電源開発協議会に申し入れ(反連協)
   12月 6日 市議会に請願書提出(反連協)
   12月24日 県に申し入れ(反連協・ネットワーク)
 1994年 1月17日 市長に申し入れ(ネットワーク)
   2月28日 県に申し入れ(反連協・ネットワーク)
   3月29日 関電・中電に申し入れ(反連協・ネットワーク)

4 反連協の取り組みと経過

(1)衆議院選挙への対応
 1993年の不正な市長選から間もない衆議院選挙でしたが,反連協は,社会党・県評センター・珠洲地区労センターなどの推す鍵主政範氏(社会党公認)を応援し,少なくとも珠洲における圧勝を目指して取り組みました。鍵主氏は,「原発はいらない」 「能登の大自然と人間の共生を」政策に掲げており,「珠洲原発阻止」を明言していました。
 珠洲では,社会党珠洲総支部が中心になって,選挙戦が戦われましたが,反連協も珠洲地区労センターと連携し,集会や総決起集会に参加することはもとより支持者拡大につとめました。
 1993年6月23日,反連協も珠洲原発反対ネットワークの会合に参加し,鍵主氏の支援を決定しました。社会党の原発政策に揺れがあり,市民の中には,不信感もありましたが,政党ではなく,珠洲原発反対の主張を認めて,決定したものでした。そして,選挙運動の一環として,選挙期間中,4月の珠洲市長選挙の不正疑惑を市民に知らせる集会を各地で行いました。
 結果は,鍵主氏が,珠洲でトップの瓦氏に,わずか62票差に迫る善戦でした。
[投票総数]
  鍵主 政範 (社新) 5,563    瓦  力 (自前) 5,625
  坂本 三十次(自前) 3,810  黒崎 清則(共新) 165
 珠洲市・内浦町・輪島市では,前回の高橋美奈子氏の得票より増大しました。今回の選挙は,突然の解散で,鍵主氏にとって,準備部不足でしたが,「原発阻止!」の訴えが,珠洲市のみならず,隣接する内浦町や輪島市にも共感を呼び,得票の増大に結び付いたといえます。全国的な社会党の逆風の中でのこの結果は,特に,注目に値します。

(2)市長選挙無効を求めて
 1993年4月の不正極まりない市長選挙の無効を求める訴訟が,12月24日に起こされました。「不正選挙を糾明する会」が中心になって市民に呼びかけたところ2000人を越す人が原告団に加わり,人の輪は広まる一方です。この「不正選挙を糾明する会」の事務局8名に,反連協から国定市議を含む3名が加わっていますし,地区代表者会議にも,反連協役員が多数加わり,運動を積極的に担って来ています。珠洲地区労センターにも要請し,共に,裁判の傍聴も行って来ています。
 1994年2月16日に第1回弁論が始まり,以降,2月28日,3月28日,5月16日と公判が続きました。これらの公判を通して,珠洲市選管の出し渋る選挙人名簿や不在者投票関係書類を出させてきました。しかし,まだ出し渋っている書類もあるようで,さらに追及していかねばなりません。「不正選挙を糾明する会ニュース」も,当役員の柳田副会長が,1号('94.2.7),2号('94.2.21)と発行し,新聞に折り込みました。紙上で呼びかけたカンパも,多数の市民から寄せられています。
 選挙関係書類からは,有権者数の間違いや,投票しないのに,投票場で投票したことになっている事実などが明るみになっています。今後の調査で,さらに不正疑惑が出て来そうで,追及の手を緩めるわけにはいきません。百日裁判になっており,今後公判のピッチがあがると考えられます。短期決戦の構えで取り組む必要があります。
 93年9月から翌年3月にかけて,不正選挙に関して開催した集会や講演会は,次の通りです。9/6,10/9,2/7,3/11。また,地区代表者会を12/9,12/17,1/13,1/18,1/27,4/23,5/15に開催しました。この他,事務局会議を,10/31,1/21,3/1,3/9,4/6,4/17,5/2,5/12に開催しました。また金沢(北尾法律事務所)で弁護団会議が,2/4,4/11,4/22,5/10,5/20に開催されました。

(3)各種団体との交流
① 珠洲原発反対ネットワークへの参加
 反連協は,原発に反対する市民グループとの交流を求めて平均月1回開かれる珠洲原発反対ネットワークの会合に,欠かさず参加して来ました。1993年6月27日の会合では,珠洲出身の鍵主氏の支持を決めましたし,1994年3月4日,11日には,知事選挙への対応を協議しました。そのほかのときは,事前調査への対応や不正選挙の裁判への取り組み,寺家・高屋現地の情報交換などをして,交流して来ました。参加した会合は以下の通りです
 1994年 6/27 6/29 7/26 9/14 10/24 11/20 12/9
 1995年 1/8 3/4 4/25
② 反核アジアフォーラム・珠洲交流集会('93.6.30)
 6月30日,高屋の円竜寺で,インドネシア・韓国などで原発に反対している人達と交流をもちました。東南アジアや東アジアでは原発の建設や計画が相次いでおり,海を隔てているとはいえ,放射能による大気・海洋汚染は国境を越えます。連帯して反核・反原発を戦って行かなければならないと感じました。
③ 東京教組「原発現地調査」一行との交流('93.10.9)
 10月9日(土),東京教組一行がバスで,やって来ました。午前9時,羽咋市役所前で梶・砂山が合流し,県評センターの多名賀哲也さんと一緒に能登(志賀)原発を視察し,赤住の橋菊太郎さんを訪ね,交流しました。
 この後,穴水で昼食を取り,珠洲入り。午後2時頃から中央公民館で,反連協の河岸会長に,反原発運動の話をしてもらい,その後,市長選を戦った樫田先生に話をしてもらいました。一同,すさまじかった不正選挙を戦った話に圧倒されていました。
 この後,高屋の円竜寺で,現地で戦っている竹中・井上・塚本さんの話を聞きましたが,味わい深い話でした。曽々木の民宿の魚も新鮮で,一同感動していました。
④ ピースサイクルとの交流
 5月2日から3日にかけて,大阪からピースサイクルの一行がやって来ました。5月2日の夜は,蛸島のむろや民宿で,北野県議の話,反連協の砂山・柳谷が話をし,質疑応答など意見交換をしました。そして,反核・反原発の意志を固めあいました。翌3日は,午前7時30分に蛸島漁港で河岸反連協会長,樫田先生,漁協婦人部長の森下さんなどから激励の言葉を受け,一行は自転車で出発しました。反連協からは役員4人が街宣車に乗り,輪島の千枚田まで随行し,交流を深めました。

(4)情宣活動
① チラシの折り込み
1993. 7.30 反連協・7月号チラシ
    8.15 反連協・8月号チラシ
   10.27 「10.26反原子力の日」チラシ
   11.11 「11.13集会」案内のチラシ
   12. 7 反連協・12月号チラシ
1994. 1.16 反連協・1月号チラシ
    2. 7 「不正選挙を糾明する会」1号チラシ
     2.20 「不正選挙を糾明する会」2号チラシ
    4.29 反連協・4月号チラシ
② 街宣活動
1993.10.24 「10.26反原子力の日」の街宣
    3. 6 高屋の小屋まで街宣
    3.15 高屋の小屋まで街宣
    3.29 「3.28スリーマイル島原発事故15周年」の街宣
    4.24 「4.26チェルノブイリ原発事故8周年」の街宣
③ 看板の整備
 正院町川尻の看板が3年まえからなくなっていたのを,1994年1月9日,再設しました。寺家上野の看板も知事選挙で間延びしていましたが,4月5日から12日にかけて整備し,新しい絵の看板に新調しました。

(5)集会やデモの組織化と参加
 1993. 6.30 「事前調査阻止!」高屋集会・デモ
     7.30 「能登(志賀)原発1号営業運転抗議集会」
     9.16 中西知事の蛸島視察に抗議行動
    10. 3 「止めよう,もんじゅ全国集会」
    11.13 「事前調査阻止・不正選挙糾弾」珠洲集会
    11.17 能登(志賀)原発1号機の核燃料輸送反対行動
 1994. 1.30 能登原発差し止め訴訟勝利!」原告団集会

(6)県・市・電力への申し入れ
1993. 7. 1 反連協・ネットワークで市長に申し入れ
   10.19 珠洲電源開発協議会への申し入れ
   12. 6 12月市議会に「原発白紙撤回」請願書を提出
1994. 2.28 県知事への申し入れ(反連協とネットワークで)
    3.29 反連協・ネットワークで関電・中電への申し入れ

(7)石川県知事選挙への対応
 連合対自民の選挙として注目を集めた知事選挙でしたが,珠洲原発を現状では困難という谷本氏を推して戦った甲斐があって,当選できたことは画期的な出来事でした。当選後も,「珠洲原発反対に慎重に対処する」と言っている事は,評価できます。しかし,止めるのは,私達市民です。楽観せず,来春の統一地方戦挙に勝利し,さらに。反原発で市民が合意していることを示さなければなりません。
1994年度の活動
 反連協第17回定期大会は,2004年5月25日(水),労働会館2Fで行われました。
 来賓には鍵主政範社会党県本部書記長,北野進県議ら5名をお迎えし,33名の代議員の出席を得て無事終わりました。
 94年度後半には,95年4月の統一地方選を控えており,中身の濃い運動をすすめていくことを確認しました。

1 94年度の経過
(1)阪神・淡路大震災による原発の安全神話の崩壊
 1995年1月17日,午前5時46分,死者6425人を超す阪神・淡路大震災が発生しました。
 地震列島日本のこわさ,文明のもろさを見せつけ,これまで,「関東大震災級の地震にも耐えられる」と言っていた原発の安全神話も,高速道路や新幹線の高架橋脚などが次々と倒れ,崩れ去りました。
 日本は,地震大国で,長い経験の上に耐震技術を開発し,道路や建物の耐震設計基準は世界最高水準と言われて来ました。しかし,阪神大震災の「横揺れ」は神戸市で最高値833ガルを記録し,関東大震災(約300~400ガル)の2倍を超える激しいものでした。
 日本の原発49基の耐震設計基準によると,静岡県の浜岡原発3号・4号の600ガルが最高で,能登(志賀)原発でも490ガルしかありません。これでは,阪神大震災級の地震に襲われたら,日本中の原発が耐えられないことになります。
 さらに,運転開始から20年以上経つ老朽化した原発の問題もあります。稼働中の原発49基のうち,少なくとも20基は,耐震指針が初めて決まった1978年より前に設計されています。阪神大震災で耐震工学の安全神話が崩れた今,これらの原発の運転を止め,安全審査をやり直すべきです。
この大震災で,原発立地自治体では,「原発の耐震性」や「原発防災計画」への信頼性が揺らぎ,住民の間に不安が広がっています。今こそ原発を止めて総点検したり,事故対策・避難対策の確立,耐震設計の根本的な見直しをする必要があります。

(2)海外から返還される放射性廃棄物の問題
 日本の原発の使用済み燃料が再処理されたときに発生する,高レベル放射性廃棄物(28本のガラス固化体)をフランスから運んで来た輸送船「パシフィック・ピンテール」(英国籍・5,080トン)が,1995年4月25日,青森県六ヶ所村のむつ小川原港に到着しました。
 高レベル放射性廃棄物ガラス固化体28本が,六ヶ所村の日本原燃・廃棄物管理施設に運び込まれました。この核のゴミを30年から50年間貯蔵して,放射能を冷ました後,安定した深い地層に最終処分する計画ですが,高レベル廃棄物の放射能は非常に強く,数十万年たっても毒性が残ります。そんなに長期の安定性が保証される地層はどこにもなく,最終処分地が決まっていないので,青森県では「なし崩し的に居座られるのではないか」という懸念が根強いのです。
 今回の核のゴミは,返還予定数の1%にも満たないし,科学技術庁の「知事の了承なしに高レベル廃棄物の最終処分地にすることはない」という確約文書が認められるならば,日本中のすべての自治体が拒否する可能性が高く,六ヶ所村がそのまま最終処分地になってしまう可能性は否定できません。
 高レベル廃棄物を,誰がどこでどのような手法で処分を行うのか,何も決まっていない現状です。最終処分のめどもないまま,今後,10数年間,毎月のように英仏から3千数百本の高レベル廃棄物が還って来ることになります。危険な放射能の輸送をやめさせるためには,再処理そのものをやめさせることが必要です。

(3)核不拡散条約(NPT)の無期限延長と核の商業利用の問題
 加盟178カ国によって,1995年4月17日からニューヨークで開かれていた核不拡散条約の再検討・延長会議は,5月11日に国連本会議場で全体会議を開き,条約の無期限延長を全会一致で採択しました。
 ところで,核拡散は,原子力の商業利用とも密接に結び付いています。NPT再検討・延長会議で採択された付属文書に,「兵器用核分裂物質の生産禁止条約の早期合意を達成する」というのがありますが,原発の使用済み燃料からのプルトニウム抽出(再処理)と高濃縮ウランの製造を中止し,核兵器物質の源を断たない限り,核拡散防止は尻抜けになってしまいます。日本やヨーロッパの民事プルトニウム政策に刺激され,多くの国が再処理へ向かうとき,核拡散を止める手だてがなくなります。
 プルトニウムの商業利用は,経済的にも,エネルギー利用面から見ても,正当化する理由は今見当たりません。核兵器製造可能物質のプルトニウムやウランの全面的生産禁止を視野に入れた,「核兵器禁止条約」へと進むことが,有効かつ現実的な核廃絶への道です。よって,今こそ原発から撤退すべきです。
 原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)の「基本原則」には,「この運動は,核の商業利用が核の軍事利用と一体のものであり,新たな核被害を作り出していることに注目し,“核と人類は共存できない”との核告発を続ける」という言葉があります。
 広島・長崎の被曝を経験し,非核三原則(核兵器を作らず,持たず,持ち込ませず)を国是とする日本は,核拡散防止,核兵器廃絶によって,世界平和を目指すべく,足下の原発を即刻止めるべきです。原発は,「核の平和利用」ではなく,「商業利用」にすぎず,「軍事利用」に道を開くものです。脱原発こそが,世界平和への道なのです。

(4)能登(志賀)原発をめぐる情勢
① 能登(志賀)原発1号機(沸騰水型軽水炉,出力54万kW)は,1992年11月2日に試運転を始め,同年11月21日に初臨界,1993年7月30日に営業運転を開始しました。
 1号機の防災対策・過酷事故対策もできていないのに,北電は1号機の営業運転前の1993年5月24日,志賀・富来町に2号機(ABWR,130万kW)の増設を申し入れました。そして,9月24日,志賀町議会が,住民の声を十分反映させず,能登(志賀)原発2号機の受け入れを決議しました。
② こうした動きを受けて,北陸電力は,1994年7月1日から能登(志賀)原発2号機の増設を前提にした海洋調査を開始しました。これに抗して,石川県評センターと社会党県本部,地元住民団体は,6月30日早朝,志賀町赤住の団結小屋前に,300名もの人が集まり,2号機増設撤回・海洋調査中止を求める集会を開きました。そしてデモ行進し,能登(志賀)原発の正面ゲート前で,増設計画の白紙撤回を求める申し入れ書を北電側に提出。さらに赤住地内を,増設反対を訴えて行進しました。
③ 1994年7月6日,石川県は,能登原発の緊急時に備える原子力防災訓練を,志賀・富来・田鶴浜・中島の,周辺4町で実施しました。これは,92年6月,1号機の試運転前に行われたとき以来で,2回目でした。また,運転開始後では,初めてでした。
 この日,石川県評センターや県自治労は,120名が監視・調査活動を行いました。監視班は,通信連絡,環境モニタリング,緊急時医療と除染,防災無線や広報車による広報,屋内退避やヨウ素剤搬送など15項目の訓練をチェックしました。
 高浜地区で実施した住民からの聞き取り調査には,387人が回答し,個別受信機の広報は,「よくわかった」人が56.3%,「不徹底,聞けなかった」人が43.7%という反応でした。2号機の増設には53.5%が反対で,7割を超す人が直接町民の意思を問うよう求めていました。
 今回の訓練は,谷本知事の熱意に反して,緊迫感の欠けるものでした。
④ 1994年8月25日,北陸電力を相手とする能登(志賀)原発1号機の運転差し止めを求めた民事訴訟の判決が,金沢地裁において,5年9カ月の審理を経て下りました。結審から11カ月を費やし,不当にも請求棄却の判決でした。
判決は「定検の効果を過大視するのは危険」としましたが,皮肉にも定検を8月11日に終えたばかりの能登原発が,判決翌日26日の早朝,2台ある再循環ポンプの1台が自動停止する事故を起こしました。北電は,安全に問題はないと低出力運転を続けましたが,原因を特定できず,同日夕手動停止に入り,27日原子炉を停止しました。
 知事は「今回のような例では運転停止を求める」と言い,国に関連データの公開を文書要請しました。これは,一歩前進でした。県は,この事故に鑑み,能登(志賀)原発2号機の増設方針を見直す必要があります。
⑤ 8月31日,能登原発差し止め訴訟原告団は,名古屋高裁金沢支部に,札幌から水俣まで半径780kmに及ぶ18都道府県199名の原告で控訴しました。控訴審への取り組みは,8.26再循環ポンプ事故の原因究明と公開,運転マニュアル,定検,トラブルの通報や広報体制など,実際に出て来た問題を重点に置くことは勿論,1995年1月27日の阪神・淡路大震災による原発の安全神話の崩壊も,論拠にしていくことになりました。
⑥ 1995年4月28日,能登原発差し止め訴訟の控訴審第1回口頭弁論が,名古屋高裁金沢支部(笹本淳子裁判長)で開始されました。

2 珠洲原発をめぐる情勢(推進のうごき)

(1)石川県の動き
① 1994年5月31日,発表された県の6月補正予算案で,珠洲原発関連の予算はゼロでした(昨年同時に国の「要対策重要電源」地点に指定された志賀原発2号機には,県独自の海域環境調査費5250万円,温排水を利用した栽培漁業・温室栽培・「海釣り公園」など,合計1億円余りが計上されました)。
 珠洲原発の補正ゼロは,「地元から要望がなかった」こともありますが,3月の知事選挙で示された,珠洲原発に対する地元の反発が,谷本知事に「住民合意は得られていない」と判断させ,県予算に現れたといえます。
② 6月15日,「珠洲原発推進調査研究会」(下兼茂雄会長,会員2040人)が,谷本知事を訪ね,珠洲原発の立地推進・調査再開を陳情しましたが,知事は,「住民合意を得るよう」地元の協議を促しました。
③ 6月22日の6月県議会・予算特別委員会で,上田県議が,珠洲原発の調査再開を質問したのに対して,谷本知事は,「珠洲原発の住民合意はない。調査をすれば立地につながるという疑心暗鬼を招く,対立と不信がある」と,調査再開に慎重な姿勢を示しました。
④ 9月2日,県が発表した9月補正予算案で,6月補正予算には計上されなかった珠洲原発関連の予算として,電源立地地域振興基金で,珠洲市寺家・下出集会所建設助成に2412万2000円が盛り込まれました。そして,9月議会で可決されました。
⑤ 9月8日,県が,96年秋に県内で開く「第16回全国豊かな海づくり大会」の会場を蛸島漁港に決定したと発表しました。「海づくり大会」は,水産資源の維持培養や海の環境保全への意識高揚を図り,水産業に対する認識を深める国民的行事として毎年開催されているものです。1994年11月20日には山口県長門市の仙崎漁港で開かれ,1995年は宮崎県が開催県となっています。
 蛸島開催は,1993年9月16日,故中西陽一前知事が,鉢ヶ崎リゾート計画地の視察で珠洲入りした際,蛸島漁協などの誘致の陳情を受け,前向きな姿勢を示していました。しかし,大会には,天皇・皇后も出席するため,警備上の問題などから,反原発運動が続く珠洲市での開催は難しいとの見方が有力でした。
 その点に配慮して,蛸島漁協は,8月末に漁協前の看板の「珠洲原発絶対反対」の文字に覆いをし,大会誘致実現へ柔軟な姿勢を打ち出していました。
 1994年9月8日,記者会見した西村徹農林水産部長は,蛸島漁港での開催決定は,「用地や交通,海洋などの条件を総合的に勘案した」結果と理由を説明しました。また,珠洲原発反対運動と大会開催の兼合いに関する質問に,「原発問題とは切り離して考えている」と述べました。

(2)珠洲市の動き
① 1994年6月21日,6月市議会で,林幹人市長は,珠洲原発について「地域振興に大きく役立つもので,安全性を最優先に隣接市町村の協力を得て立地に努めていきたい」と,改めて立地に意欲を示しました。
 これを受けて,新田滋(自民)・国定正重市議(珠洲市民会議)らが一般質問に立ち,「谷本知事が,珠洲では住民合意が得られていないと述べているが,市長はどう認識しているか」と質しました。これに対し,林市長は「先ごろ知事と話し合ったが,知事は,原発計画の白紙撤回や凍結はしないが,現状では住民合意はできていないと話された」と打ち明け,「住民合意を得るため多くの市民と対話を重ね,理解を深めてもらう」と,強調しました。
 さらに,国定正重市議は,「谷本知事が,住民合意形成の判断基準として,関係漁協の同意・建設用地の確保・関係団体の動向・反対運動の状況・選挙結果の5項目を上げていることについてどのように評価,把握されているか」と質すと,林市長は「いずれも原発の建設同意を得るために必要なもので,最大限の努力を払いたい」とし,「第4次市総合計画の実現のためにも,原発の立地促進が重要」と述べました。
 また,国定正重市議は「原発問題を凍結して」,新谷栄作議員(珠洲市民会議)は「原発問題を一時棚上げにして,珠洲市に豊かな海づくり大会を誘致しよう」と提案しましたが,林市長は「豊かな海づくり大会については,原発の問題を棚上げとかいう話ではなく,原発を推進していきたい」と述べました。
② 9月8日から21日まで9月市議会でしたが,初日に96年度の「全国豊かな海づくり大会」を珠洲市蛸島漁港に開催内定のニュースが報道され,さしずめ「海づくり議会」という様相でした。
 9月14日の一般質問では,最初の質問者,鍜治貴子議員(自民)が「できもしない原発に推進だとか反対とか言ってみても仕方がない。海づくり大会は二度とない幸運な機会。市民各位に協力をお願いし,頑張るしかない」と切り出しました。
 海づくり大会の会場となる蛸島町出身の新谷栄作議員(珠洲市民会議)は,「豊かな海と原発とは全く矛盾するものだ」と質問すると,林市長は「海づくり大会と原発とは別なものと認識している。原発は,安全性を前提に一人でも多くの市民に理解を得られるよう努力していく」と答えました。
 9月21日の市議会最終日,「寺家下出地区集会所建設事業費4,824万円(県が半分負担)」を盛り込んだ,9月補正予算案を可決しました。
③ 12月9日,市議会初日,林市長は全国豊かな海づくり大会に触れ,「全市民の理解と協力を得て,関係機関と連携し,大会の成功に向け全力で取り組む」と述べました。また,「原発立地については,安全性の確保を最優先に,地元の意向を反映した新しいまちづくり構想を早期に実現し,更に多くの方々の理解が得られるよう,国・県と連携し努力する」と述べました。
 12月15日の一般質問では,落合誓子議員(珠洲市民会議)の「豊かな海づくり大会を成功させるためには,原発推進・反対の双方とも自粛すべきで,一方的に反対派だけに自粛を求めるのはおかしな話だ。原発推進の様々な工作を自粛する気はないか」との質問に,木之下電源立地対策課長が,助役のささやきを受けて,「自粛する気はない」と答えました。
④ 1995年1月12日,毎日新聞は,「電力3社と珠洲市が,原発誘致の世論作りのため,この5年間に約3億円をかけ,全市民の半分近い延べ1万938人を,471回のタダ旅行に招待していた」「他地域の原発関連施設の見学という名目で今後も続けるというが,参加者の半数近くは3回以上の常連組で,実態は,飲み食い中心の観光旅行との批判の声が強まっている」と,報道しました。
 『広報すず』号外「原子力特集」('94.10.1発行)は,珠洲市が,1994年5月15日から7月17日までに,1泊2日の日程で(日・月曜日に),柏崎・刈羽原発と大飯原発の視察旅行を一般公募したところ,柏崎・刈羽156名,大飯126名,計282名が参加した状況を載せています。この視察旅行に初めて参加した人は90人(31.9%)にすぎず,2回目が90人(31.9%),3回目以上が102人(36.2%)と常連組が多くいました。毎日新聞の記事にある参加者の声のように,「タダで,色々なところを観光できるのだから参加しないと損。勉強だけの旅行ならだれも行かない」というのが本音だろうと思います。
 しかし,こうした“飲ませ食わせ"の慰安旅行に,5年間で3億円もつぎ込むのは,税金の大変な無駄遣いです。また人心を荒廃させる元です。市は,いいかげんに止めるべきなのに,またぞろ5月15日に新聞折り込みを入れ,志賀原発(40人),柏崎・刈羽原発(35人),大飯原発(35人)への視察旅行を公募しています。予算消化が目的なのでしょうが,こういう慰安旅行は,地域振興策にもなりません。アメ・砂糖で住民の合意を得ようというのは,卑劣で,間違っています。恥を知って,即刻やめるべきです。 
⑤ 9月市議会でも明らかになったことですが,1994年7月5日午後,市内のM旅館で,市長と教育関係者との語る会がありました。市側からは,市長・助役,電源立地対策課の課長・課長補佐の4人が出席し,教育関係者からは,4人が参加しました。しかし,最初から,御膳に着いて飲みながら話し合うという懇親会でした。そして,三次会まで繰り出し,経費は市当局持ちでした。
 この会合に参加した教育関係者は「内密に」ということで集められたものでした。教育についてもの申す会だと思ったのに,教育長がおらず,電源立地対策課長が出席していて,「おかしい」と思った人もいたはずです。非公式に,教育関係者を呼んで,原発の「理解」を求めた会合としか思われません。
 9月議会で,落合市議が,この会合の性格と資金の出道について質問しました。市長は,参加したことを認めましたが,要領を得ない答弁でした。あまりにも煮え切らない答弁にあきれて,国定市議が関連質問に立ち,私的な会合だったのか公的な会合だったのか尋ねました。すると,木之下電源立地対策課長は,「市長と助役が参加した会合は公式です」と答えました。資金についても,「電源立地の予算を使いました」と,木之下課長が答えました。これは,まさに水面下での原発推進工作です。
 こうした手口で,市当局は,寺家の原発予定地の人達ともS荘で飲み食いを行っています。

(3)電力会社の動き
 中部電力も,寺家180世帯の理解を得るため,日夜活動しています。移転家屋の調査も,1994年8月現在,これまでの29から2戸増やし,31戸にしています。寺家の原発立地に伴う移転対象家屋の移転予定地のボーリング調査は,1993年9月議会に予算もつきながら,反対する地権者がいて,1994年1月に発注したまま施工されていません。それで,落合市議は,1994年6月議会で,「寺家のボーリングは,現状ではできるはずのない計画だから,やめませんか」と質問しました。が,何としてもやりたいという市の回答でした。  
 中電は,寺家の4地区から50数名の委員で構成されている寺家地区原子力対策委員会に肩入れし,4つの部門に分かれ,原発と共存共栄する町づくりを検討しています。ここ数年,寺家の祭りのキリコに,10万円ずつ目録を出しています。
 ところで,『トリビューン能登』('94年4月下旬号)で報道されたように,中電は,三崎町雲津の白山神社の裏山の土地を1万87㎡(約3000坪)買い取っており,何事か画策しています。反連協が,1994年8月25日,珠洲電源開発協議会に申し入れをした際,中電にこれを質すと,「30数名の社員寮を作る。機材置き場などではない」という答弁でした。しかし,『トリビューン能登』が指摘するように,寺家の事前調査の際の人夫の飯場か,それに関する作業場という可能性もあります。珠洲の土地を大量に買いあさる中電の動きは奇怪です。私達は,こうした中電の動きを監視し,珠洲から撤退させるまでがんばらねばなりません。

3 反原発運動の状況

(1)珠洲市長選無効訴訟
① 訴状の要点
1) 偽造投票,投票の追加,または抜き去り
・投票総数が,17,528票(4月18日),17,517票(4月20日),17,526票(県選管への報告),17,510票(8月30日)と4回も公表されていて,どれが本当かわからない。
・不明票を見ても,16票(4月18日),5票(4月20日),14票(県選管への報告),-2票(8月30日)と変化している。
・県選管の再点検で,記号式投票で「樫田票の100票束の中に,84票しかないものが1束あった」 「不在者投票の中身が2票不足していた」。
・以上のように,票数が二転三転し,投票用紙が一体どれだけあったのか極めて疑わしい。100票の束から16票の抜き取りも考えられる。
2) 不在者投票管理の違法性
・認めるべきでない者にも多数投票させている。
・不適当な者が立会人になり,不在者投票が多数行われている。
・不在者投票した人の投票が消えており,投票していない者の投票が存在している。
・整理票の記載が極めて杜撰で,改ざんしたものが存在している。
・不在者投票用紙の管理が杜撰で,かつ事実に反する操作がなされている。
3) 選挙人名簿での違法性
・不正転入を防止すべきなのに,林陣営と結託したかのようにこれを看過していた。
・転出入のチェックが極めて杜撰で,すでに転出している者まで登載していたり,同様に扱うべきケースを不公平に処理しているなど,選挙人名簿そのものに違法性が存在する。
4) 開票管理などの違法性
・選挙長らが立ち会わない場所に「投票録審査室」を設定し,作業していたこと。また,作業に無関係な者が入り込んで,疑惑に満ちた行動をしていた事実(テレビ報道で明白)があること。
・疑問票の扱いが,極めて不明朗であること。
・投票箱,投票録,投票用紙の残部などの受理手続きが杜撰で,立会人が同席していない。
・無効票の再点検が,樫田陣営の立会人抜きで,一方的に強行されたこと。
② 裁判の経過
1) 1994年2月16日:第1回公判
国定正重・落合誓子市議が冒頭意見陳述。70名余りの傍聴がある。
2) 1994年2月28日:第2回公判(事務手続きについて)
3) 1994年3月28日:第3回公判(事務手続きについて)
4) 1994年5月16日:第4回公判(事務手続きについて)
5) 1994年5月27日:第5回公判
  [原告側が申請した証人調べ:樫田側立会人の沢田実氏] 
・開票作業に入る前に,作業の説明が一切なかった。
・投票箱,投票録,選挙人名簿,投票用紙の残部などの受領には一切立ち会っていない。
・開票場の他に投票録審査室があることは知らされず,もとよりそこには行っていない。
・疑問票の混ざった束には「不確認」の印を押したが,その後意見は求められていない。
・不受理票の点検やその扱いについて,意見は求められていない。
・84票しかないのに「100票」と記された束があればすぐにわかるが,そんな束はなかった。
・不明票が16票もあり,会場混乱状態になった。選挙長から意見を求められたので「本日の選挙は無効」と言えばよいと具申した。選挙長はそれに従って「無効」と言ったが,即座に選管職員に「何てこと言うんだすぐ取り消しなさい」と言われ,取り消した。
6) 1994年7月1日:第6回公判
[原告側が申請した証人調べ:北野進県議]
・選挙の背景(原発問題が最大の争点であったことなど)や,林派の組織的な選挙妨害を受けたことを証言する。
・開票直後の混乱と,その収拾についての話し合いの経過と内容を証言する。
・協議を破棄し,一方的に選挙会を再開,無効票の再点検を強行した問題を指摘する。
・愛知県内在住で珠洲市に住民票を持つ夫婦が,実際には投票していないにもかかわらず,選挙人名簿では投票したことになっていると指摘し,同夫婦が投票には行っていない旨の書面を提出する。
7) 1994年7月20日:第7回公判
  [原告側が申請した証人調べ:樫田側選対事務局長の塚本真如氏]
・選挙戦全般にわたる総括的な問題点について証言する。
・珠洲市選管から提出された諸帳簿を点検すると,住民票がないのに選挙人名簿に登載されたままのもの,転入者の扱いで不公平なものがある。
・珠洲市に隣接する市町村から林組の社員ら13人が珠洲市に転入しているのを,原告らが4月8日に告発すると同日に転出した,住民票移動の事実がある。
・市役所窓口での不在者投票で,その請求書に同一の内容・筆跡のものが多く,選管職員ぐるみの疑惑がある。
・不在者投票の外封筒にも同じ筆跡のものが多く,疑惑を感ずる。
8) 1994年9月5日:林票の全投票用紙の検証
  1994年9月6日:樫田票の全投票用紙の検証
・版の作成が均一でないためか,用紙にはいくつかのパターンが存在することが判明。
・使用された投票用紙の紙質にも,いくらか異質なものがあった。
・県の裁決の通り,樫田票の効力決定用紙に100枚と書かれた束の中に,84枚の票を確認した。
・原告側は,「林票の有効票の中で300票余りを無効にすべきだ」と裁判官に指摘した。不審な林票はコピーし,後日詳しく調査することになる。
9) 1994年9月26日:第8回公判
  [原告側が申請した証人調べ:市選管職員5名と林側の選対幹部1名]
 事務処理が杜撰で,不正が介在する可能性が大きいことが明らかになる。
・選挙事務に携わる職員(臨時職員も含め)に対して,事前説明や研修がきちんとなされていなかった。
・職員の責任体制や仕事の分担があいまいである。
・他市町村・市役所窓口での不在者投票の請求に対して,書類を受理する際,殆どチェックせず,認めている。

・一度は学生と書かれた記録簿が無職と訂正されているなど,書類の書き換えが安易に行われている。
10) 1994年10月21日:第9回公判
   [原告側が申請した証人調べ:
       VTR検証,選挙長・林側の幹部2名・市職員2名,計5名への尋問]
・選挙長自身,事務処理などについての規定を熟知していなかった。
・「樫田票の100票束の中に,84票しかないものが1束あった」ことに対し,選挙長の私見は,「開票作業の流れをスムーズにするため,効力決定用紙の多数に,前もって100と記載されており,84票しかない束に,うっかりそれを載せた者がいるのだとしか考えられない」ということだった。
・選挙長らが立ち会わない3階の「投票録審査室」に開票に関係した職員が勝手に出入りしていたのは問題だが,担当でない市職員が選挙長の許可なく長時間入り込んで,しかも投票録の書き換えを行っていた。さらに,この職員は,仕事の手伝いを依頼されたというが,その内容は「記憶がない」し,ポケットに何かを入れたようなテレビの場面についても全面否定し,疑惑を募らせた。
11) 1994年11月28日:第10回公判
[原告側が申請した証人調べ:市職員1名・市選管職員1名]
 原告側は,検証の際の投票用紙のコピーの分析の結果,正規の投票用紙は活版印刷で4つのパターンが存在するものだが,4種類以上の印刷パターンが存在し,さらに活版印刷とは考えられない(オフセット印刷のよう)用紙が多数混入している疑惑があり,裁判所に全投票用紙の鑑定を申請する。また,この日の証人尋問で,次のようなことが判明する。
・3階の「投票録審査室」で投票録の再点検(投票者数・投票率の数字の確認)をするのに1分もかからないはずなのに,市職員は,朝方までいた。しかも,「投票録審査室」の責任者が誰かわからないし,ジャンパーを着た部外の職員が何をしていたのか覚えていない,と言う。
・最初の人が機械で100数え,次の人がもう一度機械で確認した100の束に効力判定用紙をつけた。投票用紙を活版印刷で作るときに使った選管のハンコは4つある。
12) 1994年12月5日,原告側が投票用紙のコピーを見たニセ札鑑定の権威である千葉大学の松本和雄教授の意見を付けた鑑定申請の意見書を裁判所に提出する。
13) 1994年12月6日,原告側が,投票用紙の鑑定申請の採用を求める署名8752人分を裁判所に提出する。
14) 1994年12月9日,裁判所が,投票用紙の鑑定申請を,原告側の過失によって申し立ての時機が遅れたと,却下する。原告団の国定正重代表は「予想すらしなかった決定で,裁判所と県選管がともに真相を解明すべき責任を放棄するもの」「2200名の原告団のほか,鑑定申請を求めた県内外の8752名の署名をも無視しており,断じて承服できない」との声明を発表する。反原発派住民からは,「疑惑は葬り去られた」「納得がいかない」「珠洲に禍根を残すのか」と怒りの声が上がった。
15) 1994年12月12日:第11回公判
 原告側は,却下された投票用紙の鑑定について,「鑑定時間を短縮してやって欲しい」と再申請すると,笹本裁判長は,「採用するかどうかを後日決定する」と言う。原告側代理人の奥村回弁護士は「内容の重要性,訴訟の流れからこの場で採用するよう求める。従前の内容を縮小しており,(9日の)決定(通知)前にも言ってあって,判断できると思う」と強く促したが,笹本裁判長は「さっき言った通り」と方針を変えなかった。その直後,田中清一弁護士が「この訴訟指揮は裁判の公正を妨げる。笹本裁判長を忌避する」と申し立てた。それに対して,裁判長が「理由なし」と簡易却下したので,原告側は,最高裁に即時抗告して閉廷した。忌避について最高裁の決定が確定するまで,審理が停止することになった(1995.2.16最高裁第3小法廷が,笹本裁判長を忌避する原告の特別抗告を「却下する」との決定を下した)。
 11回の公判は,毎回50名以上が傍聴して来たが,この日も50人余りが傍聴した。原告団長の国定正重市議は「原告2,000人と署名をしていただいた8,000人余りの人達に申し訳ない。鑑定をうやむやにしたまま結審してはならない」と訴えた。
 今後とも,この裁判の勝利を目指して,粘り強く運動して行かねばなりません。以下に活動のあらましを記載します。
 ○報告会(11/20,1/29)
 ○地区代表者会議(6/23,7/19,10/16,11/16,11/27)
 ○事務局会議(6/5,7/10,9/2,10/13,11/10,1/7)
 ○弁護団会議(6/7,6/16,8/4,10/11,11/25,12/8,12/19,1/10,2/9,3/7
5/22,6/8)

(2) 県議選 
 1995年2月18日,正院町でのネットワークの会合で,県議会議員二期目を目指す反原発の北野進氏を,県議会議員候補として推薦することを決定しました。
 北野氏は,この4年間,反原発県議として活躍することは勿論,珠洲市長選や,不正選挙を糾明する市長選無効訴訟に,先頭になって闘ってきました。1994年3月の知事選挙でも,谷本正憲候補を応援し,選挙戦2日目,蛸島漁協前で谷本氏に,「北野県議がいる限りは,住民合意はない」と言わしめました。そして,谷本知事が誕生してからは,県政与党にくみし,がんばってきました。
 3月11日(土),「北野進と歩む会」総会を,正院町西光寺で行い,100名を超える支持者が集まりました。
 3月31日(金),県議選が告示され,午前10時半,正院町の選挙事務所前での出陣式で,北野進候補は「再選を果たして,珠洲に原発はできないということを県下全域に訴えたい。原発立地だけが能登振興ではない。県議選の後に控える市議選で1議席を増やし,次の市長選につなげる大事な戦いだ」と第一声をあげました。この後,街宣カーで選挙区を巡回し,午後5時に無競争当選の知らせを得ました。
 北野氏の無投票再選は,原発推進派が2人の候補を立てられなかったからで,反原発派の不戦勝といえます。

(3) 市議選
① 珠洲地区労センターは,市議会議員の国定正重氏に三期目の出馬表明を繰り返し行って来ましたが,後進に道を譲りたいという決意をひるがえすことはできませんでした。
 年明けの1月,国定氏擁立を断念し,選考を重ねましたが,珠洲市民会議代表で,反原発運動のかなめであった国定正重氏に代わる人が見つからず,難航しました。
 1995年3月4日,ようやく珠洲地区労センター第11回選考委員会で,柳田達雄氏に立候補をお願いし,3月10日,単組代表者会議で,市議会議員候補に柳田達雄氏の推薦を決定しました。
② 3月18日,蛸島町勝安寺でのネットワークの会合までに,反原発候補5名の立候補者が決まり,この日,候補者の決意表明がありました。珠洲市民会議の現職議員の落合誓子(飯田)・新谷栄作(蛸島)・小谷内毅(正院)の3名の候補者と,高校教諭を辞職して立候補した柳田達雄候補(上戸),原発立地予定地の三崎から出た井田省三候補の挨拶があり,支持者も含め52名も集まり,熱気がありました。
③ 4月16日(日),珠洲市議選(定数18)が告示されました。立候補したのは,原発推進派が自民党現職12人と無所属新顔の2人の計14人。反原発派は共産党新顔1人と無所属の現職3人,同新顔2人の計6人。推進派は改選前と同数の14人だが,反原発派は無所属現職の国定正重氏が今回で引退するものの,現有議席より2人増加した。全体では,定数を2人上回る少数激戦になりました。
 4月23日(日),市議選の投票があり,反原発派は,柳田達雄・新谷栄作・小谷内毅・井田省三・落合誓子氏の無所属の5人全員を当選させ,改選前より1議席増やしました。5人の得票数の合計も4,474票と,前回(1991年)の4,124票より350票も伸ばし,躍進しました。
④ 珠洲市議選の結果を,原発についての「公約」内容から分類すると,次の通りでした。
 ・原発反対 6名 4662票
 ・原発推進 5名 4177票
 ・原発中立 9名 7952票
⑤ 保守的な土壌で,地縁血縁のしがらみの強い土地で,反原発派は,「県議選の無投票」「市議選で現職を上回る候補の擁立」「候補者全員の当選」をおさめ,3連勝したと言えます。これでは,谷本正憲知事も,「珠洲では原発に対する住民合意はない」と認めざるを得ません。
 統一地方選の連勝で,反原発運動を「豊かな海づくり大会」にかこつけて自粛する必要がなく,むしろこれまで以上にやっていいという結果が出ました。
珠洲原発の白紙撤回まで,あと一歩です。

4 反連協の取り組みと経過

(1)珠洲市長選無効訴訟
 1993年4月の市長選の無効を求める訴訟は,「不正選挙を糾明する会」が中心になって行われています。事務局にも反連協役員が多数加わり,運動を積極的に担って来ました。
 11回の裁判には,毎回バス1台を仕立てて,珠洲地区労センターにも要請し,50名を超える傍聴体制を取って来ました。「不正選挙を糾明する会ニュース」も,反連協の柳田達雄副会長が作成し,既に第7号まで発行し,新聞に折り込みました。
 2200名の原告に対して,裁判がどうなっているのかを知らせる報告会も,ポスターや折り込みチラシを作成し,2回('94.11.20,'95.1.25)実施しました。

(2)県議選
 1994年度活動方針の「来春(95年4月)の統一地方選挙には,珠洲原発阻止を目指し,県議選では現職の北野進県議の再選を目指します」というのに従い,珠洲地区労センターとともに,北野進候補を支援して来ました。

(3)市議選
 1994年度活動方針に「市議選では珠洲地区労センターの推す候補の必勝を目指します。珠洲市民会議の現職議員の再選を目指した選挙戦にも可能な限り共闘して,原発反対の輪を広げる運動を推進します」とあるように,珠洲地区労センターとともに,候補者擁立を目指して努力して来ました。  
 1994年5月11日から1995年1月7日までに,珠洲地区労センター市議選対策会議を10回開き,国定正重氏の3期目の出馬を要請して来ました。国定氏には,二期目までの約束で出てもらっていたのですが,どう見ても,三期目も適任だと思ったからでした。国定氏は,一期目は,反原発議員が自分1人という状態で,林市長誕生後の高屋の事前調査阻止,市役所での座り込みなど,激動の市政の中で孤軍奮闘されました。そして,珠洲地区労センターの代表を超え,反原発市民の代表として,市民の声を市政に反映させました。二期目は,4人の反原発議員からなる珠洲市民会議の代表として,議会活動の経験を伝授しながら,一層活躍されました。目下係争中の珠洲市長選無効訴訟の原告団長として,「不正選挙を糾明する会」の会長としても活躍され,珠洲の顔として,存在感あふれる人でした。それだけに,三期目も国定氏しか考えられない,という状況でした。しかし,体力も衰えて来たので,後進に道を譲りたいと言う決意を翻すことができず,国定氏擁立を断念せざるをえませんでした。
 1995年1月23日から11回,珠洲地区労センター選考委員会を開き,国定正重氏に代わる後継候補の人選に当たりましたが,難航を極めました。3月1日の第10回選考委員会で,柳田達雄氏が,「今まで地区労を支えて来た先輩諸氏の努力をむだにはできない」と言われ,自らその責任を感じて出馬を決意されました。そして,3月10日,珠洲地区労センター単組代表者会議を開き,柳田達雄候補の推薦を決定,引き続いて,出馬記者会見に漕ぎつけました。
 柳田氏は,まだ8年残っていた高校教諭の生活をなげうって出馬されたわけで,その勇気と信念ある決断に,多くの人が感動してやみませんでした。柳田氏の出馬表明は,反原発勢力の求心力となり,反原発候補の擁立に難渋していた各町の人達を元気づけました。現職の落合誓子・新谷栄作・小谷内毅の3氏にも立候補を決意させ,三崎からは新人1人を擁立することができました。その結果は,柳田達雄氏のトップ当選で,併せて,5名の反原発候補全員が当選し,1議席増の目標も達成しました。確実に,反原発運動が前進したのです。
 さて,柳田達雄氏は,反連協の事務局長に1年でいいからとお願いし,7年もやってもらいました。その後,副会長に2年就いてもらい,反連協出身の候補といっても過言ではありませんでした。それで,この選挙は役員一同,今まで以上に真剣に取り組んだ選挙だったと思います。
 柳田候補は,「一番大切なのは,いのちである」「私は,原発を推進する人も含めた,すべての人のいのちを守りたい」と,反原発を力強く訴えての見事な勝利でした。出陣式の力強い第一声から選挙カーでの街宣,個人演説会,総決起集会と続いた選挙期間中,言葉に嘘がなく,誠実さの権化が行動しているようでした。国定正重氏に劣らぬすばらしい後継候補でした。応援することが,こんなに喜びである選挙は滅多にありませんでした。

(4)明石昇二郎講演会の開催('95.3.25)
 1995年3月25日(土),明石昇二郎氏を講師に,「原発銀座はガン多発地帯」という演題で,市内2カ所で行いました。
 明石氏は,1962年東京生まれのルポライターで,1994年11月から12月にかけて,集英社の『週間プレイボーイ』誌上で4週にわたって,「調査スクープ! 敦賀湾原発銀座“悪性リンパ腫”多発地帯の恐怖!」を連載し,他方面から反響がありました。特に,福井県知事は,「福井のイメージアップ戦略」が台無しになると,集英社に抗議文を送り記事の訂正を求めました。
 そこで,原発が争点になる統一地方選前に,話題の人に来て貰い,反原発運動の高揚を目指しました。反連協は,ポスタ-を貼り,チラシを折り込み,街宣車を繰り出し,市民に対して講演会の広報に努めました。また,ネットワークや珠洲地区労センターの協力も得ました。
 その結果,3月25日午後2時からの西勝寺での講演会には200名余りが来,午後7時半からの三崎公民館での講演会には40名ほどが集まり盛会でした。

(5)各種団体との交流
① 珠洲原発反対ネットワークへの参加
 この1年も,反連協は,珠洲原発反対ネットワークとの交流を求め,会合に欠かさず参加して来ました。
 1994年6月3日には,“反原発のメッカ”山口県の祝島視察の報告などがありました。8月21日には「豊かな海づくり大会」の会場の動向,「高屋港まつり」の様子などが報告されました。10月6日には,反連協が中心になって行う10月下旬の集会・デモの呼びかけを行いました。1995年2月18日には北野進氏の推薦,3月18日には珠洲市民会議の5名の推薦をしました。
 選挙後の5月23日,各町の市議選の反省と推進側の動向を報告し合いました。そして,8年間市議として奮闘して下さった国定正重氏の御苦労に感謝するパーティ「やったね! またがんばろうよ!」をネットワークが主催して行うことを決めました。6月2日,そのパーティが,寿殿で130名もの参加を得て,盛大に開催し,国定正重氏の長年の労に感謝すると共に,反原発市民同士,親睦を深め合いました。
 参加した会合は以下の通りです。
1994年 6月 3日,7月15日,8月21日,10月6日
 1995年 1月18日,2月18日,3月18日,5月23日,6月2日,6月16日
② 第23回全国自然保護大会石川大会・珠洲原発計画地視察会との交流
 1994年7月1日,全国自然保護大会石川大会参加者一行との交流会が,国民宿舎能登きのうら莊で行われました。反連協からは砂山事務局長が,高屋から井上明美・板谷儀博さんが参加し,珠洲現地の動きを話しました。参加者から,上関原発に反対している様子や長野オリンピック反対運動,電磁波の問題がある高圧線に反対している運動などを聞き有意義でした。
③ ピースサイクルとの交流
 5月4日,大阪から来た一行に,街宣車で,蛸島港から輪島の千枚田まで伴走しました。
(6)情宣活動
① チラシなどの折り込み
 以下のように,反連協のチラシを4回,「不正選挙を糾明する会ニュース」を5回折り込みました。また,市議選直前の4月12日から15日にかけて,市内全戸に『明石ジャーナル抜粋版』を配布し,珠洲市長選の不正,敦賀原発周辺のガン患者激増の様子を広報しました。
 1994. 7.30 「不正選挙を糾明する会ニュース」第3号チラシ
     9. 8 反連協・9月号チラシ
    10.10 「不正選挙を糾明する会ニュース」第4号・反連協10月号チラシ
     10.21 10.23集会・デモ延期のチラシ
    10.28 「不正選挙を糾明する会ニュース」第5号チラシ
    11.18 「不正選挙を糾明する会ニュース」第6号チラシ
          (11.20「珠洲市長選無効訴訟報告会」の案内)
 1995. 1.28 「不正選挙を糾明する会ニュース」第7号チラシ
     3.23 反連協・3月号チラシ
     4.12 『明石ジャーナル抜粋版』市内全戸配布(~15)
② 街宣活動
  以下のように,6回行いました。
 1994.10.23 「10.26反原子力の日」の街宣
     10.30 「10.30集会」の街宣 
 1995. 3.22 県議選を意識した街宣
     3.25 「3.25講演会」の街宣
     4.12 反原発の街宣
     4.26 「4.26チェルノブイリ原発9周年」の街宣

(7)集会やデモの組織化と参加
 1994年も,恒例の集会・デモを1回以上開きたいと,反連協は,10.26「反原子力の日」の取り組みとして,当初10月23日に集会を開く計画を,9月23日の第2回役員会に図りました。
 9月8日,1996年秋の「第16回豊かな海づくり大会」の会場に蛸島漁港が決定し,蛸島漁協に反原発運動の自粛を求める市当局の圧力が感じられるようになりました。蛸島を孤立させてはならないし,豊かな海と原発は共存しえない,反原発運動を風化させてはならないと考え,あえて会場を蛸島漁港に決めました。
 新谷市議を通して蛸島漁協の会場許可の内諾を得,10月6日のネットワーク(宝立公民館)に諮り,珠洲地区労センターと珠洲原発反対ネットワークの共済での開催が決まり,例によって反連協が事務一切を引き受け,活動を開始しました。
 10月10日に折り込みチラシを入れ,10月23日の集会案内をしました。10月11日,蛸島漁協へ会場を借りに行くと,「県珠洲土木事務所へ行ってくれ」と言われ,断られました。北野県議にも相談し,土地所有の県の許可を得るよう尽力して貰いましたが,「延期ないし変更してもらえないか」と言われ,第3回役員会と「不正選挙を糾明する会」地区代表者会議に諮り,10月30日に集会を変更することになりました。10月18日,飯田港の市有地を会場に借りようと,落合市議に許可申請書を市の建設課に出して貰いました。10月19日,高畠建設課長から,申請人の砂山に,「今日の4時に助役室に来てほしい」と電話があり,落合市議と共に出掛けました。
 田畑助役は,「海づくり大会があるので,この集会をやめてくれないか。市全体の漁協から港を貸すなという要望書が出ている」というので,砂山は「23日の集会は蛸島が迷惑やというから,日を変え,場所を変え,30日飯田港の市有地でやろうということになったのです。この集会は毎年やっている恒例の行事で,海づくり大会が決まったからやるのではないのです。去年は,4回集会をやり,飯田港も1回借りた実績があります。飯田港に催し物が入っていないのなら貸してくれませんか。原発に反対していても,私達も市に税金を納めている市民ですよ。憲法に保証された集会・結社の自由を認めないのは,憲法違反ですよ」と言い返しました。
 助役は申請書を見て,「これ(集会)は認めてもいいが,こっち(デモ)はやめるよう,皆さんと相談して貰えないか」と言う。砂山は「屋内の集会ならいざ知らず,外の集会にデモはついたもんです。私達は,1カ月以上前から綿密な相談をして申請したので,帰って相談することはありません」「助役さん,こんなが話し合いじゃないぞね。一方的に押さえ付けるだけやがいね。残念やけど,これで失礼します」と言って,退席した。話をしていて久々に激しい怒りが涌き,全身がほてっているのがわかった。
 海づくり大会にかこつけて反原発運動を押えようという市当局の圧力を目の当りに見た10.30集会だった。
 以下のように,集会の組織化が1回,集会への参加が2回だった。
1994. 6.30 志賀原発2号機増設撤回・海洋調査中止を求める抗議行動
    10.30 「珠洲原発白紙撤回・不正選挙糾弾集会」とデモ
1995. 6. 6 志賀原発への核燃料輸送抗議集会

(8)市・電力への申し入れ
 1994年8月25日,珠洲電源開発協議会に,3時間にわたって,珠洲原発を白紙撤回すること,珠洲原発反対連絡協議会は解散し,中部・関西電力は珠洲から撤退することなどの申し入れを行いました([資料27])。
 その際,珠洲電源開発協議会のテレビコマーシャルに出てくるのは地元の高校生のようだが高校や高校生本人の了解が得られているのか質問しました。後日,「高校生のように見えたのは,コマーシャル会社が調達した人達で,制服は地元の高校のものではない」「撮影場所は,のと鉄道沿線のある駅」という回答でした。しかし,反連協の申し入れの時に電力の社員自身が認めたように,能登鵜飼駅で,明らかに地元の高校生に見える人を登場させている「意図的悪質さ」にあります。そして,今もこのコマーシャルを流しているのは,悪質さの極みです。
 請願書も以下のように,3回提出しました。
 1994. 6.10 6月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出
     8.25 珠洲電源開発協議会への申し入れ
    12. 6  12月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出
 1995. 2.2  3月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出

1995年度の活動
 1995年6月19日,反連協第18回定期総会が開かれました。出席者は41名でした。
 来賓に,鍵主政範社会党県本部書記長,北野進県議,小路礼一郎内浦町議,落合誓子市議らを迎え,主に,選挙無効裁判闘争をはじめとし,反原発運動に例年通り取り組むことを決定しました。

1 95年度の経過

(1)中国・フランスの核実験(省略)

(2)巻町で原発住民投票実現
 東北電力が新潟県巻町で計画している巻原発は,1969年6月に計画が公表されてからすでに27年を経過しています。1982年1月に1号炉の設置許可申請が行われたものの,「巻原発反対共有地主会」の土地をはじめとする未買収地が残っていたため,安全審査が14年間凍結された状態が続いています。
 1994年8月,佐藤莞爾町長は,「世界で一番安全な原発を造る」と,従来の原発凍結方針を変更し,推進の立場を明らかにして,三選を果たしました。これに対し,これまで反原発運動に殆ど関わりをもってこなかった商店や農家の若い人達が,10月に「巻原発・住民投票を実行する会」を結成し,「町民の声を直接聞くべきだ」と,住民投票の実施に向かって行動を開始しました。
 1995年1月22日から2月5日までの15日間,全国で初めての自主管理による原発住民投票が,巻町で実施されました。町の有権者の45%強にあたる10,378人が投票し,原発建設に反対が9,854票(94.5%),賛成が474票,無効が50票という結果でした。投票者はせいぜい6,000人との推進派の思わくを打ち破り,1万人を越えました。また,反対票が,佐藤町長の選挙での得票9,006票を大きく上回りました。
 1996年1月21日,巻町長選の投票が行われ,酒造会社専務で「住民投票を実行する会」代表の笹口孝明氏(47歳)が,会社員の長倉敏夫氏(60歳)を大差で破り,初当選しました。
 3月21日,巻町議会は,原発住民投票の8月4日実施と,約700万円の投票関連予算を盛り込んだ1996年度一般会計予算案を可決しました。
 原発立地をめぐる住民投票条例は,高知県窪川町(1982年制定)や三重県南島町・宮崎県串間市(1993年制定)など5市町で制定されていますが,投票が実現するのは初めてです。この巻町の試みを,原発問題を抱える自治体や住民は,深い関心をもって見詰めています。

(3)「もんじゅ」のナトリウム漏れ・火災事故
 1995年12月8日,福井県敦賀市にある動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖原型炉「もんじゅ」(出力28万kW)で,40%出力で試運転中に,2次冷却系配管に差し込まれた温度計のさや管が折れて,1トンものナトリウムが配管から漏れ出し,火災事故を引き起こしました。
 この火災が,もし床の鉄板をも溶かしていたら,コンクリートと反応して水素爆発を起こし,放射能を持つ1次系のナトリウムをも大量に放出させたかもしれません。さらに,「もんじゅ」のそばには,阪神大震災を起こした活断層が走っており,もしその時大地震が起こったらと思うと,戦慄します。
 当初,動燃は,火災の発生さえ否定し,実際に漏れた箇所や被害状況の真相を隠し,写真やビデオでは,ナトリウムがただ床に堆積しているだけの映像を発表して意図的に軽微な事故に見せかける工作をしていました。
 福井県は,動燃と結んでいた安全協定を盾に,事故後3日目の未明に,抜打ち立ち入り検査をし,ビデオ撮影をし,公表しました。これにより,一連の「ビデオ隠し」が明らかになり,追及が始まりました。
 動燃は,これほどの重大事故をも,ウソにウソを重ねて情報を秘密化し,住民に真相を知らせまいとしたわけで,国の原子力行政への不信を決定的にしました。
 「もんじゅ」の事故によって,日本の原子力政策,「核燃料サイクル」「プルトニウム・リサイクル」路線は破綻した,と言えます。
 高速増殖炉の原型炉「もんじゅ」は,原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して燃やし,発電後,燃やした量より多いプルトニウムを増殖させるので,かつては「夢の原子炉」と呼ばれていました。資源小国・日本では,将来の「ウラン危機」に備えて,2030年以降は,現在の軽水炉原発の建設を止め,順次高速増殖炉に替えて行こうとしています。実験炉「常陽」,原型炉「もんじゅ」と開発して来,2000年初頭には「実証炉」を建設する計画を立てています。その後「実用炉」へと進めようという計画ですが,今回の事故で数年間は運転出来そうもなく,「プルトニウム・リサイクル」路線は,破綻したと言えます。
 高速増殖炉の開発は,原子力利用の本命として世界各国が競って進めて来たのですが,ウランに比べて400万倍も発ガン毒性の強いプルトニウム核燃料を使用し,水や酸素と爆発的に反応して燃えるナトリウムの高温液体を冷却剤に使うなど,危険が多くあります。安全性と経済性を追及するには,技術的な困難が山ほどあり,莫大な費用がかかるので,アメリカ・イタリア・ドイツなどは撤退し,安全なエネルギーの道を進み始めています。開発計画の最先頭を走って来たフランスでも,世界で唯一の大型の高速増殖炉「スーパーフェニックス」を,プルトニウムを増やす「増殖炉」ではなく,プルトニウムを燃やして減らす,実験用の炉にすることにしました。

(4)チェルノブイリ原発事故から10年後の惨状(省略)

(5)能登原発をめぐる情勢
① 控訴審第1回公判が1995年4月28日,名古屋高裁金沢支部(笹本淳子裁判長)で開かれたのに続き,控訴審第2回公判は7月17日,控訴審第3回公判は,9月25日に開かれました。特に1994年8月26日の再循環ポンプ事故をめぐって争われました。その後,1995年11月29日の第4回公判,1996年1月31日の第5回公判,2月26日の第6回公判,4月24日の第7回公判でも,その問題で争われました。
② 11月27日,北陸電力は,志賀町赤住で建設を計画している志賀原子力発電所2号機(改良型沸騰水型原子炉,出力135万8000kW)の環境影響調査書を通産省資源エネルギー庁に提出しました。北電では,1996年度の電源開発調整審議会(電調審)へ上程し,99年度の着工,06年3月の運転開始を予定しています。
③ 12月4日,「志賀町子どもたちの明日を考える父母の会」など4団体は,県環境部長に対し,原発の耐震安全性について県主催の県民説明会を開くよう申し入れました。
 翌12月5日,社会党県本部(桑原豊委員長)と県連帯労組会議(川島靖議長)は,県庁に谷本政憲知事を訪ね,北電が12月9日に開く志賀原発2号機環境影響評価の地元説明会に先立ち,原発の耐震設計・防災対策についての公開説明会を開くよう申し入れ書を提出しました。
④ 12月9日,北陸電力は,志賀原発2号機建設に向けた「環境影響調査書・環境影響評価準備書説明会」を志賀町で開きました。地元住民ら450人が参加しました。
 参加者から「原発の最大の課題は事故の際の放射能漏れの影響。調査書で一切触れられていないのはおかしい」「耐震性に関する公開説明会を開くべきだ」などの質問が相次ぎました。北電は「放射能の影響調査は法に規定がない」「地震対策は新聞やテレビなどで十分説明している」などと回答し,論議がかみあわないまま,約2時間後に終了しました。
⑤ 石川県と科学技術庁が共催する「原子力発電所の耐震安全性に係る県民説明会」が,1996年2月17日,羽咋市文化会館で開かれ,約400人が参加しました。
 説明会では,国側は「阪神大震災を踏まえても,原子力施設の耐震設計に関する指針の妥当性は損なわれない」などと言い,原子力施設耐震安全検討会での結論を繰り返すだけで,かえって不安の募る説明会でした。
⑥ 2月25日,県連帯労組会議や脱原発を目指す県内の市民グループなど11団体の主催で,志賀原発1号機での冬季の事故を想定した自主防災訓練が行われ,中能登地区の住民ら約600人が金沢や輪島に避難しました。この訓練の結果を踏まえ,社民党県連合と県連帯労組会議は3月7日,県に対し原子力防災計画の全面的見直しなどを申し入れました。そして,見直しにより住民の安全が確保されるまで,志賀原発2号機の建設に向けた手続きの凍結も求めました。

2 珠洲原発をめぐる情勢(推進の動き)

(1)石川県の動き
① 1995年6月27日開かれた県議会6月定例会の一般質問で,県が2001年の開港を目指している「能登空港」建設について,谷本正憲知事は「能登地域の活性化のためのビッグプロジェクト。運輸省や航空会社の協力を求めると同時に,地域住民や地権者の支持や理解を得られるよう努力していきたい」と述べました。一方,谷本知事は,「珠洲原発」の建設問題を問われ,「住民合意が重要」と強調しました。
② 石川県は,知事裁定中の95年度9月補正予算案に「第16回全国豊かな海づくり大会」関連費用約2800万円を計上しました。
③ 県議会2月定例会は1996年3月1日,代表質問がありました。谷本知事にとって1期目の任期の折り返し点を迎え,各会派の代表は過去2年間を振り返って,知事の自己評価と今後の政治スタンスなどについて質問しました。
 桑原議員は「徹底した安全管理が求められる原発立地は,住民合意が大切」とし,志賀原発2号機や珠洲原発の立地推進の見直しを迫りました。これに対し,谷本知事は「安全性の確保が大前提だが,地域振興の有効な政策の一つでもある。住民合意が何よりも大切だとの認識には変わりない」と,従来の考え方を強調しました。志賀原発2号機は「地域の理解を得ながら適正な手順を追っていきたい」,珠洲原発は「現在,住民合意が得られていない」と答えました。

(2)珠洲市の動き
① 市議会6月定例会
1995年6月19日に6月市議会一般質問がありました。その中で,珠洲原発問題に関連して賛否両派から「住民との話し合いの中で原発を見直してほしい」(反対派),「地域振興につながる原発立地の積極的な推進を望む「(賛成派)などの質問があり,林市長は「安全性の確保を大前提として,過疎対策と地域の活性化を図るため,積極的に推進していく」と答えました。
 柳田達雄市議が「福井県では,原発推進・反対両方の学者を呼んで県民フォーラムを開いた。珠洲市でもやってはどうか」という質問に,上野電源立地対策課長は「市民フォーラムについて国・県と協議しながら,実施時期や方法について検討したい」と答えました。
② 市議会9月定例会
 9月12日,9月市議会の初日,中国・フランスの核実験に抗議する,議会議案の「核実験の即時全面禁止を求める決議」と「定住外国人の地方参政権に関する意見書」を全会一致で可決しました。
 この日,林市長は,提案理由説明の中で,電源立地については「安全性確保を大前提に,一人でも多くの理解が得られるよう,引き続き努力する」と述べました。
 9月19日の一般質問で,林市長は,のと鉄道の鉢ヶ崎延長計画が「困難になった。早期に代替振興策を示したい」と述べた後,原発市民フォーラムについて「先進地の事例や調査結果を踏まえ,国・県と相談していく」と答え,開催する際には推進・反対双方の専門家を招く意向を示しました。
③ 市議会12月定例会
 12月13日,12月市議会の一般質問がありました。12月11日に名古屋高裁金沢支部で珠洲市長選挙の無効判決が言い渡されてから2日後とあって,傍聴席は市民らであふれました。訴訟の原告でもある落合誓子市議が,「市長は判決にしたがって,もう一度市民の審判を受ける覚悟を決めてもらいたい」と辞職,再選挙を求め,再質問でも「これ以上言っても市長は答えないだろうが」と皮肉交じりで詰め寄りましたが,林市長は「裁判の結果の感想は差し控えたい」と言うのみでした。
 また,柳田達雄市議は,「あの市長選挙を担当した選管には重大な問題があった。そうした人事を担当した最高責任者はこの際引責辞任すべきだ」と助役に迫りました。田畑良幸助役は「市長選当時の選管書記長は適任だと判断して配置した。事務的な手違いがあったことは認めざるを得ないが,本人の能力にまつわるものではない」と気色ばんで答えました。
④ 市議会3月定例会
 1996年3月13日,3月市議会の一般質問が行われ,珠洲市民会議の柳田市議などが,昨年12月の名古屋高裁金沢支部の珠洲市長選挙無効判決を踏まえ,改めて辞任による再選挙を林市長に求めました。さらに「ずさんな選挙管理事務は市職員の不適切な人事配置によるもので,その後の調査もなされていない」と,田畑助役の引責辞任を迫ったが,林市長・田畑助役とも「与えられた任期を全力投球し,市政の進展に尽くす」と拒否しました。さらに,柳田市議は,県選管の最高裁上告に伴う原告団の弁護団への委任状集めについて,「電力会社の社員が,印鑑を押さないようにと妨害している。また,裁判の傍聴に出掛ける原告団のバスを監視していた」として市当局の見解をただしましたが,田畑助役は「原告団の行動については掌握していない」と答弁しました。
 竹田市議(自民)は「電源立地を前提とした長期ビジョンの策定が必要」と質問したのに対し,林市長は「若い市職員を中心にしたワーキンググループに提言を作成してもらい,これをたたき台にして,住民の意見を広く反映させたビジョンを平成8年度中に策定したい」と答えました。
⑤ 原子力講演会
 『広報すず』号外「原子力特集」('96.3.31,珠洲市電源立地対策課発行)によると,平成7年度に市内各地で,原子力発電所の安全性および地域振興などをテーマにした講演会を,中央から専門の講師を招き,11回行っています。その様子は,次の通りです。
1995.6.26 「原子力発電の安全性」(講師:岸本康,宝立公民館)
  6.29 「21世紀に向けて考えるくらし・環境・エネルギー」(講師:木元教子,JAすずし本所)
 7.12 「原子力発電の安全性」(講師:高嶋進,中央公民館)
 7.13 「原子力発電の安全性と温排水」(講師:高嶋進,JAすずし寺家支所)
  7.18 「原子力発電の安全性」(講師:石原健彦,直公民館)
 7.19 「電源立地と地域おこし」(講師:森巌夫,若山公民館)
 7.25 「原子力発電の安全性」(講師:下川純一,正院公民館)
 7.26 「原子力発電の安全性」(講師:下川純一,狼煙生活改善センター)
 8.22 「電源立地と地域振興」(講師:山地憲治,上戸公民館)
 8.23 「原子力発電の安全性」(講師:石原健彦,大谷公民館)
 12. 5 「電源立地と地域振興」 (講師:下平尾勲・鈴木とみ子・中村政雄,珠洲商工会議所会館)

(3)電力会社の動き
 谷本正憲知事が「珠洲原発の建設には住民合意が重要」('95.6.27,6月県議会)と言い,「珠洲原発は,現在住民合意が得られていない」('96.3.1,2月県議会)とも答弁し,1996年9月16日に「全国豊かな海づくり大会」が蛸島漁港に予定されているのに,関西電力・中部電力は,相変わらず珠洲に居座り続けています。推進工作を自粛したり,撤退する気など,さらさらありません。
① 関西電力は,珠洲市や「高屋町まちづくり推進会」と結託し,町づくりと共存共栄で原発を作ろうと,しぶとく高屋町を訪問し,推進工作を続けています。
 1995年8月2日の『朝日新聞』などによると,関電は,原発建設に賛成する「高屋町まちづくり推進会」の要望に基づき,テレビの共同受信施設や農産物保冷庫,魚具倉庫の建設,有線放送設備など7項目を寄付することになっています。
 共同テレビアンテナはその第1弾で,町の全77世帯でつくる「高屋町テレビ共同受信施設組合」に設置費約112万円が寄付され,94年11月末に完成し,従来受信できなかった民放2局(北陸朝日放送とテレビ金沢)が受信できるようになりました。
 これに対し,原発反対派の板谷弘祐さんら9世帯が,95年3月,「原発建設につながる寄付は受けられない」と,設置費を世帯割した計13万1000円を関電本社に現金書留で送りました。関電は「地域全体への寄付で,個人への寄付ではない」と板谷さんらに戻して来たが,9世帯は再び現金書留で送り返しました。
 関電の寄付の第2弾は,キリコ収納庫です。1995年10月22日,キリコ収納庫の完成式がありましたが,式典の出席を反対派のほとんどがボイコットしました。鉄骨平屋のコンクリート造りで,屋根は瓦ぶきで土蔵風の外観。建設費は5500万円です。大人用3基,子ども用1基のキリコを解体せずに出し入れすることができ,内部に電動の搬送装置がついています。これまで祭りだけは,推進・反対両派とも協力し合って来たのに,反対派から「来年から祭りは一緒にやれない」という声が出ています。
 関電の寄付の第3弾は,高屋の旧集会場跡に,現在建築中の「高屋町農産物保冷庫」です。鉄骨造り平屋建てで,保冷庫4庫(1保冷庫に20㍑の箱が80箱収納可能)で,完成は96年6月の予定です。立看板には「この農産物保冷庫は,高屋町まちづくり推進会のまちづくり構想の一部実施事項として珠洲市に要望したものの一つで,このたび関西電力と北陸電力の協力により建設されるものです」と書いてあります。
② 中部電力は,熊谷町の事務所に隣接して鉄筋の宿舎を建築中です。既に三崎町雲津の白山神社の裏山の土地1万87㎡(約3000坪)を買っており,1994年8月25日,反連協が珠洲電源開発協議会に申し入れをした際,中電にこれを質すと「30数名の社員寮を造る。機材置き場などではない」という答えでした。今春,中電は寺家の元市会議員の家をも買収しました。珠洲の土地や家屋を買いあさるということは,執拗に原発建設を狙っている証拠です。

3 反原発運動の状況

(1)珠洲市長選無効訴訟
① 第12回公判付近からの経過
1) 1995年7月10日:第12回公判
 原告が,1994年12月12日に笹本淳子裁判長を忌避してから,審理が停止していた公判が,久しぶりに再開された。傍聴者は61名もいて,法廷からはみ出す人が11名もいた。この日は,人事異動によって代わった左陪席(裁判長の左側の裁判官)に,審理をこのまま継続してお願いしますという意味合いの公判だった。事務手続きをして10分で終わった。
2) 1995年9月6日:第13回公判[結審]
 先ず,柳田達雄市議が,14分にわたって意見陳述を行った。
 柳田市議は,偽造投票用紙が混入しているのではないかという市民の疑惑を晴らし,真相解明に必要な投票用紙の鑑定申請を却下されたことに怒り,過疎にしておいた珠洲市に,国策の原発を推進する市長を誕生させようと不正選挙を行った過ちを,憤りをもって訴えた。そして,法に照らした厳正な判断で,珠洲市における民主主義の実現を支えていただくよう,お願いした。
 この後,原告側が提出した「最終準備書面」(233ページ,約13万字)の要点を,弁護団の代表4人(飯森・中村・奥村・水谷)が口頭陳述した。裁判所に提出した証拠書類は,原告が1600件を超えていたのに対し,被告は27件(その殆どが,偽造投票はないというもの)にすぎなかった。原告は,どの観点から見ても「選挙は無効である」ことを立証し,被告の県選管は全く発言せず,書面陳述のみで結審した。
 結審後,北陸会館で「結審報告集会」を開催し,16名の弁護団の献身的な努力に感謝しながら,勝利を確信しつつ,声明文を採択した。
3) 1995年12月11日:第14回公判[勝訴]
 午前10時からの判決は,歴史的な判決だった。
 法廷では,笹本裁判長が,ぼそぼそと判決を読み上げるので,最初何を言っているのかわからなかった。原告団席の人が弁護士に「勝ったがけ?」ときき,「勝ったんや」と言われ,どよめきが起こった。
 裁判所の外では,法廷に入れない30人ほどが待機していた。カメラの放列が正面玄関を狙う中,10時3分頃,高屋の井上伸造さんが,「勝訴」の垂れ幕を持って走り出て来た。「わー,勝った勝った!」「ばんざい!」と歓声が上がった。思わず涙ぐむ人も多く,握手し,抱き合う人達もいた。長く厳しい戦いの末に有終の美を飾ったのである。
 10時30分から,北陸会館で「勝利判決報告集会」を開いたが,どの顔も輝いていた。
 国定正重原告団長は「今日の判決を聞いて,胸が晴れた。我々にとって大きな力になる。不正をした林派は上告しないでほしい」と述べた。奥村回弁護士は「当然の判決である。これで珠洲市の民主主義が前進する」「慎重な判決で,誰が見てもおかしいと思うところだけ認定した,評価に値する判決である。最高裁へ行ってもおかしいと思えるところを押えてある」「法廷をみなさんが毎回満杯にし,偽造投票の鑑定も求めた。その熱意が伝わった。これからが大変なので,がんばってほしい」と話した。
② 勝訴判決文の要点
 「主文」は,原告が,訴状の「請求の趣旨」で記した判決文そのものであった。
1 平成5年4月18日執行の珠洲市長選挙の選挙の効力に関する審査の申立てにつき,被告が同年11月24日付けでした裁決を取り消す。
2 右選挙を無効とする。
3 訴訟費用は,被告の負担とする。
 この後「事実及び理由」が続く。その中で,原告・被告の主張を取り上げた後,裁判所の判断が述べられた。
 笹本裁判長は,不在者投票が,選挙人の選挙権を行使させるため,当日投票の例外的なものとして,公職選挙法49条の不在者投票の理由がある場合にのみ許されるものであるが,不正の行われる危険も多く,これを避けるため,厳しく綿密な法の定めがなされており,選管委員長は不在者投票については,その理由があるか,認定する義務があると指摘した。その上で,
1 受付担当者は,不在者投票理由の有無について特段の関心を払うことなく,漫然と受理していた。
2 立会人が監視機関としての役割を十分に果せない状態にあった。
3 郵便による不在者投票についても,市選管の記名押印のない不在者投票封筒が送付されていた。
と判断した。
 また,開票手続きの管理執行についても,「選挙長には,安易な当選人決定の宣言もふくめて,開票手続きの根幹において誤りがあった」と指摘した。こうした点を踏まえ,全不在者投票者1713人の内,40%強に当たる692票に無効があることや,林候補と樫田候補の得票数の差は958票であるとはいえ,各自の得票数における不在者投票の占める比率は,林候補においては12.5%(9,199票中の1,150票が不在者投票)であるのに対し,樫田候補においては6.5%(8,241票中の542票が不在者投票)にすぎないことを総合して判断している。そして,「不在者投票が,公明かつ適正を旨とする公職選挙法の理念に従って厳正に行われていれば,原子力発電所の誘致をめぐって住民が両陣営に分かれて激しく争った本件選挙では,選挙の結果につき,異なる結果の生じる可能性があった」と結論づけ,選挙の無効を言い渡したのである。
③ 判決後の動き
 被告の県選管は,1995年12月15日,臨時会を開き,珠洲市長選を無効とした判決を不服として最高裁に上告することを,佐々木委員長の権限で決定し,21日上告した。委員の意見が2対2に分かれたのに,委員長権限で上告したことは,横暴であり,職権乱用であった。
 1996年2月,被告の県選管は「違法な不在者投票は372票」「両候補の得票差は974票(原判決では958票)」などと主張し,最高裁へ上告理由書を提出した。最高裁は,これを2月6日受理。公職選挙法が定める「百日裁判」の努力規定が守られれば,2月6日から百日目は5月16日だった。
 名古屋高裁金沢支部が無効判決を言い渡した93年4月の市長選から既に3年以上が経過し,現市長の任期満了まで1年足らず。反原発派は,最高裁判決に期待し,心待ちにしながらも,次期市長選を見据え,選挙準備に入っている。
 以下に,活動のあらましを記します。
 ○報告会(10/6,12/11,12/16)
 ○地区代表者会議(7/6,9/2,2/11,3/19)
 ○事務局会議(8/29,12/4,12/23,2/7,3/6,5/6)
 ○弁護団会議(6/26,7/10,7/26,8/10,8/31,11/21,12/8,1/31,2/14,
        2/29,3/14,4/2,4/18)

(2)県議会での取り組み
 1995年の6月県議会で,北野進県議は「志賀原発1号機の防災体制,安全管理体制,活断層や耐震性の問題,放射性廃棄物の問題など山積する課題について議論しなければならない。福井県が,既に稼働している原発をどう捕えるかという県民フォーラムを6月11日開催した。石川県においても,稼働させた1号機をどうするのか真剣に議論すべきだ」と迫りました。
 9月県議会では,志賀原発の管理区域に入った見学者の問題を取り上げたり,志賀原発沖で検出された放射性ヨウ素の問題を質問しました。
 12月県議会では,原発の耐震性や地質の問題などについて,県民に開かれたシンポジウムなどを開催するべきだ,と問い質しました。
 2月県議会では,「『もんじゅ』の事故で国のエネルギー政策自体の見直しが迫られている中,福井・新潟・福島3県の知事は,国に原子力政策について国民の合意形成を求めた。志賀原発2号機どころか1号機の運転継続自体が問われている。2月に開催された耐震説明会で明らかになった通り,国と電力会社による立地手続きで県民の安全は守れない。福井県など自治体間の連携と協力,さらに住民の意見も踏まえ,国や電力会社をチェックせよ」と迫りました。谷本知事は「志賀2号機については,手順を追って適正にすすめられるよう,電力会社を厳しく指導していく。国に対して要望,提言すべき事項があれば,県独自あるいは協議会を通じて対処していく」と答えました。
 北野進県議は,原発問題を初め,のと鉄道の延伸問題,鉢ヶ崎リゾート,能登空港,耐震問題,高校入試改革などの教育問題,合併浄化槽の促進,情報化の促進など,多岐にわたって論陣を張っており,まさに孤軍奮闘しています。私たちは,珠洲原発を阻止するため,さらに北野県議を盛り立て,連動して闘わねばなりません。

(3)市議会での取り組み
① 1995年4月23日,市議選の投票があり,反原発派は,柳田達雄・新谷栄作・小谷内毅・井田省三・落合誓子氏の無所属の5人全員を当選させ,改選前より1議席ふやしました。推進派は,自民党現職候補1人を落としました。この結果,市議会の構成は,清和会(自民党)13人,珠洲市民会議5人となりました。この1名の増加は,珠洲市民会議の存在感を増し,議会活動を更に活発にさせました。
 そして,珠洲市民会議は,反原発運動は民主主義への闘いであり,一人ひとりの意見が大切にされる珠洲市,不正・不公正のない珠洲市,一部の人たちだけが得をすることのない珠洲市を目指して,監視し,提言,活動するまでに成長しつつあります。
② 5月の組織議会では,「電源立地推進特別委員会」が存続するのは,反原発派の議員が5名に増えたというのに,あいかわらず「立地推進」を掲げ,5名とも締め出すのはおかしいと,落合議員が反対討論を行いました。裁決の結果,13対5で押し切られましたが,この後の議会活動の火ぶたを切る出来事でした。
 議会では,原発問題,珠洲市長選無効判決,「全国豊かな海づくり大会」,鉢ヶ崎リゾート整備計画などの外,農業・漁業・教育・福祉・環境・人事・ゴミ問題など,市政全般にわたって,活発な討論を挑んでいます。
 なかでも,珠洲市が策定中の「第4次珠洲市総合計画」案が9月22日の全員協議会に提示されたのを受けて,10月20日夜,中央公民館で,「珠洲の未来を語る会」を開いて市民の意見を聞き,詳細に検討し,原発なしでも珠洲市は立派にやっていけることを数十ページのレポートにしたのは,珠洲市民会議の面目躍如たるところです。自民党は,わずか1ページ報告したのみでした。
 また,12月議会では,珠洲市民会議の5議員が,「記号式投票に関する条例を廃止する条例案」を議員提案したことも画期的なことでした。提案に立った新谷栄作議員は,「記号式は,後で筆跡鑑定など不正を探せず,一つでも疑惑,疑念の元を断つ構えを見せるべきだ」と説明しましたが,反対されたのは残念でした。
③ 5人の野党会派「珠洲市民会議」は,自民党議員とは異なり,「出たい人より出したい人」が選ばれ,私利私欲なく市民の声を市政に反映するよう,努力しています。また,原発のない豊かな珠洲の自然に囲まれて平和に暮らし,この地に民主主義を実現しようと奮闘しています。私達は,この珠洲市民会議とともに,珠洲原発を作らせず,民主主義を実現する運動を進めて行かなければなりません。

(4)市長選への取り組み
 最高裁判決が近づく中で,樫田凖一郎後援会の活動が,1月20日の新年会以降,着々と進められています。そして,判決後の後援会総会,選挙戦を目指し,支持者拡大に取り組んでいます(後援会役員会の開催は,5/1,5/6,5/13,5/21,5/27)。

4 反連協の取り組みと経過

(1)珠洲市長選無効訴訟
 訴訟を担う「不正選挙を糾明する会」(国定正重会長)の事務局員10名に,反連協役員の国定正重・樫田凖一郎(特別幹事),柳田達雄(副会長),砂山信一(事務局長)の4名が入っています。また,「不正選挙を糾明する会」地区代表者会議にも反連協役員が多数加わり,この訴訟を反原発・民主化の運動と捕え,積極的に取り組んで来ました。
 第12回,13回,14回の公判には,貸し切りバスを仕立て,珠洲地区労センターにも要請し,50名を超える傍聴体制を取って来ました。「不正選挙を糾明する会ニュース」も,反連協の柳田達雄副会長が,第8号から第14号まで,途中に号外1枚を加え,計8枚発行し,新聞に折り込みました。
 1995年10月6日の「結審報告会」(西勝寺)や,12月16日「勝利判決報告集会」(勝安寺)の開催にも,反連協役員が,準備などに当たりました。

(2)参議院選挙
 第17回参院選は,1995年7月6日に公示され,7月23日に投票・開票がありました。その結果,民主改革連合前職で,新進党(新生・公明・民社)と社会党の推薦を受けていた,粟森喬候補が落選しました。それに代わって,自民党推薦で無所属新人の馳浩候補が当選しました。
 馳氏の勝因は,自民党の支持基盤を背景に,若年層など浮動票を取り込んだのと,馳氏のキャラクターに新風を求めたとも考えられます。
 投票結果は,次の通りでした。
  [石川県選挙区]
    当 234,283 馳   浩 34 無新
       205,049 粟森  喬 56 改前
        34,478 尾西 洋子 52 共新
 この選挙の珠洲市・珠洲郡での結果は,つぎの通りでした。珠洲郡の得票は[ ]内に示しました。
   ・粟森  喬 (改前) 4,329 [1481]
   ・馳   浩  (無新) 6,982 [2218]
   ・尾西 洋子 (共新)   797 [ 152]
 6年前に比べて,粟森氏の珠洲での得票が減少したのは,珠洲での最大の争点である珠洲原発について,明確に反対を表明しなかったからで,残念です。

(3)久米三四郎講演会の開催('96.3.23~24)
 動燃の高速増殖原型炉「もんじゅ」でのナトリウム漏れ・火災事故をうけ,「もんじゅ凍結百万人署名運動」世話人で,元・大阪大学の先生であった久米三四郎氏を講師として招くことにしました。久米先生は,巻町の運動にも詳しく,最適の講師と言えました。
 主催は「珠洲の原発を考える会」で,共催は珠洲地区労センターと珠洲原発反対ネットワークでした。実務は反連協がやり,ポスター貼りや折り込みチラシを入れ,街宣をしました。会場設営や資料づくりも行いました。
 1996年3月23日(土),24日(日)に,2カ所ずつ,計4カ所で講演会を開催したところ,全部で160名ほどの人が集まりました。講演も,TPシートをOHPで映し,写真や図表を示し,とてもわかりやすく,好評でした。成功裏に終わったと言えます。講演の月日・会場は,次の通りです。
1996.3.23 久米三四郎講演会(大谷公民館,宝立公民館)
    3.24 〃 (大坊生活改善センター,正院・西光寺)

(4)珠洲原発反対ネットワークへの参加
 この1年も以下のように,ネットワークの会合に参加し,高屋・寺家の現地や各町での推進の動きや問題を出し合い,交流しました。また,公判や集会・デモ,講演会への協力などもお願いしました。
 参加した会合は以下の通りです。
  1995年 9月 2日,10月 6日,11月26日,12月20日
  1996年 1月16日, 2月 4日, 2月27日, 4月24日

(5)情宣活動
① チラシなどの折り込み
 以下のように,反連協のチラシを3回,集会・講演会の案内を2回,「不正選挙を糾明する会ニュース」を8回折り込みました。
 1995.7. 5 「不正選挙を糾明する会ニュース」第8号チラシ
  9. 5 「不正選挙を糾明する会ニュース」第9号チラシ
  10. 5 「不正選挙を糾明する会ニュース」号外チラシ
 10.17 「10.22集会」案内のチラシ
  10.26 「反原子力の日」のチラシ
  12. 9 「不正選挙を糾明する会ニュース」第10号チラシ
1996.1. 1 「不正選挙を糾明する会ニュース」第11号チラシ
  1.23 「不正選挙を糾明する会ニュース」第12号チラシ
 2.17 反連協・2月号チラシ
 2.22 「不正選挙を糾明する会ニュース」第13号チラシ
 3.21 「久米三四郎講演会」の案内チラシ
 4.26 「チェルノブイリ原発事故10周年」のチラシ
 5. 3 「不正選挙を糾明する会ニュース」第14号チラシ
② 街宣活動
 以下のように,7回行いました。
 1995. 8.21 市内街宣
   10.22 「10.22集会」の街宣
  10.26 「反原子力の日」の街宣
1996.3.23 「久米三四郎講演会」の街宣
  3.24 「久米三四郎講演会」の街宣
  3.31 「要望書」の署名を求める街宣
  4.27 「4.26チェルノブイリ原発事故10周年」の街宣

(6)集会やデモの組織化と参加
 反連協恒例の「10.26反原子力の日」の取り組みの集会を,1995年10月22日,野々江総合公園で開催しました。珠洲地区労センターと隣接の地区労センターに動員を要請し,市民の参加も得て,300名ほどが,晴天の広場に集会を開催しました。その後,飯田町をデモ行進しました。胸のすくような青空の下,初秋の日差しを浴びての行進は,気持ちのいいものでした。
 今年は,会場借用を市の建設課が,快諾してくれたのは,意外でした。港でなかったからかも知れませんが,去年の攻防が影響していると考えら,私達にとって,良風が吹いて来た感がありました。
 以下のように,集会の組織化が1回,集会への参加が5回でした。
 1995.10.22 「珠洲原発白紙撤回・不正選挙糾弾集会」とデモ
    12. 9 志賀原発2号機の環境影響調査説明会・抗議集会
 1996. 2.17 原子力発電所の耐震安全性に係る県民説明会
     2.24 核燃料輸送反対全国交流集会
     2.25 能登(志賀)原発・自主防災訓練,総括集会
     4. 5 能登(志賀)原発への核燃料搬入抗議集会

(7)市への申し入れ
 この1年,反連協の市・電力への申し入れは,ありませんでした。以下のように,9月市議会への請願書提出が1回,「不正選挙を糾明する会」の一員として,林市長に選挙のやり直しを求める申し入れに同行したことが上げられます。
 1995.9. 8 9月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出
 1996.1.18 「不正選挙を糾明する会」が林市長に再選挙の申し入れ 

 1996年度の活動
 1996年度の反連協の第19回総会は,1996年5月29日(月)に珠洲労働会館で北野進県議,落合誓子市議,樫田凖一郎ネットワーク代表らを来賓に迎えて開催されました(出席代議員:30名)。
 本総会で,珠洲地区労センターが珠洲市勤労協単組協議会,日本社会党が社会民主党と変更したのに基づき,加盟団体名の改正を行いました。

1 96年度の経過

(1)巻町の原発住民投票で「原発ノー」
 1996年8月4日(日),巻町で全国初の住民投票が行われました。投票率は,88.29%と,町民の関心は高く,開票結果は,原発建設反対が12,478票(60.86%),賛成が7,904票(38.55%),無効118票・もち帰り3票(0.59%)でした。
 この結果に,笹口孝明町長は「これで町の方向は原発と共存しない形で進むことが決まった。約束どおり原発予定地内にある町有地は売却しない」と明言しました。東北電力の八島俊章社長は,巻原発を断念しないとの意向を示しましたが,「原発ノー」の民意は重く,原発に頼らない,美しい自然を生かした町づくりが始まったのです。
 梶山静六官房長官は,8月5日の記者会見で,国として原発政策は変わらず進めて行く決意を表明し,巻町民の選択を「地域エゴ」であるかのように批判しました。しかし,この発言こそ「大都市のエゴ」そのものです。
 巻町の住民投票の結果には,政治や行政,電力会社に対する不信が現れており,「大都市のエゴ」に対する地方の反発が込められています。国も電力会社も,巻町住民の意思を尊重し,原発を断念すべきです。

(2)日本海沿岸に重油漂着
① 1997年1月2日,島根県沖でロシア船籍タンカー「ナホトカ号」(約1万3000トン)が沈没し,大量の重油が流出する事故がありました。この重油は,日本海を広く汚染し,島根県から青森県までの海岸を覆い,海に生きるものたちの命を奪い,海の恵みによって生きている人たちの生活を奪っています。
② 石川県内への漂着は,1月8日,加賀市の片野海岸へ,そして珠洲市へも,1月15日,長橋海岸一帯に漂着しました。その後,外浦の真浦・清水・仁江・馬緤・木ノ浦・折戸・川浦・狼煙,内浦の寺家などにも次々と漂着しました。
 珠洲市では,1月16日(木)から重油回収作業を開始し,2月16日(日)までに,真浦から寺家までの海岸14カ所で,地元住民や市内外からの多数のボランティア・自衛隊などによって,重油除去が行われました。その作業従事者は3万1228人,重油回収量はドラム缶換算で2万3993本(うち海上で2894本回収)となっています。
 珠洲市は,2月13日(木),重油回収費1億7千万円の補正予算を専決処分しましたが,市の被害額は,その後さらに増大していると思います。
③ この事故による漁業被害は甚大でした。蛸島漁協では,網に重油がつくと魚に臭いが移って商品にならないので,大型定置網5カ統すべてを撤収しました。定置網の水揚げは,蛸島漁協全体の約2割を占めており,マイワシ漁が最盛期を迎えている時期の網揚げで,損害は数億円に上りました。蛸島漁協の小型底引き船団も,1月12日から27日まで一斉休業に入り,漂流油の海上回収を行いました。この間に,ズワイガニやカレイなどを漁獲できず,大変な痛手を受けました。
 今後,流出重油による日本海汚染で,海の生態系が破壊される恐れがあります。重油は,海鳥,魚の卵や稚魚,貝類,ウニなどを窒息させたり,生物の体内に蓄積して繁殖を阻害したりします。
④ 重油流出事故の被害は甚大でしたが,まだ重油は,目に見え,臭いもあり,ひしゃく・たも網・バケツなどで回収できました。原発事故などが起こり,放射能が流出すれば,目に見えず,臭いもない放射能は,すくいようがありません。回収不能で,重油以上の被害をこうむることは明らかです。
 日本の沿岸の海を放射能で汚染させないためにも,放射能混じりの温排水を常時海に流す,珠洲原発を作ってはなりません。
⑤ 重油回収の短歌 [『柊』1997年5月号]
 ・砂混じる黒き重油を手に取ればクラゲのやうな感触覚ゆ
 ・砂浜に流れ寄りし重油拾いゆく冬の海風身に浴びながら
 ・水際の小石に付きし重油をば人らに混じり黙々と取る
 ・掻き分けし小石のあはひに褐色の重油出で来ぬ際限もなく

(3)動燃の相次ぐ事故で原子力政策が崩壊
① アスファルト固化処理施設火災事故
 1997年3月11日午前10時6分,動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が茨城県東海村で運転する再処理工場のアスファルト固化処理施設で火災事故が起きました。
 動燃は,昼過ぎまでは「被曝なし」,午後1時になって「5人が被曝」と訂正しました。その後,数時間ごとの動燃の発表は二転三転,そのつど深刻さを増し,ついに被曝者は,過去最大の37人に達しました。被曝の最大は,セシウム137を2700ベクレル,セシウム134を400ベクレル吸引した人でした。
 県・村への事故の通報は,今回も遅く,火災の通報は10時38分,爆発の通報は午後8時10分頃でした。放射能漏れや被曝の情報は,知っていながら3時間以上遅れる始末でした。
 4月8日,動燃理事長が緊急記者会見をし,「火災鎮火確認は誤り」と,事故報告を訂正。組織ぐるみのウソの強要,告白妨害が判明しました。
 4月14日,動燃が科学技術庁に提出した修正報告では,火災の激しさや,煙が室外に出ているのを確認していたことなども,初めて報告されています。
 4月28日には,火災後に撮影の現場写真を処分していたことがわかり,4月30日には,爆発時の飛散物をいったん回収した後で元に戻していたことなども判明しました。
 ウソに嘘を重ねて,動燃は,墓穴を掘ってしまったのです。
 4月16日,科学技術庁が茨城県警に,動燃本体と環境施設部の当時の部課長3人を原子炉等規制法違反で告発しました。
 水戸地検・茨城県警では,虚偽報告判明の直後から捜査を開始しており,4月23日,県警が動燃本社など30カ所を家宅捜索しました。また,同日,市民らが,法人としての動燃と幹部3人を水戸地検に告発しました。
 しかし,動燃を告発した監督官庁の科学技術庁や国の責任は,もっと大きいはずです。ウソを重ねなければ進められない原発は,即刻断念するべきです。
② 新型転換炉「ふげん」で,重水漏れ
 4月14日,福井県敦賀市にある動燃の新型転換炉「ふげん」で,重水が漏れ,警報が鳴り響きました。動燃は,放射性物質トリチウムを大気中に放出し,4月16日には,11人の被曝が判明したのですが,県・市・科学技術庁への通報を,30時間後の4月15日の昼頃に行いました。この通報の遅れは,自治体と動燃が結んでいる安全協定に違反するもので,動燃の事故隠しの体質は,一向に改められていません。
 さらに,4月19日には,トリチウム漏れ事故は,過去5年間に19回あったが,4月14日の放射能漏れ事故を除く18件を,動燃は,地元へ通報せず,隠し続けていたこともわかりました。
 新型転換炉「ふげん」は,日本独自の原子炉という宣伝のもとに開発が進められて来ましたが,昨年,原型炉「ふげん」に続く実証炉(青森県大間町)の開発が,建設費の高騰を理由に中止となりました。実証炉の中止決定により「ふげん」を継続して運転する意味はなくなったのですが,科学技術庁は,試験研究を理由に10年間の運転延長を認めていました。この無意味な運転継続が放射能漏れ事故につながったのです。
③ 動燃の解体も視野に
 相次ぐ動燃の事故で,原発の安全神話は崩れました。政府は,たびかさなる不始末と一向に改まらない動燃の事故隠し体質に,重い腰を上げ,改革に乗り出しました。科学技術庁の設置した動燃組織改革本部では,動燃の解体も考えられています。安全性と情報公開のできない原発に,未来はありません。
 国の原子力政策である「核燃料サイクル」「プルトニウム・リサイクル」は,原発の使用済み核燃料から回収したプルトニウムを,ウランと混ぜ合わせて混合酸化物(MOX)燃料にし,高速増殖原型炉「もんじゅ」,新型転換炉「ふげん」や軽水炉原発で燃やそうというものです。それが,「もんじゅ」「ふげん」と,事故で停止し,プルトニウムを利用するところが殆どなくなりました。原発の使用済み核燃料からプルトニウムを生産する再処理工場もストップしたのですから,「核燃料サイクル」は壊滅したも同然です。
 すでに,高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故で,プルトニウム利用政策に国民の合意がないことも判明しています。国は,今こそ原子力政策を見直し,「核燃料サイクル」,プルトニウム利用政策を転換すべきです。そして,脱原発へと向かうときです。 

(4)能登原発をめぐる情勢
① 控訴審第8回公判は1996年6月19日,第9回公判は9月2日に行われました。能登(志賀)原発の地盤と地震の問題について,2回にわたって,原告団の申請した地質学者・生越(おごせ)忠(すなお)氏に対する主尋問が行われました。
 生越氏は,地質学の現状について「活断層にしても,地表面に露呈したものが分かっているだけ。地震が起き,新しいデータが分かれば分かるほど分からなくなってきた,というのが正直なところ」とした上で「それにもかかわらず,国・電力は,新しいデータを無視し,安全審査の見直しもしようとしない。地盤調査は不十分であり,地震の過少評価が目立つ。北電に至っては,お手盛りの岩盤評価までして立地を申請してきた」と厳しく指摘しました。
② 控訴審第10回公判は11月6日開催され,前2回にわたる生越忠氏の証言に対し,北電側の反対尋問が行われました。反対尋問の狙いは,①生越氏が地元の地震学者でなく,県内のフィールドワークをやってないことを裁判官に印象づけ,②北電側が提出した書証の確実な部分を生越氏にことさらに確認させ,北電の提出証拠がすべて正当であるかのように演出する,ことに腐心したようでした。
③ 1996年7月9日,北電は,情報非公開のまま,志賀原発1号機の使用済み核燃料64体を,仏ラアーグ再処理工場へ向け初搬出しました。前夜,沖合に停泊したパシフィック・ティール号(4600トン,英船籍)が,夜明けに原発沖の物揚げ場に接岸。10時前,海洋ゲートから,長さ6m・重さ約100トンものTN型輸送容器2基が,トレーラーで県道を横切り,10時過ぎ,物揚げ場の大型クレーンで船に積み込まれました。搬出前夜の7月8日,羽咋郡市勤労協連合会と原告団が,団結小屋で抗議集会を開きました。7月9日当日,早朝から350名が,輸送車の出て来るゲート前の県道をデモし,その後,輸送船が眼前に見える浜辺で搬出作業に抗議しました。
④ 志賀原発1号機の使用済み核燃料輸送で,「原子力防災を考える石川県民の会」(中垣たか子代表)など,県内の反原発11団体が,11月12日,事前情報の公開を北陸電力に指導するよう,県に申し入れました。中垣さんや北野進県議ら10人が県庁に西貞夫環境安全部長を訪ね,要望書を手渡しました。
⑤ 11月20日,石川県連帯労組会議や能登原発差し止め訴訟原告団のメンバーらが,羽咋市文化会館で,「志賀原発2号機増設反対講演集会」を開き,300名ほど参加しました。
 2号機で採用される改良沸騰水型原発(ABWR)の専門家,静岡大学工学部の小林浩夫教授は,講演の中で,今年8月に起きた新潟県柏崎刈羽原発6号機(ABWR)の放射能漏れ事故などを例に,危険性や情報公開がなされない現状を指摘しました。
⑥ 11月21日,通産省は,北陸電力の志賀原発2号機計画を97年3月に国の電源開発調整審議会へ上程するため,第1次公開ヒアリングを,志賀町ロイヤルホテルで開催しました。ともかく「スムースに完了」させようと,20人の発言者(反対派4名)と350人の傍聴者を一方的に選定して,「住民に説明した」とするセレモニーを行いました。
 問題の2号機は,135万kWで世界最大級のものです。柏崎刈羽6号機以外は,世界のどこも作っていない安上がりの巨大原発です。高騰する建設費を削減するため,日米欧で共同開発されて来ました。このため,①沸騰水型原発のアキレス腱=再循環ポンプを原子炉に内蔵し,②格納容器を原子炉建屋と一体化するなどして,従来型と比べ大きさは25%縮小,工期も大幅に短縮できるという。これらの危険性は,ヒアリングでは,予想通り全く問題にされませんでした。
 これに対し,県連帯労組会議は早朝から開場前で抗議すると共に,福祉会館広場で,400名が風雨の中で集会を開催しました。ずぶ濡れになりながら,増設反対を訴え高浜地区をデモ行進しました。
⑦ 11月29日,石川県は,3度目の原子力防災訓練を志賀・富来・中島・田鶴浜の4町で,関係機関と住民ら3600人の参加の下に実施しました。これを県連帯労組会議と自治労県本部は,過去2回と同様,約100名で監視と住民調査活動を行いました。
⑧ 1997年2月7日,「羽咋・子どもの未来を考える親の会」「原子力防災を考える石川県民の会」など,県内の50の反原発団体が,谷本正憲知事に,国の電源開発調整審議会(電調審)で審議される志賀原発2号機増設計画に同意しないよう求める要望書を提出した。
 2月24日には,志賀原発2号機(改良型沸騰水型軽水炉,出力135.8万kW)増設の前提となる知事同意に反対する県内の市民グループが,12月から取り組んでいた,「ちょっと待って!ハガキキャンペーン」で集まった葉書約2万8000枚を,谷本正憲知事に手渡しました。
 また,2月24日,社民党県連合と県連帯労組会議も,谷本正憲知事に対し,北陸電力が計画している志賀原発2号機の増設問題について申し入れをしました。その内容は,①3月の国の電源開発調整審議会に関連した知事の同意の保留,②国に対するプルサーマル計画など原子力政策の抜本的見直しの働きかけ,③県の防災計画・防災訓練の見直し,の3項目でした。
 こうした広範な県民の増設反対の声があるにもかかわらず,谷本正憲知事は,3月
25日,増設に同意する意見書を提出してしまいました。その結果,3月27日の電源開発調整審議会で,国の電源開発基本計画に組み入れられまし。
⑨ 控訴審第11回公判は,1997年3月3日,笹本淳子裁判長から窪田季夫裁判長に変わったため,弁論更新手続きを行い,岩淵弁護団事務局長が「世界は原発から撤退していることを念頭に置き,今後の審理を進めてほしい」と訴えました。
 第12回公判は,4月23日に行われ,原告側証人として,「原子力資料情報室」スタッフで『反原発新聞』編集長の西尾漠氏が立ちました。
 西尾さんは,①電力需給の観点から1号炉の運転は必要性がない,②地球環境にとって好ましいいエネルギー利用のあり方に,原発は逆行している,③必要のない1号炉の建設が,さらに必要のない2号炉の建設計画を促した,④1号炉を現に作ってしまったために,計画当初には考えられなかった問題までが押しつけられてきている,と述べました。
 「少しでも危険を小さくしようと思えば,原発の運転を取りやめて閉鎖すべきだ」と西尾氏が述べたように,危険な1号炉の運転をやめ,志賀原発2号炉の増設も断念すべきなのです。

2 珠洲原発をめぐる情勢(推進の動き)

(1)石川県の動き
① 県議会9月定例会
 1996年9月26日,9月定例県議会の代表質問に対し,谷本正憲知事は,珠洲原発について「7月の珠洲市長選は,原発だけが争点だったとは考えていない。貝藏治市長は住民との対話を公約に掲げていたので,合意形成への取り組みを見守りたい」と述べました。さらに,住民投票で民意を確認することについては「市の判断を待つほかない」と答えました。エネルギー政策全般については,「原発は大気への影響の点で,火力発電に比べクリーンエネルギーと位置付けられる一方で,放射性廃棄物の処理方法が確立されていないという問題点がある。エネルギー政策が国策であるなら,国としてもっと積極的に対応してもらいたい」と述べました。
② 谷本正憲知事の姿勢
 谷本正憲知事の珠洲原発に対する姿勢は,1997年4月29日発行の『北野進の県政リポート』No.34に詳しく書かれています。
 中西知事時代右肩上がりで伸びてきた「原発予算」は,下方修正されるようになりました。「珠洲原発担当職員」は,6人から4人に減員され,組織名も「電源立地対策室」から「資源エネルギー課」に変更され,新エネルギー導入の研究にも積極的に取り組んでいます。
 県議会での谷本正憲知事の発言は,1994年3月27日に当選した後の94年9月議会から,84年6月議会以来10年間続いてきた「珠洲市における原子力発電所の立地」という表現を消しました。そして,「電源立地(火電等も含む)は,基本的には地域振興につながる施策の一つであるが,原子力発電所の立地については,住民の合意を最大限尊重してまいりたい」と述べるにとどまっています。
③ 新旧2つの長期計画
 中西知事時代と谷本県政3年間の,新旧2つの長期計画を比較すると,中西知事時代の「21世紀へのビジョン」では,「珠洲地区の原子力発電所の立地を進める」としていましたが,谷本知事の「石川県新長期構想」では,「原子力発電」という表現は登場するものの,「珠洲」という固有名詞はありません。
 「新長期構想」では,県内を6ブロックに分け,その発展方向を示しています。能登北部地域は,「豊かな自然と歴史に育まれた伝統文化を活かしたリフレッシュとゆとりのまちづくり」を目指し,交通網の整備と半島地域全体の広域連携のもと,通年型・滞在型観光リゾートの拠点づくりや企業の保養所などの誘致,都市住民との継続的な交流の促進,長期保養型施設の整備,「能登ブランド」の産地づくり,資源管理型漁業の推進などが進められることになります。「珠洲原発の立地」には,全く触れていないのです。県政の中では,珠洲原発は,明らかに後退していると言えます。

(2)珠洲市の動き
A 市議会の動き
① 9月定例会で林幹人氏を名誉市民に選定
 最高裁の市長選無効判決を受けて,7月に市長を改選した後初めての市議会9月定例会初日の9月24日,貝藏治市長は5月の最高裁判決で失職した林幹人前市長を,市条例に基づく名誉市民にすることを求める提案をし,13対5で可決されました。
 貝藏市長は,「林氏は県議を10年,市長として11年間,一貫して市の発展と市民福祉の向上に努められた」などと功績を強調して名誉市民選定の同意を求める議案を提出しました。
 討論では,反原発派の市議5人で作る会派,珠洲市民会議の柳田達雄市議が反対討論に立ち,「前市長は,市民の総意を見誤り,関西電力の事前調査を歓迎し,市民の間に大きな亀裂と混乱を招いた。さらに,田畑良幸氏らとともに寺家で土地を先行取得するなど,原発にからむ市民の不信をこの上なく増長させた」「3年前の市長選で,多くの疑惑がありながら,市長として疑惑を解明し,再発を防ぐ努力をしなかった。そのことが,今回の田畑助役逮捕に象徴される不名誉な醜態を招いた」などと反対しました。
 これに対し,自民党市議13人で作る会派,清和会の森井洋光市議が,飯田港の整備や小屋ダムの完成,奥能登ビーチホテルの建設を初めとする鉢ヶ崎リゾートの整備,建設中の新総合病院など,林氏が手掛けた事業を上げ,「卓越した識見と手腕で,市の発展に寄与された」と賛辞を述べ,自民党議員が賛成しました。
 無効となった1993年4月の市長選挙には,林組関係者の不正転入があり,林陣営と市選管との癒着がありました。96年7月の再選挙でも田畑助役による選挙違反があり,助役を任命していた林氏の責任は免れられません。
 不名誉市民の林氏を名誉市民に選定した貝藏市長・自民党市議は,珠洲市の歴史に汚点を残したと言えます。
② 9月定例会の一般質問
 1996年9月27日,市議会9月定例会の一般質問で,貝藏治市長は,議員の質問に答え,「市庁舎が家宅捜索されたことは残念で,市民に心配,不安をおかけした。おわびしたい」と,やり直し市長選に絡み,田畑良幸前助役(70)が地位利用などの公選法違反で県警に逮捕された際,市庁舎内に捜査が及んだことを陳謝しました。
 落合誓子市議が「現職の助役逮捕という事態で全国に恥をさらした。まず市民にわびるべきだ」と質しました。また「最高裁で無効判決が出た3年前の市長選は,どういう理由でずさんな選挙になったのか事実解明がされていない。裁判所から返還された関係資料で調査すべきだ」と追求しましたが,市長は「調査は考えていない」と答えました。
 瀬戸勢一市議(自民)は,「(原発立地を想定した)地域振興ビジョンを早期に策定すべき。また,電源立地は国策であり,谷本知事の珠洲入りを要請できないか」と質問しました。貝藏市長は「現在,若手職員を中心とするワーキンググループで基本計画を策定中で,市民の声を反映したものにしたい。知事への現地入りの要請は今後を見極めながらにしたい」と述べました。
 小林市議(自民)は,電源立地に理解を示さない市民との対話法について質問しました。貝藏市長は「フォーラム,シンポジウム,地域懇談会などが考えられ,現在,最も効果的な方法を協議中」と答えました。議会後,記者の質問に,年内に市民対話の第一弾に着手したい考えを示しました。
③ 9月定例会で七野利明氏の助役選任
 10月3日,9月定例議会最終日,空席だった市助役に,前県土木港湾振興対策室次長,七野(しちの)利明氏の選任同意を求める議案が市長から追加提案され,全会一致で可決されました。
④ 12月定例会
 1996年12月13日の一般質問で,原発推進派の小泊辰男市議(自民)は,「原発は安全性が確立されるのなら,安定企業として確実に地域振興に貢献する。判断材料にするため,原発建設を前提にしないことで,事前調査の受け入れを決めている地元(三崎町寺家)の意向をどう受けとめるか」と質問しました。これに対して貝藏市長は「調査実施には,用地の確保と関係者の合意が必要。早期実現のため地元に出向いて理解と協力を得るべく対話を重ねたい」と述べました。   
 この他,自民党市議の質問に答えての市側の答弁は,次の通りでした。「原発立地を想定した地域振興計画策定のため,平成9年度に,校下単位で市民の要望,提案を聞き,策定委員会(仮称)を設置してまとめる」「電源立地への理解と学習のため,科学館(PR館)はぜひ必要。関係機関との連携を強めたい」
⑤ 3月定例会
 1997年3月の市議会定例会の一般質問には,過去最高の11人が立ち,3月14日(金),17日(月)の2日間にわたって行われました。
 新年度予算案に,「電源立地による地域振興策についての市民フォーラム」開催という新規事業が盛り込まれており,「市民フォーラム」の性格について,市側と反原発派が対立しました。
 3月14日,貝藏治市長が,推進派の小林信忠市議の質問に「原発立地を想定した地域振興計画策定の集大成として,市民の意見を聞く場にしたい」と答弁したためで,反対派の柳田達雄市議は「反対派との対話にならない」「これまで(林前市長当時)と話が違う」などと強く反発し,「このままでは(反対派は)参加できない」などと迫りましたが,貝藏市長は「多くの市民に参加してもらいたい。原発の安全性を論議する場合は専門知識が必要になり,フォーラムではどうか。検討課題にしたい」と述べるにとどまりました。
 3月17日の一般質問2日目でも,市民フォーラムをめぐり,市側と反原発派が再び対立しました。その原因は,市がフォーラムの主テーマに「原発立地を前提にした地域振興」を予定しているためです。反原発派は「原発の是非を幅広く議論すべきだ」と迫り,とりわけ原発に対する安全性の認識の違いを問題視し,市側の見解を求めたが,平行線でした。貝藏治市長は,議会後,3月14日の答弁と同様に「安全性の議論は高度な専門知識が要求され,フォーラムにはなじまないのでは…」とコメントしました。
 反原発派は「原発は推進だが,反対派とも対話する」とした貝藏市長の公約違反の疑いもあるとして,市側に見直しを迫って行く方針です。
 貝藏治市長は,1995年12月8日の「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故に続き,3月11日には東海村の再処理工場で火災・爆発事故が発生し,日本の原子力政策が,根本的な見直しを迫られているというのに,そのことに目をふさぎ,原発依存の市政を続けようというのは,余りにも時代錯誤です。答弁の中で,繰り返し「原発の安全性を論議する場合,専門知識が必要になる」と言っていますが,それは間違いです。専門知識のない市民でも,原発の推進・反対の討論を聞けば,安全か安全でないか,すぐ分かります。万一フォーラムを開くなら,原発の安全性論議を中心にし,原発誘致の可否を話し合うべきです。
B 珠洲原発関連予算による事業
 『広報すず』号外「原子力特集」('97.3.31,珠洲市電源立地対策課発行)によると,珠洲原発関連の予算を使った事業は,次の通りです。
① 電源三法交付金事業 [国からの補助金]
 ◇重要電源等立地推進対策補助金(7200万円)
 ★先進地視察・勉強会など
  ・区長会や青年団など各種団体・組織から募る先進地視察や勉強会
  ・「電気のふるさとじまん市」(千葉県幕張メッセ,'96.11.1~3)
  ・「エネルギープラザ伊方'96」(愛媛県伊方,'96.11.13~15)
  ・海外原子力事情の調査視察
 ★地域振興に伴うイベント・開発調査事業など 
  ・第7回高屋港まつり(高屋港埋立地,'96.8.15)
  ・第5回珠洲市産業まつり(健民体育館,'96.11.2~3)
  ・珪藻土商品開発事業
  ・地域振興計画素案作成調査事業
 ◇電源立地地域温排水等対策費補助金(6000万円)
  ・漁業協同組合や漁業関係者を主体に勉強会・視察研修
  ・調査事業(寺家地先海域の漁場資源調査,養殖・中間育成等の試験調査)
◇広報・安全等対策交付金(2250万円)
  ・各地区町内会や各種団体・グループの他,一般公募による原子力発電所の視察研修
  ・講演会・学習会・広報誌の発行・広報掲示板設置など
② 県と市が実施している補助事業
 ◇原子力広報活動費(850万円)
   寺家地区原子力発電対策委員会や高屋まちづくり推進会などの活動費補助及び講師謝礼などに活用
③ その他の関連事業
 ◇電源地域産業育成支援補助金(電源地域振興センターが通産省の補助金や委託を受け実施する事業)
  ・商工会議所の販路開拓手法や農業協同組合の特産開発,市町村の地域振興ビジョンの作成などで,それぞれの職員の研修会等
  ・特産品開発技能,村おこしのノウハウ等のある専門家を現地に派遣する事業
  ・電源地域特産品の販路拡大を支援するため,物産展や物産店などを実施する事業
 ◇電源地域振興促進事業費補助金
  ・電源地域振興特別融資促進事業
  ・電源過疎地域等企業立地促進事業
  ・電源地域産業再配置促進事業

(3)電力会社の動き
① 関西電力・高屋の動き
 関西電力は,珠洲市や「高屋町まちづくり推進会」と結託し,町づくりと共存共栄で,原発を作ろうと,足しげく高屋町を訪問し,推進工作を続けています。1996年8月15日に実施した,第7回高屋港まつりでも,関電は,原子力のPRコーナーを設け,広範な取り組みを積極的に支援していました。
 1997年1月15日に長橋海岸に漂着した重油は,高屋海岸にも押し寄せ,住民が回収に当たりました。関電の職員も,高屋の専属であるかのように,連日,数十名も重油回収に繰り出していました。
② 中部電力・寺家の動き
 中部電力は,寺家地区原子力発電対策委員会に肩入れし,原発と共存共栄する町づくりを検討しています。
 寺家地区の若手住民で組織する「新しい寺家を考える会」も,1997年5月12日,石川県と珠洲市,中部電力に対し,立地事前調査の早期実施を求めて陳情しました。奥浜勇信会長ら役員3人と,上田幸雄県議(自民)が岩本荘太副知事を訪問し,「もう待てない」などと記した谷本正憲知事あての要望書に,地区民153人の署名を添えて提出しました。
 奥浜会長らは,設置要望から20年経過していることや,昨年,推進派の貝藏治市長が誕生したことを踏まえ,「住民合意を判断する物差しが必要」と,県の積極的な対応を期待する発言をしました。岩本副知事は「知事も私も,何よりも地元の総意が大切と考えている」「海づくり大会以降の珠洲市の活性化も不可欠だ」などと答えました。
③ 珠洲電源開発協議会
 珠洲電源開発協議会は,頻繁に,テレビ・ラジオにコマーシャルを流し,原発推進の宣伝に努めています。ウソも百回言えば本当になる,とでも思っているのでしょうか。私たちの払う電気料金を,そんなコマーシャルに使うのはもってのほかです。

3 反原発運動の状況

(1)珠洲市長選無効訴訟
① 最高裁で選挙無効確定
 1996年5月31日(金)午前10時半過ぎ,最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)は,4人の裁判官の全員一致の意見で,「選挙の手続き全般わたって厳正かつ公正に行われたのかどうかについて疑いを抱かざるを得ない」と述べ,珠洲市長選挙を無効とした名古屋高裁金沢支部判決を支持し,県選挙管理委員会側の上告を棄却しました。
 これにより,選挙の無効が確定し,同時に林幹人市長の当選も無効となり,判決の言い渡し時点で失職しました。そして,新市長の決定まで,田畑良幸助役が市長の職務を代理することになりました。この結果,最高裁からの判決書が珠洲市選管に届いてから(6月4日到着)50日以内に,やり直し選挙が行われることになりました。 
 1996年4月8日,原告団の3名と弁護団の2名の計5名が,最高裁判所に出向き,第二小法廷の調査官と書記官に,原告2,044名の委任状と,市内外から集めた21,554名の上告棄却の要望書,それに県選管の4点の上告理由への反論と上告自体の不当性を主張した準備書面を提出しました。その時面談した2人の弁護士は,最高裁が正式に県選管の上告を受理したのは2月14日で,「もう2カ月もたっていますね」と言われ,委任状の提出についても,「いやにのんびりしていたのですね」と言われたという。委任状はまだ数十名出ていないのだが,「もうそれで十分です。本日の時点で珠洲で得られたものがあれば至急送付して下さい。それ以降,新たに集めなくて結構です」と,事務的作業を急いでいるのがわかったという。
 最高裁は,「百日裁判」という法の主旨にそうよう努力していたのです。第二小法廷が,上告を受理した2月14日から数えると5月23日がちょうど百日目にあたり,その前に判決が出るかも知れないと,私達は今か今かと首を長くして待っていたのでした。
 6月1日夜,乗光寺での「珠洲市長選挙無効訴訟勝利確定報告会」で,奥村回弁護士は,「4月8日に行ったとき,ほぼ(判決が)できていたんですね。5月31日の判決は,今までになく早い。画期的だ。最高裁の判決は,そっけないのが多いのだが,高裁判決をさらに踏み込んで,選挙全体がおかしいと認定してしまった」と話されました。

② 最高裁の判決書の概要
 最高裁が,県選管の上告を棄却し,市長選挙の無効を確定した判決の根拠は,「不在者投票の問題」と「開票事務処理の問題」を中心にしています。その要点は,次の通りです。 
 「不在者投票の管理執行は,法が不在者投票の要件,手続き及び様式を厳格に定めた趣旨を没却した極めてずさんなものであるというほかはない」と断言し,「全投票者の約1割に当たる1,713人という多数の選挙人が不在者投票を行い,しかも,選挙人が申し立てた事由が不在者投票事由に該当すると認められないのに,不在者投票が受理されたものが668票もの多数に上るというのであるから,不在者投票の管理執行に関する右の各違法が,不在者投票の乱用や不正投票の混入を将来した可能性は否定し難い」と認定しています。
 「不正投票の混入」というのは,高裁判決にはなかった表現です。最高裁は,高裁が「偽造投票用紙が混入したこと及び市選管関係者において投票の抜き取りが行われたことを認めるに足りない」と判断したことより踏み込んだ,極めて重要な判決を下したのです。 
 加えて,各候補者の得票に占める不在者投票の割合(林候補が12.5%,樫田候補が6.5%)をも考慮し,不在者投票の管理執行に関する違法は,「不在者投票の全体についてその公正を疑わしめるに足るもの」と認定しています。そうであれば,「不在者投票の総数(1,713票)が当選者と落選者との得票差(958票)を上回っている本件においては,不在者投票の管理執行手続き全般にわたる右違法だけをとらえてみても,それは,選挙の結果に異動を及ぼすおそれがある」と判断したのです。
 「開票手続き」に関しても,「平成5年4月18日の午後9時55分ころの選挙会の発表によれば,投票数が投票者数を16票も上回っていたこと,審査裁決に際する点検によって樫田候補の得票数に16票もの減少があったことに加え,投票者数や不受理票数の確定資料として重要な意味を持つ各投票区の投票録の点検が選挙会の会場以外の場所において行われ,開票事務従事者以外の第三者を呼び入れて投票録の訂正が行われたことなどからすると,本件選挙の開票事務の処理は,著しく厳正を欠いていたものというほかはない」と断言しています。 
 高裁判決は,投票数が二転三転したことを,具体的に言及することなく,「開票手続きの管理執行」に対する規定違反として指摘するのみでした。それに比べ,最高裁は,「16票も上回っていた」り「減少があった」ことを明記し,別室での投票録の点検や第三者による訂正などを含めて「著しく厳正を欠いていたもの」と断じています。偽造投票用紙には言及していませんが,不正投票の混入や投票の抜き取りが行われたことを推定した判断といえます。
 最高裁判決は,最後に「前記の不在者投票の管理執行に関する違法に,このこと(開票処理の問題)も併せ考慮するならば,本件選挙の手続き全般にわたって厳正かつ公正に行われたのかどうかについて疑いを抱かざるを得ず,その結果についても疑念を生ずるところである。これらの違法が選挙の結果に異動を及ぼすおそれがあることは,一層明らかである」と理由付けています。
 このように,最高裁判決は,違法行為が決して事務職員の単純な手続きミスによるものではなく,極めて組織的な不正工作が存在した可能性を指摘したものと解されます。
③ 「不正選挙を糾明する会」の記者会見
 1996年5月31日午後3時,珠洲労働会館で記者会見が行なわれました。「不正選挙を糾明する会」会長の国定正重氏が,会場に駆け付けた約30人の支援者らに見守られ,
「市長選挙無効確定を受けて」の声明文を読み上げました。その全文は,次の通りです。
 本日,最高裁判所による判決で珠洲市長選挙の無効が確定しました。民主主義の根幹である公正な選挙の実現を求めてきた私達の運動の正当性が,ついに最高裁によっても認められたことに対し,まず率直に感謝します。 
 問題の市長選では,その前哨戦の段階から,最も厳正・公正であるべき市選管をもまきこんだ,まさに市役所ぐるみの違法や不正がありました。私たちの異議申し立てに,市や県の選管が適切に対応していたならば,すでに再選挙が実現していたことを思えば,本日まで実に3年間もの時間を経過させてしまったこれら選管の責任は極めて重大であると言わざるを得ません。
 さらにまた,選挙における数々の失態の責任をすべて市選管にのみ転嫁し,自らは何らの反省も引責もしようとはしない市当局,自らが事実上のオーナーである株式会社林組の社員による組織的な不正転入事件等に関してすら無関係であるかの如く沈黙し続けた林幹人氏の態度は,疑惑の解明を拒み,市民を愚弄し続けるものでした。
 司法による判断は,不正や犯罪を暴くまでもなく選挙全般の管理執行が杜撰で,それだけで選挙無効であるとするものでした。私たちは,地方分権の拡大や住民自治の定着を目指す前提としても,公正で信頼できる選挙の実現を求めています。投票用紙の偽造,追加・抜き取り・書き換え等の真相,市役所・林組ぐるみの違法の実態を明確にし,再発を防止しなければなりません。私たち「不正選挙を糾明する会」は,本日の最高裁判決に支えられて,珠洲における公正で民主的な選挙の実現に向けさらに運動を継続します。そして,9月の「全国豊かな海づくり大会」に当市を訪れる14,000を越える人々を,生まれ変わった民主的な珠洲として歓迎できるよう,全市民が一丸となることを訴えます。 
 最後に,これまで献身的に私たちを支えてくれた16名の弁護団,物心両面で運動を支援していただいた多くの人々・団体に心から感謝すると共に,裁判所を含めたそうした方々の期待に応えるべく努力することを誓います。

 この後,樫田凖一郎氏は,「正しい者が勝ったという気持ちです。最高裁で認められ,うれしい。この地域で民主主義を定着させる運動を皆さんと一緒にやって行きたい」と感想を述べました。マスコミの質問も樫田氏に集中しましたが,「出馬要請があれば,選挙に出る」と明言されました。
④ 珠洲市長選挙無効訴訟勝利確定報告会
 1996年6月1日夜,乗光寺に350人ほどの人が集まり,「珠洲市長選無効訴訟勝利確定報告会」が行われました。先ず,「不正選挙を糾明する会」会長の国定正重氏が立ち,「林さんは,『選管の事務手続きの誤りとはいえ残念だ』と言った。首長が責任を取らず,他人ごとのように言うのにあきれた」と怒りをあらわにされました。そして,「私の子どもから,おやじがんばれと電話がかかって来た。議員を止めて楽をしようと思ったが,楽できないなと思った。今後ともがんばっていきましょう」と,古稀にして,なお道半ばであり,珠洲の民主化を目指す覚悟を述べられました。
 原告弁護団事務局長の奥村回弁護士は,最高裁判決の感想を述べた後,「きれいな人で,きれいな海を守りましょう」と,エールを送りました。弁護団へのねぎらいの言葉が出ると,「原告の皆さんが頑張ったから,弁護団もここまでがんばれた」と,顔をほころばせました。

(2)市長選の取り組み
① 樫田凖-郎後援会総会
 6月1日夜の「珠洲市長選無効訴訟勝利確定報告会」に引き続いて,「かしだ凖一郎後援会総会」に移り,落合誓子市議が,130名余りの役員名を読み上げました。そして,「この判決で3年前に戻っただけ。ここから始まるのです。裁判に勝っても選挙に勝たねば意味がない。最初で最後のチャンスかもしれない」と話しました。拍手で役員の承認を取り,後援会会長に決まった国定正重氏の挨拶がありました。続いて,3人の市民が立ち,「樫田凖一郎氏を市長候補に推薦します」と発言しました。
 拍手の中,樫田氏が演壇に立ち,次のような話をされました。
「昨日,判決が出てから電話がかかって来,パンクしそうだった。北海道から九州まで,全国から電話があったが,以前のようないやがらせはなかった。その中で,東京からの電話が印象的でした。『前に珠洲へ行ったことがあり,高屋のきれいな海を見ました。そこに,なぜ原発を作るのかと思っていました。最高裁判決が出,NTTで調べて電話しました。ぜひがんばって下さい。原発がなくなれば,珠洲へまた行きます』と言われた」「親戚も今日回って来た。みなさんの要請に応えられるよう,前向きに検討します」
② 立候補の記者会見
 1996年6月3日午後2時から,珠洲労働会館で,珠洲市長選に立候補を表明した樫田凖一郎氏が,支持者約40人とともに記者会見しました。
「私たちは,やはり原発に頼りません。原発計画を撤回して,みんなでお互い心を開き,真剣に珠洲の未来について語り合おうではありませんか」
「私はまず,目前に迫った『豊かな海づくり大会』の成功を目指し,大会で実現するであろう全市民一丸となったエネルギーを,大会成功以後は豊かな農村づくりや豊かなまちづくりにも生かして行きたいと思っています」
と述べ,まちづくりの提案として,次の3点を挙げました。 
1 珠洲を自然食品の生産と供給の拠点と位置づけ,農・漁業を中心とした一次産業の活性化を図ります。
2 すべての人々が喜びと希望をもてるまちづくりをすすめます。
3 能登空港を積極的に活用し,交流人口の拡大を目指します。
 そして,「以上のことを実現させ,だれもが生き生きと暮らせるすばらしい珠洲,“公正な珠洲,住みよいまち”をつくります」と結びました。
③ 林陣営は貝藏治氏を擁立
 林陣営は,突然の最高裁判決を受け,さすがにショックは隠し切れなかったが,自民党などの組織をフルに活用し,急激な巻き返しを図って来ました。 
 6月4日午前11時,林幹人前市長は,珠洲商工会議所で開かれた連合後援会役員会に出席し,「足の具合が悪く,短期決戦の選挙戦には耐えられない」と,再選挙の出馬断念を表明し,了承されました。席上,林氏は「珠洲の城を反原発派に渡すわけにはいかないが,体がいうことをきかない。私と同じ思いの貝藏氏を後継に推したい」と述べました。市総務課長の貝藏治氏(58)の擁立は全会一致で決まり,4日朝,市役所に辞表を提出した同氏が,途中から役員会に出席しました。
 6月4日12時20分,林氏と貝藏氏が記者会見。貝藏氏は「原発については,まだ住民に反対の人もいる。十分市民と話をしながら取り組みたい。基本的には,林市政を継承したい」と出馬表明しました。林氏の連合後援会は4日で解散し,貝藏氏の後援会にすべて移行しました。
④ 支持基盤 
 樫田陣営は,珠洲原発反対ネットワークなどの反原発グループ,珠洲市勤労協単組協議会(旧珠洲地区労センター)などの労組,蛸島漁協,樫田氏のかつての同僚・生徒などに支えられた草の根の運動を展開しました。対する貝藏氏の陣営は,自民党推薦とはいえ,実質的には公認同様で,代議士・県議・市議などの強力な応援があり,林前市長から引き継いだ後援会組織がありました。おまけに,珠洲市最大の労組,市職員組合を抱き込み,6月20日には,推薦を取り付けました。まさに組織力をフルに使った運動でした。
⑤ 前哨戦
 前哨戦は過熱し,6月11日,失職した林幹人前市長の離任式で,職員約250人を前に,市長職務代理者の田畑良幸助役は「我々,総意を結集して(林)市長さんの後継者として貝藏氏を擁立することをお誓い申し上げます」と,挨拶を述べました。行政のトップの立場にある市長職務代理者が,勤務時間中に,前市長の離任式の名の下に職員を集め,特定の候補者の支援を求める演説をしたことは,前回以上に露骨な市役所ぐるみの選挙を企てていることを露呈する出来事でした。
 これに怒りを感じた,樫田凖一郎後援会は,6月13日,市長職務代理者の田畑助役に,発言を撤回し,辞職するよう申し入れました。が,退けられ,6月27日,田畑助役を公職選挙法違反(事前運動,公務員の地位利用)の疑いで珠洲署に刑事告発しました(後に起訴され有罪が確定)。
⑥ 選挙戦
 7月7日,珠洲市長再選挙が告示されました。この選挙は,最高裁判決で前回の選挙事務を「極めてずさん」と指弾された市選管が,今度こそ不正のないきれいな選挙をするかどうか,注目される選挙でした。また,原発が争点の選挙で,開票の結果次第では,国の原子力政策にも影響を及ぼしかねない選挙でした。
 選挙期間中,樫田氏は「原発をなくして,公正な市政を実現しよう」と訴えましたが,貝藏氏は,原発を争点から外し,対話路線を打ち出し,樫田陣営を中傷し,圧力をかけました。得票数は,樫田凖-郎氏が7,498票,貝藏治氏が9,356票でした。
 ところが,投票日の翌日('96.7.15),朝から県警捜査二課と珠洲署が市役所に家宅捜索に入るとともに,田畑助役を公職選挙法違反(公務員の地位利用,事前運動)で取り調べ,午後5時45分,逮捕しました。そして,田畑助役は,7月31日辞任しました。
 市役所の課長等は何日間も警察の事情聴取を受け,またしても市役所ぐるみの不正選挙をしたことが明らかになりました。今後とも,反原発,不正選挙糾明の住民運動を推進し,民主主義の実現を目指さねばなりません。
 以下に,活動のあらましを記します。
 1996.6. 1(土) かしだ凖一郎後援会総会
6. 3(月) かしだ凖一郎出馬記者会見
 この他,
 地区代表者会議(6/5,6/11,6/18,6/25,7/2,7/9)
 合同選対会議(6/13,6/19,6/26,7/3,7/10)
がありました。

(3)県議会での取り組み
① 1996年9月定例会
 1996年9月定例会の予算特別委員会で,北野進県議は,「1.珠洲市長選挙について,2.知事の政治姿勢について,3.原発問題について,4.新エネルギーの導入促進について」質問しました。その中で「志賀原発2号機の知事意見は,広く県民の意見を聞き,慎重に見極めてほしい」と質したのを受け,谷本正憲知事は,次のように答えました。
「志賀町や隣接市町村の意向が一番大事なポイントではないか」「原発問題は,省エネ,エネルギーセキュリティの確保,CO2問題,放射性廃棄物問題などの中,電力の確保,選択をどうするかという問題である。一方で,立地による地域振興を期待している地域もある。一電力会社の問題ではなく,国策として国が考え方を示すことが大事である。ほとんどの政党が,原発は過渡的エネルギーとしてやむを得ないと位置づけており,地域住民の思いと本当に合致しているのかどうか分かりにくいが,すり合わせも大事である」
 原発問題に対する谷本知事の考えが出ています。「原発は,国策として国が考え方を示すことが大事である」という箇所にひっかかりますが,「地域住民の思いと本当に合致しているのかどうか,すり合わせも大事である」という答弁には,住民合意を大事にする,一貫した知事の姿勢が感じられます。
② 1996年12月定例会
 県議会12月定例会で,谷本正憲知事は,提出議案説明の中で,「電源立地は,基本的には地域振興につながる施策の一つであるが,原子力発電所の立地については,住民の合意を最大限に尊重してまいりたい」と述べています。珠洲原発に対する従来通りの立場が,ここに出ています。この後「志賀原子力発電所2号機の設置にかかる第一次公開ヒアリングが必要性と安全性に対する理解を深めることを目的に実施された。今後とも,手順を追って厳正に環境審査等を進めるとともに,環境保全,安全確保に電力会社を指導していきたい」と述べました。
 北野進県議は,県政改新連合を代表し,3度目の代表質問をしました。その中で,「珠洲原発は,対話の前にやるべきことがある」として,「衣の下に鎧どころか,刀が丸見えの状態では話し合いどころではありません。対等の関係づくりには,原発関係予算の削除,電力会社の撤退が不可欠です」と質しました。これに対し,谷本正憲知事は「話し合いが(貝藏)市長の公約なので,引き続き広報活動は実施していく」と答えました。
③ 1997年2月定例会
 1997年の県議会2月定例会で北野進県議は,3月6日,18日と,2度にわたる一般質問で,「原発を取り巻く状況は大きく変わった。橋本内閣は,発電施設への過剰投資削減に向けた見直しを開始した。三重県では,自民党県議団が芦浜原発の3年間凍結を知事に要請した」「動燃の東海再処理工場で火災・爆発事故が起こり,原発を取り巻く情勢は変化した。志賀原発2号機の知事意見は保留せよ」と,原発行政を総点検しました。
 しかし,志賀原発2号機の知事意見は,1号機の時の知事意見よりも,安全対策,核燃料サイクル,情報公開などに関しては,厳しい意見を盛り込みましたが,「2号機建設に異議なし」でした。
 また,珠洲原発については,県議会の中で,原発推進の議員からも,県の取り組みを促す発言がほとんど出なくなっているそうです。

(4)市議会での取り組み
① 1997年3月定例会
 1997年3月14日の一般質問で柳田達雄市議は原発問題にしぼって質問しました。
「珠洲市民に対し“原発の必要性”を訴える最大の根拠は何か。それは,国や関電・中電が言う必要性と一貫して同じだといえるのか」「電力は地元との共存共栄と言うが,どこまで信じ,いつまで珠洲市の命運を電力にゆだねるのか」
「“安全性”は視察で確認できるのか。多数の市民が視察した美浜原発・もんじゅ・東海村などの事故は,視察で予見できていたのか。3月13日に柏崎原発を視察した市内の団体は,当日発生した同原発の事故の正確な説明を受けたか。公民館や区長会にノルマを設定して視察者を募集させるのも問題だ」
「原発立地についての市民の合意は得られていない。あきらめよ。市長選挙を無効とした最高裁も,田畑助役を有罪とした金沢地裁も,“原発推進”に起因する犯罪として認定している。住民に亀裂を生んだ行政の責任は重大だ」
「常に“正しい理解”という表現で原発の“安全性”と“必要性”を吹聴しているが,それを認めない市民は正しい理解に欠けるというのか。その科学的根拠はどこにあるか」
「福井県では,国策である“プルサーマル計画”を拒んでいる。何を危惧していると理解するのか。福井県で原発について開催した県民フォーラム・原子力円卓会議については,どう理解しているか」
「電源立地による地域振興策についての市民フォーラムを開催するという新規事業が盛り込まれている。原発に関してのフォーラムを開催するなら,住民合意が得られていない“安全性の確保”について議論すべきである。フォーラムは,異なる見解を公平に扱い,市民の判断に資するべきで,林市長が議会で答弁していたのもそうしたフォーラムの検討であった。貝藏市長は,選挙公約で“反対派との対話”を掲げていたが,その点で公約違反でもある。少なくとも半数の市民が参加できないようなフォーラムは,さらに市民の間に亀裂を深めるだけであり,それでも強引に開催するなら,阻止を目指さざるを得ない」
「“原発推進”という住民合意はとても無理だが,“住民投票で決めよう”という合意なら可能だろう。住民投票条例を制定すればどうか」
 以上の質問に対し,市当局は,「原発は,市の活性化や地域振興の起爆剤となりうるから必要だ」「共存共栄は成り立つ」「視察は有効」「市民の理解は着実に深まっている」「立地に同意しない市民を“正しい理解をしていない”と決めつけているわけではない」「地域振興について市民の議論の場としてフォーラムを開催し,市民の意向を反映した具体策を作る」「議会制民主主義が原則で,公選法が適用されない住民投票はなじまない」などと,誠意のない答弁をしただけでした。
② 1997年6月定例会
 1997年6月17日の一般質問で,市が11月ごろに開催を予定している市民フォーラムについて,貝藏市長は「純粋に珠洲市の地域振興を考え,議論する場にしたい」と説明しました。テーマは,「あくまで地域振興」とした上で,原発可能性調査の住民合意の問題と,市民フォーラムは別問題であるとの考えを示し,理解を求めました。
 また,市長は,フォーラムでは市若手職員からの提言や「市長と語る会」など一連の市民対話の成果を報告すると共に,地元産業界代表によるパネルディスカッションを盛り込む考えを示し,フォーラムを通じて「珠洲市の将来ビジョンを具体化させていきたい」と述べました。市によると,市若手職員の提言とは,若手ワーキンググループが今春にまとめた,原発立地を前提にした地域振興策を指します。答弁の中で,市長は,先頃スタートさせた市内24地区巡回の市民懇談の席上でも,同振興策の要約版を住民に示していくと述べました('97.6.18付『北陸中日新聞』)。
 貝藏市長は,市民フォーラムは「原発と別問題で,あくまで地域振興を考えるもの」と言いながら,市民フォーラムに報告する予定の市若手職員の提言は「原発立地を前提にした地域振興策」であり,市長が3月定例会で「電源立地による地域振興策についての市民フォーラムを開催する」と発言したのと同じです。これでは,市民にウソをついているとしか言えません。

4 反連協の取り組みと経過

(1)珠洲市長選
 1996年5月31日,最高裁の無効判決を受けた「やり直し市長選」に,反連協の特別幹事である,樫田凖-郎氏が再度立候補されました。今度こそ勝利して,原発のない珠洲市にしたいと,反連協は珠洲市勤労協単組協議会やネットワークの市民とともに全力で選挙を戦いました。
 反連協役員は樫田凖-郎後援会や選体本部の役員を積極的に担いました。樫田凖-郎後援会の会長には,国定正重(特別幹事)が,副会長の一人にはH氏(幹事)が入りました。選体本部には,副本部長に,長出広光(幹事),事務局長に柳田達雄(副会長),事務局次長に柳谷守人(事務局次長)が,それぞれ入りました。
 珠洲市勤労協単組協議会と社民党珠洲支部・反連協との「かしだ合同選体」にも,反連協役員の河岸二三・砂山信一・柳谷守人・柳田達雄・O氏が入りました。
 こうして,わたしたち反連協役員も,労働組合と市民が一丸となった,歴史的なやり直し市長選挙に,総力を上げて取り組みました。
 7月14日の開票結果は,樫田凖-郎7,498票,貝藏治9,356票という,残念な結果に終わりました。しかし,投開票翌日の7月15日,市長職務代理者の田畑良幸助役が,公職選挙法違反(公務員の地位利用,事前運動)で逮捕されたことで明らかななように,やり直し市長選もまた,市役所ぐるみの不正選挙だったのです。この市長選挙は,「珠洲にとって恥の上塗り」でした。
 私達の珠洲原発反対運動は,今後,この地に民主主義を根付かせる運動と連動し,さらに前進させなければなりません。

(2)衆議院選挙
 小選挙区比例代表並立制で初めて行われる第41回総選挙は,1996年10月8日公示され,12日間の選挙戦を経て,10月20日投票がありました。解散総選挙に向けて政局が急速に動き始めたのは,8月に入ってからでしたが,情勢は,中央・県内ともに複雑でした。なかでも,第三局の結集を目指す浸透作りの動きは複雑でした。社民党の動きが遅々として進まない中,民主党が急浮上して来ました。
 珠洲市勤労協単組協議会は,96年4月の定期総会で,衆議院解散総選挙の時は,鍵主政範氏の勝利に向けて,県連帯労組会議と連携し闘うことを決定していました。その鍵主氏は,社民党を離党し,民主党の公認として石川3区から立候補することになりました。県連帯労組会議も,小選挙区は鍵主政範氏,比例区は民主党の躍進を目指すことを,決定していました。
 鍵主政範候補は,「原発に頼らない地域づくり」で「能登を,日本の安らぎの里に」するという公約を掲げており,反連協役員も,珠洲市勤労協単組協議会の選対に加わって,選挙戦の一翼を担いました。
 珠洲市内の反原発グループでつくる「珠洲原発反対ネットワーク」は,93年7月の前回選挙では,原発反対を掲げた社会党公認の鍵主政範候補を支持しましたが,今回は,同じ鍵主候補が立つとはいえ,自主投票になりました。
 投票結果は,次の通りでした。
  [石川3区の投票総数]
   鍵主政範(民新)  14,129    瓦  力(自前)  92,820
   矢田富郎(無新)  90,798    古川孝作(共新)  6,471
[珠洲市の投票総数]
   鍵主政範(民新)  2,326   瓦  力(自前) 7,534
   矢田富郎(無新)  3,795    古川孝作(共新) 192
 鍵主政範氏の得票数14,129票は,得票率6.92%で,前回(得票数37,679票,得票率19.59%)を大きく下回り,かつてない大敗北となりました。
 社民党の第三局結集が失敗し,一部が民主党へ合流して行く中で,これまで社民党に入れていた反原発票が漂流し,民主党に行かなかった。民主党の原発政策もあいまいだった,と言えます。
 珠洲では,あらゆる選挙が,原発政策を判断材料にしているのに,原発反対を受け止める政党がなかったことが,鍵主政範氏に票が集まらなかった大きな要因と言えます。珠洲の反原発派の中には,「自民党前職の瓦氏にダメージを与え,原発計画を足踏みさせられれば」と考え,矢田氏に投じた人も多かったようです。

(3)「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」の開催
 1996年9月16日,蛸島漁港で「第16回全国豊かな海づくり大会」が行われたのを踏まえ,珠洲市長選挙や衆議院選挙での反原発派のしこりをほぐそうと,「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」を行うことにしました。毎年,10.26「反原子力の日」に,反連協が行って来た集会・デモでは疲れが増大すると考え,秋祭りを試みたのです。
 「趣旨」は,「多くの市民の参加を募り,豊かな自然を守るための運動の裾野の広がりを目的とし,市民・県民にアピールする」というものでした。県連帯労組会議や県教組などの支援を得,市外からの参加者も募る方向で進めました。
 また「主催」は,「珠洲の秋祭り実行委員会」で,珠洲原発反対連絡協議会・珠洲原発反対ネットワーク・自然を守る会・珠洲教組などが後押しをし,スタッフ(約40名)を募り,計画を立てました。事務局長は,反連協幹事の尾形正宏氏で,「珠洲の秋祭り実行委員会」の案内や細々とした準備・立案を行いました。
 開催日は,1996年11月16日(土)~17日(日)。
 会場は,1996年11月16日(土)が飯田小学校体育館(Mr.マリック公演),珠洲市中央公民館(講演会)。11月17日(日)が農協会館・宝立中学校(映画),鉢ヶ崎「巨大遊具」横広場(お祭り広場,フリーマーケット)で行われました。
① 内容
◇1996年11月16日(土)
(1)巻町住民講演会
 11月16日(土)午後5時~6時,珠洲市中央公民館で,新潟県巻町の中村正紀氏(高校教師)の「27年間のたたかいをふりかえって」という講演会を行いました。珠洲市勤労協単組協議会が主催し,約100名の参加がありました。69年6月に計画が公表されてから27年を経た,1996年8月4日,全国初の原発住民投票で「原発ノー」の結果を勝ち取るまでの長い闘いを,熱く語られました。
(2)パネル展「樋口健二写真展」
 11月16日(土)午後5時~6時,講演会に並行して,反連協が主催するパネル展「樋口健二展」を中央公民館で開催しました。
(3)Mr.マリック・オン・ステージIN珠洲
 11月16日(土)午後6時開場,午後7時開演~午後8時10分終了で,飯田小学校体育館で,「Mr.マリック珠洲公演実行委員会」が主催する,マジック・ショーを行いました。大人1,500円,高校生以下1,000円の前売り券を販売し,700名ほどの人が集まりました。熱気でむんむんする中,不思議で壮大なマジックを楽しみました。
(4)交流会IN鉢ヶ崎(語り合おう…大好きな珠洲)
 11月16日(土)午後9時~11時30分,鉢ヶ崎ケビン6棟を借り,「しんちゃんの家」「ライブハウス“浦おもて”」「ビデオと映画の家」「頭打ちうどん処“ひょっとこ”」「居酒屋“鉢ヶ崎”」「正院館」の店開きをしました。50名ほどの人が,出入りし,食べながら交流を深め合いました。講演会の講師の中村正紀氏も,数人の巻町の人と一緒に参加され話し合いましたが,「とてもいい企画ですね」と絶賛でした。
◇1996年11月17日(日)
(1)パネル展「樋口健二写真展」
 11月17日(日)午前10時~午後3時,前日の中央公民館に続いて,反連協が主催するパネル展「樋口健二写真展」を,鉢ヶ崎「巨大遊具」横広場で行いました。
(2)フリーマーケット
 11月17日(日)午前10時~午後3時,鉢ヶ崎「巨大遊具」横広場で行われました。魚介類(蛸島漁協),EM米・EM関連商品(自然を守る会),リンゴ(正院:小谷内),大学いも・ポン菓子・餅つき(三崎:井田),パエリア(坂本),野菜・五目ご飯(飯田),めった汁(高屋),その他自由出店6件と,テント内に店が並び,お祭り広場・催し物へ来た人と合わせて2,000名で,大盛況でした。
(3)お祭り・遊び
 11月17日(日)午前10時~午後3時,鉢ヶ崎「巨大遊具」横広場で,珠洲の秋祭り実行委員会が担当し,エコグッズ(Tシャッツ,テレホンカード,書籍,ステッカー),樋口健二著書,ビデオ10本,綿菓子,焼きそば,うどん,焼き鳥,風船,輪投げ,焼き芋などの販売がありました。
(4)催し物
 11月17日(日),鉢ヶ崎「巨大遊具」横広場で,「ビンゴ大会」(午前11時~,午後2時~),「ミニ四駆大会」(正午~),カラオケ大会(午後1時~,先着15名様),ウルトラクイズ大会(カラオケ大会終了後)がありました。入賞者には豪華商品がつき,大いににぎわいました。インターネットの紹介もありました。
(5)映画『PiPiとべないホタル』上映
「PiPiとべないホタル」珠洲上映をすすめる会(珠洲教組担当)が主催する映画を,11月17日(日),農協会館で,午前・午後の2回上映し,第3回め(19:30~21:00)は,宝立中学校体育館で上映しました。内容は「飛べない羽を持って生まれてきた蛍,ピピが,仲間のいじめや外敵に負けず,破滅を防ぐため,仲間とともにきれいな自然環境の新天地を求めていく」という映画で,勇気とやさしさに満ちたピピの生き方は,とても感動的でした。3回の上映に500名もの人が鑑賞しました。
② 反省
 「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」を終えた声として,実行委員会一同,「やって良かった」「楽しかった」「もう少しスタッフがほしかった」ということでした。
 その他,以下のような反省点が上げられます。
・フリーマーケットは,反連協の店以外,みんな即売で,盛況だった。
・やってみて,次回はあれも売りたいという声があった。珠洲の特産品を開拓し地場産業につなげる可能性を持つフリーマーケットは,さらに出店を募り拡張したらいい。
・若い人が実行委員会の中心となって奮闘し,大成功を収めた。来年度以降も継続し,定着させていくべきだ。
・開催時期は,11月よりも,もっと早い時期がいい。
・珠洲原発反対ネットワークが,主催団体としてきちんと位置づき,いずれは採算の取れるようなイベントを目指すべきだ。それまでは,ネットワークや反連協が可能な限り資金提供することが望まれる。
・「豊かな自然を守る」という観点をきちんと貫くことが大切であり,環境や健康を意識した商品や展示にも力点をおくべきだろう。

(4)珠洲原発反対ネットワークへの参加
 この1年も,毎月1回の予定で計画されたネットワークの会合に参加してきました。そして,高屋・寺家の現地や各町での推進の動きや問題を出し合い,交流しました。「珠洲の秋祭り」への協力,そこで出た声を元に,市へ申し入れにも行きました。
 1996年度は計9回(9/30,11/12,11/29,12/21,1/21,2/22,3/28,4/19,5/23)の会合が持たれました。

(5)情宣活動
① チラシなどの折り込み
 以下のように,反連協のチラシを4回,「不正選挙を糾明する会ニュース」を2回折り込みました。
 1996. 5.31 「不正選挙を糾明する会ニュース」号外
     6.20 「不正選挙を糾明する会ニュース」第15号
     6.20  反連協6月号チラシ
     8.15  反連協8月号チラシ
    10.26 「反原子力の日」のチラシ
1997. 4.26 「チェルノブイリ原発事故11周年」のチラシ
② 街宣活動
 1996年10月26日には「10.26反原子力の日」の街宣を,また1997年4月26日には「チェルノブイリ原発事故11周年」の街宣を行いました。さらに,やり直し市長選挙の投票日翌日(7月15日),田畑良幸助役が公職選挙法違反の疑いで逮捕されたのに抗議し,7月は気合を入れて市内を街宣(7/15,7/16,7/17,7/18,7/22,7/23,9/8)しました。

(6)集会やデモの組織化と参加
 県連帯労組会議の呼びかけに応え,志賀原発2号機の増設に反対する講演集会に参加しました。また公開ヒアリングに抗議し,高浜地区をデモ行進しました。
 1996.11.20 志賀原発2号機増設反対講演集会
     11.21 志賀原発2号機増設の第一次公開ヒアリング

(7)市への申し入れ
 96年9月市議会定例会に「珠洲原発計画の白紙撤回について」の請願書を提出しました。97年3月定例会には,蛸島漁協の3氏が請願者となった「珠洲原発計画の白紙撤回について」の請願書作成に協力しました。
 1997年6月2日,珠洲原発反対ネットワークとの連名で10人が出向き,珠洲市と珠洲電源開発協議会に,原発計画の白紙撤回と,秋に予定の市民フォーラムの内容変更を求める申し入れを行いました。
 1996. 9.19 9月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出([資料29])
 1997. 3. 7 3月市議会に「珠洲原発白紙撤回」の請願書を提出
     6. 2 珠洲市と珠洲電源開発協議会に申し入れ

 

  反連協のあゆみ